法の仏法なる時節、
すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
——道元(『正法眼蔵』)
この一句は、仏道を一切の二項対立ごと引き受けて立ち上がらせる宣言です。
ポイントは、「迷悟がある/ない」を論じていないこと。“あること”そのものが仏法の働きであると断言している点にあります。
1) 「法の仏法なる時節」——仏法は“状態”ではなく“時”
ここでの「時節」は、条件が整った瞬間という意味ではありません。
| 法がそのまま仏法として現れている“時”
| ——評価も選別も入る前の、出来事のただ中。
仏法は「成立している内容」ではなく、成立してしまっている出来事の時性です。
2) なぜ、迷悟・生死が“並列”されるのか
列挙は偶然ではありません。
・迷 ↔ 悟
・生 ↔ 死
・諸仏 ↔ 衆生
普通は上下・善悪・完成/未完成で分けます。
道元は分けない。しかも否定もしない。
| 仏法は、対立を消すことで成立するのではない。
| 対立がそのまま動いているところに現成する。
3) 「迷悟あり」——悟りが迷いを消さない理由
悟りが本物なら、迷いは消えるはず?
道元はそれを否定します。
・迷があるから未悟

・悟があるから完成
| 迷と悟が“ある”こと自体が、仏法のはたらき。
悟りは、迷いの対岸に行くことではない。
迷いが迷いとして現れていることを妨げない——それが悟り。
4) 「修行あり」——手段ではなく現成
修行は、悟りへ至る階段ではありません。
| 修行が起きているという事実そのものが、仏法の現成。
だからこの列挙に、
・修行→悟り
という因果は書かれていない。
並んで“ある”だけ。
5) 「生あり、死あり」——生死の否定がない
生死を超える、という発想もここでは退けられます。
| 生が生として起き、
| 死が死として起きている。
| それ以上でも、それ以下でもない。
生死が問題化されないところに、仏法の静けさがある。
6) 「諸仏あり、衆生あり」——区別は消えない
仏と衆生は“同じ”だ、とも言っていない。
| 区別はある。
| だが、区別が仏法を妨げない。
・仏だから特別
・衆生だから欠如
この上下関係が立たないだけ。
差異は、そのまま現成。
7) 主語の決定的転換
この文の隠れた主語は「私」ではありません。
・私が迷っている
・私が悟っていない
ではなく、
| 迷いが迷いとしてあり、
| 悟りが悟りとしてあり、
| 生死が生死として起きている。
主語が立たないから、裁定も所有も起きない。
8) 現代的に読むなら——「問題解決主義」への批判
現代は、
・迷いは解消すべき
・生死は克服すべき
・未完成は欠陥
という“解決モデル”で世界を見る。
道元は静かに言う。
| 解決しなくていい。
| 起きていることが、すでに仏法だ。
9) 落とし穴
誤読すると、ここに転びやすい。

何もしない正当化

相対主義(全部同じ)

苦の軽視
列挙は免罪ではない。
逃げ場のない全引き受け。
ひと言で凝縮すると
仏法とは、
迷いを消した世界でも、
生死を超えた場所でもない。
迷悟・生死・修行・仏と衆生が、
そのまま起きている“この時”そのもの。
それを除外しない眼が、仏道である。
次に深めるなら——
・この一句と「生死即涅槃」の違い
・なぜ道元は“超える”という語を避けるのか
・日常で「法の仏法なる時節」を見失う瞬間
どこを続けますか。