身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

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展開ビュー トピックのレビュー: 身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

この一節は、道元の『正法眼蔵』「現成公案」や「身心学道」などに通じる語り口で、「身心を挙して色・声を取る」という表現が示すのは、主体と対象が対立する以前の、より根源的な「体験のあり方」を問う視点です。ここから仏道的に深掘りするためのいくつかの角度を示します。

仏道的に深掘りする視点
1. 「身心を挙して」=主体の全体性が働く瞬間
「身心を挙して」とは、単に五感を使うという意味ではなく、 
分別以前の全存在的な応答を指します。

・「色を見る」「声を聞く」という行為は、通常は主体が対象を捉える構図を前提にする 
・しかし仏道では、主体と対象が分かれる前の「ただ見る」「ただ聞く」状態が重視される 
・そこでは「見る私」「見られる色」という二元がまだ成立していない 

つまり、身心全体がそのまま現象と響き合うという体験が語られています。

2. 「したしく会取すれども」=深く触れ合うが、融合ではない
「親しく会う」と言いながら、 
「鏡に影を宿すがごとくにあらず」「水と月とのごとくにあらず」と続くのは興味深い点です。

鏡と影、水と月は、 
・完全に対応する 
・しかし互いに影響しない 
・一方が他方を変えない 

という「二つが分かれたままの関係」を象徴します。

道元はここで、 
主体と対象は深く交わるが、鏡像のような二元的関係ではない 
と言っているのです。

これは禅的な「不二」の理解に近い。

3. 「一方を証するときは一方はくらし」=証悟の非固定性
この一句は非常に重要です。

・「色を証すれば声が暗くなる」 
・「声を証すれば色が暗くなる」

つまり、 
一つの現象を「これだ」と捉えた瞬間、他の側面は見えなくなる 
ということ。

これは仏教の根本的な洞察である 
「執着が世界を狭める」 
という真理を示しています。

また、禅的には 
「証」そのものが固定化した瞬間に真実から離れる 
という警句でもあります。

悟りは「何かを掴む」ことではなく、 
掴んだ瞬間に手放されるような、流動的な働きである。

4. 主体と対象の「相即」ではなく「相応」
道元はよく「相即(完全な一体化)」ではなく 
「相応(互いに応じ合う)」という関係を語ります。

ここでも、

・色と見る者 
・声と聞く者 

が「一体化する」のではなく、 
互いに応じ合いながら、しかし決して固定的な一致には落ちない 
という関係性が示されています。

これは「縁起」のダイナミックな働きそのもの。

5. 「体験の全体性」への回帰
この文章全体が示すのは、 
仏道とは、世界を分節化する以前の「生きた体験」へ戻る道である 
ということ。

・見る/見られる 
・聞く/聞かれる 
・主体/対象 
・証/迷 

こうした二元が立ち上がる前の、 
ただそのままの現成(ありのままの現れ) 
を生きること。

まとめ:仏道的な核心
この一節が伝えるのは、次のような深い洞察です。

・世界は主体と対象に分かれて存在しているのではない 
・しかし完全に一体化しているわけでもない 
・互いに応じ合う「縁起の働き」のただ中に、私たちはいる 
・何かを「証した」と思った瞬間に、別の側面が暗くなる 
・だからこそ、固定化しない「生きた気づき」が仏道である 


もしよければ、 
この文章をどのような文脈で読んでいるのか 
あるいは 
どの部分をさらに深掘りしたいか 
教えてくれれば、さらに踏み込んだ解釈もできる。
身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

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