1. 「法に転ぜられる」受動性と「法を転ずる」能動性は、どこで合一するか?
道元は「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず」という六祖の言葉を肯定しつつ、最終的に「法華が法華を転ずる」という次元へ誘います。自分が経典を読むのか、経典が自分を読むのか。この「主体性の消失と完成」の結節点はどこにあるのでしょうか。
1. 「法に転ぜられる」受動性と「法を転ずる」能動性は、どこで合一するか?
道元は「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず」という六祖の言葉を肯定しつつ、最終的に「法華が法華を転ずる」という次元へ誘います。自分が経典を読むのか、経典が自分を読むのか。この「主体性の消失と完成」の結節点はどこにあるのでしょうか。