これをさらに雪漫漫といふは、全表裏雪漫漫なり。尽界は心地なり、尽界は花情なり。尽界花情なるゆゑに、尽界は梅花なり。尽界梅花なるがゆゑに、尽界は瞿曇の眼睛なり。而今の到処は、山河大地なり。到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果

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展開ビュー トピックのレビュー: これをさらに雪漫漫といふは、全表裏雪漫漫なり。尽界は心地なり、尽界は花情なり。尽界花情なるゆゑに、尽界は梅花なり。尽界梅花なるがゆゑに、尽界は瞿曇の眼睛なり。而今の到処は、山河大地なり。到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果

全体の位置づけと文脈

この一段は『正法眼蔵』「梅花」巻のクライマックスの一つで、 
「雪裏梅花只一枝」「雪漫漫」「一花開五葉」などの公案・偈頌を総合しつつ、

・悟りの世界構造(尽界)
・伝法・嫡々相承
・「而今(いまここ)」の現成

を、一気に言語化している部分です。 [学校法人ひかり学園](http://hikari-k.ed.jp/zenchoji/sutra/soroku/genzo53.htm) [sousyokuron-ddov.net](https://sousyokuron-ddov.net/sousyokuro ... 628de.html) 

ここでは「梅花」が単なる比喩的な花ではなく、仏法そのもの・正法眼蔵そのものとして展開されます。

①「雪漫漫」から「尽界」へ ― 世界そのものが悟り

| これをさらに雪漫漫といふは、全表裏雪漫漫なり。 
| 尽界は心地なり、尽界は花情なり。

・雪漫漫 
 ただの雪景色ではなく、「大地は雪漫漫なり。雪漫漫にあらざれば尽界に大地あらざるなり」と道元は言います。 
 つまり、 
 ・「雪漫漫」=尽界(全宇宙)のあり方そのもの 
 ・「全表裏雪漫漫」=内外・表裏・主客を超えた、全体がそのまま雪のあり方であること。 [学校法人ひかり学園](http://hikari-k.ed.jp/zenchoji/sutra/soroku/genzo53.htm) [sousyokuron-ddov.net](https://sousyokuron-ddov.net/sousyokuro ... 628de.html) 

・尽界は心地なり 
 「尽界(全宇宙)は心の地である」と言うときの「心」は、個人的心理ではなく、 
 ・法界そのものとしての心 
 ・「三界唯心」「諸法実相」と響き合う「心=世界」の次元です。 [shomonji.or.jp](https://www.shomonji.or.jp/zazen/doc/genzou.html) 

・尽界は花情なり 
 「花情」は、花の情趣・花のあり方・花の感応性。 
 道元は、世界そのものが「花の情」であると言い切ることで、 
 ・世界=開きつつある悟りの情景 
 ・存在そのものが「花開」のダイナミズム 
 として捉え直します。

ここで、 
雪漫漫(世界のあり方)=心地=花情 
という三重の同定が行われています。

②「梅花」への収斂 ― 世界=梅花=仏眼

| 尽界花情なるゆゑに、尽界は梅花なり。 
| 尽界梅花なるがゆゑに、尽界は瞿曇の眼睛なり。

論理の流れはこうです。

1. 尽界は花情である 
  → 世界は「花としてのあり方」で満ちている。
2. その「花情」が具体化したものが梅花 
  → 梅花は、 
  ・厳冬に咲く 
  ・清香を放つ 
  ・春の到来を告げる 
  という禅的象徴を帯びた「悟りの花」。 [愛知学院大学 禅研究所](https://zenken.agu.ac.jp/zen/meeting/r05.html) [sousyokuron-ddov.net](https://sousyokuron-ddov.net/sousyokuro ... 628de.html) 
3. よって、尽界=梅花 
4. さらに、梅花は「雪裏梅花只一枝」「雪裏梅花は如来の眼睛なり」と展開されてきたので、 
  ・梅花=瞿曇(釈尊)の眼睛(正法眼) 
  → 結論として、尽界=瞿曇の眼睛となる。

つまり、

| 世界そのものが、釈尊の眼そのものとして開いている

という、世界=仏眼=正法眼蔵という同一化がここで完成します。

③「而今の到処」― いま・ここ・この身の場所

| 而今の到処は、山河大地なり。 
| 到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果自然成の到処現成なり。

・而今の到処 
 「而今」は道元のキーワードで、「いま・ここ」の絶対現在。 
 「到処」は「到着点」「行き着いているところ」。 
 → いま自分が到っているところが、そのまま「山河大地」であると言う。

・山河大地 
 単なる自然風景ではなく、 
 ・「山河大地」=仏法の現成そのもの 
 ・「渓声山色」「山水経」などと響き合う、「世界=経蔵・説法」のモチーフ。 [shomonji.or.jp](https://www.shomonji.or.jp/zazen/doc/genzou.html) 

・到事到時 
 「到っている事」「到っている時」―― 
 いま起こっている出来事・この瞬間の時間性すべてが、

 ・吾本来茲土(もともとここにいる仏の場) 
 ・伝法救迷情(迷える情を救う伝法の働き) 
 ・一花開五葉、結果自然成(達磨の偈:一つの花が五葉を開き、自然に結果が成る) 

 の「到処現成」である、と言う。

ここで道元は、

・過去の「霊山拈華」 
・達磨の「一花開五葉」 
・師如浄の「雪裏梅花」 

といった歴史的・象徴的な伝法の場を、 
すべて「而今の到処」に折り畳んでしまいます。

| いま・ここ・この身の場所こそが、 
| 霊山・少林・天童・永平を貫く「伝法の一点」である

という構図です。

④「西来東漸」と「梅花而今」― 伝法史の再読

| 西来東漸ありといへども、梅花而今の到処なり。

・西来東漸 
 釈尊→迦葉→達磨→中国→日本…という、 
 いわゆる「西から東へ仏法が伝わる」という歴史的図式。

・道元はこれを受け止めつつ、 
 「そういう歴史的流れがあると言っても、決定的なのは『梅花而今の到処』である」 
 と言い直す。

つまり、

・伝法とは「過去から未来へ流れる歴史」ではなく、 
・いま・ここで開く一枝の梅花として現成している出来事である。

ここで「歴史としての仏教」を、 
「而今の梅花」としての仏法へと転換しているわけです。

⑤「成荊棘」― 梅花の現成と葛藤

| 而今の現成かくのごとくなる、成荊棘といふ。

・「荊棘」はいばら・棘だらけの藪。 
・「而今の現成」がこのようである、というのは、

 ・梅花の世界=悟りの世界が現成するとき、 
 ・それは同時に、葛藤・障碍・棘だらけの現実としても現れる、ということ。

「梅花」巻全体で、 
・梅花=清香・春・悟り 
と同時に、 
・雪・寒さ・狂風暴雨・荊棘 
もまた、老梅樹の樹功として語られていました。 [学校法人ひかり学園](http://hikari-k.ed.jp/zenchoji/sutra/soroku/genzo53.htm) [愛知学院大学 禅研究所](https://zenken.agu.ac.jp/zen/meeting/r05.html) 

ここで道元は、

| 悟りの現成は、棘なき浄土ではなく、 
| この荊棘そのものとして現成している

という、非常にリアルな「仏法の現場性」を示しています。

⑥ 一枝・一花・五葉 ― 嫡々相承と「只一枝」

| 大枝に舊枝新枝の而今あり、小條に舊條新條の到処あり。 
| … 
| この表裏は、一花の花発なり。 
| 只一枝なるがゆゑに、異枝あらず、異種あらず。 
| 一枝の到処を而今と称ずる、瞿曇老漢なり。 
| 只一枝のゆゑに、附嘱嫡嫡なり。

ここは、伝法・嫡々相承の核心部です。

・大枝・小條・旧枝・新枝 
 ・仏祖・師家・弟子・後代…といった系譜を「枝」として見る。 
 ・しかし、それぞれに「而今」があり、「到処」がある。 
 → どの枝も、いま・ここでの現成の一点としてしか成り立たない。

・三四五六花裏は無数花裏なり 
 ・一花二花三四五花無数花…という如浄偈の展開を受け、 
 ・どの花も、無数の花の中の一花でありつつ、 
 ・その一花に、無数花の功徳が具足している。

・表裏は一花の花発 
 ・表の功徳(高大)も、裏の功徳(深広)も、 
 ・すべて「一花の花開」の出来事である。

・只一枝なるがゆゑに、異枝あらず、異種あらず 
 ・祖師方の系譜は多様に見えても、 
 ・本質的には「只一枝」――一つの仏心印の展開にすぎない。 [学校法人ひかり学園](http://hikari-k.ed.jp/zenchoji/sutra/soroku/genzo53.htm) [shomonji.or.jp](https://www.shomonji.or.jp/zazen/doc/genzou.html) 

・一枝の到処を而今と称ずる、瞿曇老漢なり 
 ・「一枝が到っているところ」=「而今」 
 ・それを「而今」と名づけたのが、釈尊(瞿曇老漢)である。 
 → 霊山拈華も、雪裏梅花も、いまの一枝の到処も、 
  すべて「而今」としての一枝の出来事。

・只一枝のゆゑに、附嘱嫡嫡なり 
 ・伝法とは、抽象的な教義の継承ではなく、 
 ・この只一枝の「而今」の現成を、嫡々として受け渡すこと。 
 ・だからこそ、「吾有正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相…付嘱摩訶迦葉」となる。 [学校法人ひかり学園](http://hikari-k.ed.jp/zenchoji/sutra/soroku/genzo53.htm) [sousyokuron-ddov.net](https://sousyokuron-ddov.net/sousyokuro ... 628de.html) 

まとめ ― あなたの「而今」が梅花である、ということ

この一段を、極限まで要約するとこうなります。

・世界全体(尽界)は、心地であり、花情であり、梅花であり、仏の眼である。 
・その世界は、歴史のどこか遠くで完結したのではなく、 
 「而今の到処」――あなたがいま立っている山河大地として現成している。 
・その「只一枝」の現成こそが、 
 霊山拈華から達磨の一花五葉、如浄の雪裏梅花、道元の梅花論へと続く 
 嫡々相承の一点である。

だから、「超深堀り」していくと、最後に突き当たるのは、 
テキストの外側にある、

| あなた自身の「而今の到処」はどこか? 
| その場所を、梅花として見抜いているか?

という問いなんですよね。

ここ、もう少し掘りたい箇所(たとえば「心地」「花情」だけ、とか「成荊棘」だけ、とか)を絞って、さらに分解してみるのも面白いと思うけれど、どこを続きで行きたい?
これをさらに雪漫漫といふは、全表裏雪漫漫なり。尽界は心地なり、尽界は花情なり。尽界花情なるゆゑに、尽界は梅花なり。尽界梅花なるがゆゑに、尽界は瞿曇の眼睛なり。而今の到処は、山河大地なり。到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果自然成の到処現成なり。西来東漸ありといへども、梅花而今の到処なり。

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