おほよそ仏法東漸よりこのかた、

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展開ビュー トピックのレビュー: おほよそ仏法東漸よりこのかた、

以下は、この一段を
在家否定・出家至上の歴史論として短絡せず、
「仏法の〈在処〉とは何か」「身心とは何か」「なぜ“万機心=仏祖心”が最大の誤りなのか」
という三点に焦点を絞って、仏道的に深掘りする視点です。

これは断罪文ではありません。
仏法が成立する条件を、最後まで理詰めで突きつける文です。

Ⅰ.「在家得道なし」という断言の射程

| 在家ながら得道せるもの、一人もいまだあらず

この一句は、史実主張ではありません。
また、在家者の悟り体験を否定しているのでもありません。

道元が言っている「得道」とは何か

・心境の変化
・覚醒体験
・理解の深まり

ではない。
仏法が仏法として“この世界に現成すること”

つまり、

・得道=個人の内的体験
 ではなく、
・得道=正法が歴史に立つこと

その担い手としての得道。
その意味で、
在家は「仏法の在処」になり得ない
と断言している。

Ⅱ.「仏法の在処」とは場所ではない

| 在家は仏法の在処にあらず

これは空間論ではありません。

仏法の在処とは

・建物
・寺院
・山林

ではない。
身心の帰属構造

・何に生活を預けているか
・何に最終責任を負っているか
・何が崩れたら生きられなくなるか
仏法の在処とは、
身心が完全に仏法へ帰属している状態

在家は:
・家族
・仕事
・国家
・財産

これらに身心の根を張っている。
それ自体が悪なのではない。仏法を担う構造ではない、というだけ。

Ⅲ.「見聞したら即出家」という必然構造

| 仏法その眼耳におよぶときは、いそぎて出家をいとなむ

これは規範ではない。
反射的現象である。

・熱いものに触れたら手を引く
・真に仏法が触れたら、在家でいられなくなる
出家は選択ではない結果である

Ⅳ.「万機心=仏祖心」批判の核心

ここが、この一段の最重要点です。

| 万機の身心すなはち仏祖の身心なり
| いまだかつて仏法を見聞せざるなり

「万機の心」とは何か

・政治的判断
・行政的合理性
・社会的成功
・世俗的責任感

これらを指す。

なぜこれを「黒闇獄の罪」とまで言うのか


万機心は
世俗秩序を維持するための心

仏祖心は
世俗秩序を超えて生死を引き受ける心

この二つは、

・同質ではない
・同列でもない
・混同すると、必ず仏法が壊れる

Ⅴ.「帝者が喜ぶ」言説の危険性

| しかいふを帝者よろこぶ

ここは、政治と仏法の癒着批判です。

・「あなたの政治判断こそ仏心です」
・「あなたの多忙は修行です」
これを言われて喜ばない権力はない。

しかしそれは、

・仏法を権力の免罪符にし
・出家僧を御用思想家に堕とす
この瞬間、仏法は死ぬ

Ⅵ.決定的な逆転論理

| 万機の心は仮令おのづから仏祖の心に同ずとも
| 仏祖の身心おのづから万機の身心とならんとき
| 万機の身心なるべからず

ここは非常に重要です。

意味するところ

・仮に万機心が仏祖心と同質だったとしても
・仏祖が万機を引き受けた瞬間、
 それはもはや「万機心」ではない
仏祖は、
世俗的役割を引き受けても、
世俗の論理では動かない

だから逆は成立しない。
万機心が仏祖心になることはない。

Ⅶ.「心法を知らず」という最終断罪

| 心法のゆきがた、様子をしらざるなり

ここで言う「心法」とは、

・心理学的心
・思考内容

ではない。
身心と法の一致の仕方

・心は単独で仏になるのではない
・必ず身分・生活・制度と一体で動く
それを知らずに
「心は同じだ」と言うのは、
心を抽象化し、仏法を思想に落とすこと

Ⅷ.この一段の最終的構造

この文章は、三つの否定によって一つを守っています。

1. 在家得道史観の否定
2. 心の平等論の否定
3. 政治迎合仏法の否定
守っているのは一つだけ。

| 仏法は、
| 身心を引き受ける具体的な生き方であり、
| 抽象的理念ではない

Ⅸ.参究の一句(結語)

| 仏法は心の中にあるのではない
| 心がどこに身を置いているかにある
| 身を置くところが世俗であるかぎり
| その心は、仏祖の心ではない


最後に(最重要)

この文章は、
あなたを断罪するために書かれていません。
問いは一つだけ残されています

| あなたの身心は、
| どこに根を下ろして生きているか

その問いから逃げない限り、
この文章は「暴言」ではなく、
仏法の極めて冷静な診断書として読めます。

ここまで読み切ったあなたは、
すでに仏法を「思想」としてではなく、
身命の配置問題として読んでいる地点にいます。

そこが、この一段の本当の入口です。
おほよそ仏法東漸よりこのかた、出家人の得道は稻麻竹葦のごとし。在家ながら得道せるもの、一人もいまだあらず。すでに仏法その眼耳におよぶときは、いそぎて出家をいとなむ。はかりしりぬ、在家は仏法の在処にあらず。しかあるに、万機の身心すなはち仏祖の身心なりといふやからは、いまだかつて仏法を見聞せざるなり。黒闇獄の罪人なり。おのれが言語なほ見聞せざる愚人なり、国賊なり。万機の心をもて仏祖の心に同ずるを詮とするは、仏法のすぐれたるによりて、しかいふを帝者よろこぶ。しるべし、仏法すぐれたりといふこと。万機の心は仮令おのづから仏祖の心に同ずとも、仏祖の身心おのづから万機の身心とならんとき、万機の身心なるべからず。万機心と仏祖心と一等なりといふ禅師等、すべて心法のゆきがた、様子をしらざるなり。いはんや仏祖心をゆめにもみることあらんや。

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