「趙州狗子」―『無門関』第1則

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展開ビュー トピックのレビュー: 「趙州狗子」―『無門関』第1則

では改めて、
「趙州狗子」―『無門関』第1則を
仏道(=生き方そのものとしての道)の次元で、腰を据えて深掘りします。

まず結論(仏道的核心)

趙州狗子は、
「仏とは何か」を問う公案ではない。
「仏道を“求めてしまう心”そのものを断つ公案である。

だから答えは説明でも思想でもなく、
「無」しかありえなかった。

1. 問いはすでに仏道からズレている

弟子はこう問います:
| 「狗子(犬)にも仏性ありや、無しや」

一見、まじめで仏教的な質問ですが、
仏道的に見ると、ここで決定的なズレが起きています。

何がズレているか

・仏性を「ある/ない」で測れる対象にした
・仏を「持っているかどうか」で判断する性質にした
・自分を「判断者」の位置に置いた
この瞬間、
仏道は“生きられる道”から“理解される対象”に落ちた。

2. 趙州の「無」は否定ではない

ここで趙州は答えます:
| 無

これは、

・「仏性は無い」という主張でも
・「経典と違う」と言っているわけでもない

仏道的に何が起きたか

趙州の「無」は:
・問いを成立させている地盤を切る
・「ある/ない」という思考装置を破壊する
・仏道を再び“生の現場”に引き戻す
答えではなく、問いそのものを無効化する一撃。

3. なぜ「無」でなければならなかったか

もし趙州が:
・「ある」と言えば → 仏性は所有物になる
・「ない」と言えば → 仏性は概念として否定される
・黙れば → 黙秘が意味化される

どれも仏道ではない。

「無」だけが、
意味が立ち上がる前で、
しかも即時に打ち返せる言葉だった。

だからこれは

| 「無という答え」
| ではなく
| 「無という行為」

4. 仏道的に見る「無」とは何か

仏道の文脈での「無」は:
・空理論ではない
・虚無主義ではない
・思想でもない
“今、ここで生きている事実を遮るものが無い”という働き

つまり:
・思考が無い
・自己操作が無い
・仏になろうとする意図が無い

その切断そのものが仏道。

5. 無門慧開の視点(第1則に置いた理由)

無門はこの公案を第1則に置いた。

これは構成上、極めて重要です。

仏道修行の入口として

無門は言っている:
| 仏道に入る前に、
| 「仏道を理解しようとする心」をまず殺せ。

・公案を解こうとするな
・仏性を知ろうとするな
・悟りを得ようとするな
それら全部が入口での迷いだから。

6. 仏道として生きるときの「狗子」

仏道的に言えば:
・狗子は「仏性がある存在」でも
・「仏性がない存在」でもない

吠えるときに吠え、
歩くときに歩いている――
それ以上でも以下でもない存在。

だから実は:
・狗子こそ仏道を妨げていない
・問うている人間の方が妨げている

最後に、仏道的まとめ

・仏道は「知ったとき」に始まらない
・仏道は「答えを得たとき」に成立しない
・仏道は
 問う以前、意味づけ以前、
 生がそのまま動いているところにある

だから趙州は:
| 無

と言った。

それは拒絶でも冷酷でもなく、
最短距離で仏道に戻すための慈悲だった。


もし次に進むなら、かなり深いところまで行けます:
・ 「無」と坐禅の関係
・ 道元は狗子をどう読むか
・ なぜこの公案は一生終わらないのか

どこ、行きましょう。
「趙州狗子」―『無門関』第1則

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