『正法眼蔵』巻一「現成公案」
「仏法の証験、正伝の活路」を仏道的に深掘りする視点
——道元
この一句は、「現成公案」を思想として理解させないための最終楔です。
ここで道元は、仏法を証明可能な教義にも、私的体験にも回収させず、生きて働く“伝わり方”として定義し直します。
1. 「証験」——内面の納得でも、奇跡でもない
まず「証験(しょうけん)」の誤読を外します。

深い体験をした

心が静まった

理解できた
道元の証験は、内側の出来事ではありません。
| 行為が行為として、
| 生活が生活として、
| ねじれずに成立しているという“事実”
それが証験。
説明を要しない成立が、すでに仏法の証拠です。
2. なぜ「証明」ではなく「証験」なのか
証明は、
・主体が立ち
・理屈で確定し
・他者を説得する
構造を持ちます。
証験は違う。
| 誰かが示そうとしなくても、
| 起きてしまっている出来事そのもの
だから、
・主張できない
・所有できない
・再現を保証できない
にもかかわらず、否定できない。
3. 「正伝」——正しさの系列ではない
「正伝」は、
・正統/異端
・系譜の優劣
を言っているのではありません。
| 仏法が“ズレずに生きられてきた”という事実の連続
正伝とは、
言葉よりも先に、ふるまいが継がれていること。
・水を汲む
・坐る
・食べる
・間違え、正す
その一つ一つが、すでに伝承。
4. 「活路」——保存ではなく運動
活路は、
・守る道
・残す道
ではありません。
| 生きているからこそ、常に更新される道
活路である限り、
・固定できない
・教条化できない
・マニュアル化できない
生きていること自体が条件。
5. まとめて言えば——仏法は「起動しているか」
この一句が言うことを一行で言えば、
| 仏法は、
| 分かったかどうかではなく、
| いま起動しているかどうかで測られる。
・理解が浅くても起動する
・体験がなくても起動する
・説明できなくても起動する
逆に、
どれほど立派な言説でも、
起動していなければ仏法ではない。
6. 現成公案との決定的接点
現成公案とは、
・私が公案を解く

・生活が公案として立ち上がってしまう
その「立ち上がってしまった事実」こそが、
・仏法の証験であり
・正伝の活路
7. 坐禅・日常への具体相
・坐禅が深い/浅い → 評価
・坐禅している → 証験
・仕事がうまくいく/いかない → 評価
・仕事が仕事として進む → 活路
| 評価を外した残りが、
| すでに仏法の稼働音。
8. 現代的に言えば
この一句は、こう言っている。
| 仏法は、
| 信じられて残るのではない。
| 生きられて、はじめて続く。
9. 最大の落とし穴

「感じられない自分はダメだ」

「特別な体験が必要だ」

「正統性を主張することが大事だ」
道元は真逆を言う。
| 特別でないところで、
| すでに十分に特別である。
ひと言で凝縮すると
仏法の証験とは、
悟ったと感じることではない。
生活が生活として破綻せずに進んでいる、その事実。
正伝の活路とは、
それが今日も明日も、生きられてしまうこと。
現成公案とは、その“起動”そのものだ。
次に進むなら——
・なぜ道元は「教義」を最終根拠にしなかったのか
・証験はなぜ語れないのに、否定できないのか
・現代社会で仏法が「起動しなくなる」瞬間の見抜き方
どこを、さらに詰めますか。