有時三頭八臂、有時丈六八尺。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元
この一句は、「有時(うじ)」の時間論が形相・尺度・聖俗の別をどう超えるかを、最も鋭く示します。要点は、異形か正像かではなく、“どの形が時として立っているか”です。
1) 二つの像が示す極端
・三頭八臂:多面・異形・超常(密教尊や忿怒尊の相)
→ 力・多能・畏怖。通常の身体理解を破る形。
・丈六八尺:定型・正像(仏身の標準的尺度)
→ 秩序・規範・測定可能な形。
普通はここに上下・正邪・正統/異端を置く。
道元は置かない。
2) 有時は「形の評価」を要しない
この文は、どちらが真の仏身かを決めていません。
| 形が“正しい”から時になるのではない。
| 起動している事実そのものが、時である。
異形であれ定型であれ、作動している全体性が立つ瞬間、等しく有時。
3) 尺度が崩れるところで、時間が立つ
・三頭八臂:測れない(尺度外)
・丈六八尺:測れる(尺度内)
この対置は、測定可能/不可能の両極。
有時は、尺度に依存しない時間を示す。
| 測れる時も、測れない時も、
| そのまま“現在”として成立する。
4) 聖俗・内外・主体客体の同時解体
・異形=宗教的・内的
・正像=制度的・外的
という分割も無効。
| 内外の別が立つ前に、
| 形が全体として起動している。
ここでは「私が見る/信じる」主語が退く。
5) 修証一等の形相版
悟りが形を固定するなら、異形は排除される。
修証一等では逆。
| 悟りは、形を“選ばない”。
| その都度、起動した形がそのまま証である。
完成像への到達ではなく、その都度の成立。
6) 坐禅・実践への引き寄せ
・心が散乱し多方向に動く(“三頭八臂”的)
・心が整い静まる(“丈六八尺”的)
どちらが良いかを測った瞬間、有時を外す。
| いま起動している相を、
| 付け足さず、否定せず、
| そのまま生き切る。
| それが有時。
7) 現代的に言い換える
| 多忙で分裂的な私も、
| 落ち着き整った私も、
| 起動している限り、等しく“いま”を成立させている。
| 正解の形を探すな。
8) 落とし穴
・

異形礼賛(神秘主義)
・

定型固執(規範主義)
・

心理状態の優劣化
道元は形のロマンではなく、時間の厳密を示す。
ひと言で凝縮すると
「有時三頭八臂、有時丈六八尺」とは、
異形も定型も、起動した瞬間に等しく“時”になるという宣言。
正しさや尺度が時間を作るのではない。
立ち上がってしまった全体が、ただちに現在である。
続けるなら——
・形相と有時が「無情説法」とどう重なるか
・規範が強い場で有時が失われる瞬間
・実践で“尺度が立った合図”の見抜き方
どこを掘りますか。