正法眼蔵 続篇(擬作) — 無辺行持巻 —

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正法眼蔵 続篇(擬作)
— 無辺行持巻 —

それ仏道をならうとは、自己をならうなり。自己をならうとは、自己をわするるなり。しかあれば、自己をわするるとは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるとき、身心および他己の身心、ことごとく脱落す。

しかあるに、衆生しばしば「脱落」を聞きて、これを虚無とおもう。あやまりなり。脱落は滅にあらず、現成なり。滅と現成と、二にあらざるゆえに脱落と称す。

たとえば春風、花を散ずといえども花を亡ぼすにあらず。散ずるところ、まさに花の全機現成なり。花もし散ぜざらんと欲せば、春風すでに花なり。

しかあれば知るべし、行持とは功徳を積むことにあらず、仏行の現前なり。仏行とは、いまここに行ずる一歩のなかに尽界を具足するなり。

ゆえに古仏いわく、
「一歩すすむとき、万法すすむ」

しかあれども凡夫は、一歩を小なりとみ、万法を遠しとみる。これは眼の狭きなり。

もし一歩を一歩として究尽すれば、その一歩すでに法界の全歩なり。法界の全歩なるゆえに、前後なし、大小なし。

ゆえに知るべし、修証は二にあらず。修を離れて証なし、証を離れて修なし。

たとえば灯火の光、燃ゆるところを離れて光なし。しかあれども光をもとめて炎をすてんとするは愚なり。炎すなわち光、光すなわち炎なり。

このゆえに仏祖の大道は、
修すれば証するにあらず、
修すなわち証なり。

しかあれば、いま坐禅するとき、これを修とおもうことなかれ。いま坐禅するところ、すでに無量仏の坐禅現成なり。

このゆえに山河大地は仏祖の坐禅なり。
草木国土は仏祖の呼吸なり。
衆生の迷悟は仏祖の遊戯なり。

しかあれども人みな迷悟を二とみる。

もし迷をきわめて迷を尽くすとき、迷すなわち悟なり。悟をとらんとするところ、すでに悟を失う。

ゆえに古徳いわく、
「悟をもとむる心、すでに迷なり」

しかあれば、仏道は求むるにあらず。仏道は現ずるなり。

現ずるとは何ぞ。

いまこの一念、起滅するところに仏祖の全機あり。念をとらんとすればすでに過ぎ、捨てんとすればすでに在り。

このゆえに古仏いわく、
「水月をとらんとすれば水動ず、水動ずれば月また動ず」

しかあれども水月は去来せず。

かくのごとく仏法もまたしかなり。
得ることなし、失うことなし。

得失なきゆえに、行持尽未来際なり。

ゆえに知るべし、
一塵起こるところ、無量仏土起こる。
一塵滅するところ、無量仏土滅する。

しかあれども、塵はもとより塵にあらず、仏土はもとより仏土にあらず。

このゆえに仏祖いわく、
「空を見て空に著せず、色を見て色に著せず」

著せざるゆえに、空すなわち色、色すなわち空。

しかあれば仏道とは、
離るるにあらず、
とどまるにあらず、
ただ現成の一念なり。

この一念を疑うとき、万劫の迷なり。
この一念を究むるとき、万劫の仏なり。

ゆえに仏祖の大道は遠からず。
ただ人、みずから遠くするのみ。

しるべし、
山は歩む、
水は語る、
石は説法す。

これを聞かざるは耳の罪にあらず、心の隔てなり。

もし一念を放下すれば、
山河大地ただちに正法眼蔵なり。

これすなわち無辺行持なり。
正法眼蔵 続篇(擬作)
— 無辺行持巻 —

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