師いはく、莫妄想。この宗旨は、作麼生なるべきぞ。

師いはく、莫妄想。この宗旨は、作麼生なるべきぞ。妄想することなかれ、といふなり。しかあれば、両頭倶動するに、妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ仏性は妄想なしといふか。仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するか、とも参究すべし。
  動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著するか。
  風火未散といふは、仏性を出現せしむるなるべし。仏性なりとやせん、風火なりとやせん。仏性と風火と、倶出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず。ゆゑに長沙は蚯蚓有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず。ただ莫妄想と道取す、風火未散と道取す。仏性の活計は、長沙の道を卜度すべし。風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに、未散といふか。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。たとへば一音の法をとく時節到来なり。説法の一音なる、到来の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに。
  又、仏性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解なり。生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。
  無始劫来は、癡人おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり。さらに仏性を道取するに、拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。還委悉麼。
  三頭八臂。
3.佛性正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 釈迦牟尼仏言、一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易。(0)  一切諸仏 一切祖師の頂額眼睛なり。(0)  世尊の道ふ一切衆生 悉有仏性、その宗旨いかん。(0)  是什麼物恁麼来の道転法輪なり。(1)  あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。(1)  ――「仏性は“あるもの”ではなく、“成仏と同時に現れる働き”である」(0)  仏性は 何かが中にあることではなく、 “存在が存在として成立している仕方”そのもの(0)  佛性は有でも無でもない理由(0)  佛性は有と言えば、固定化する、無と言えば、否定対象になる👉 どちらも「対象化」だから誤り(0)  往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稻麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。(0)  ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに條條の赤心な(0)  仏言はく、仏性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す。   いま仏性義をしらんとおもはばといふは、ただ知のみにあらず、行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかんとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふ(0)  当観といふは、能観所観にかかはれず、正観邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり、時節因縁漸なり、超越因縁なり。仏性漸なり、脱体仏性なり。仏仏漸なり、性性漸なり。(0)  時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、弁道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見(0)  第十二祖馬鳴尊者、第十三祖のために仏性海をとくにいはく、 山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲発現。   しかあれば、この山河大地、みな仏性海なり。皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり。すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性(0) 
師いはく、莫妄想。この宗旨は、作麼生なるべきぞ。妄想することなかれ、といふなり。しかあれば、両頭倶動するに、妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ仏性は妄想なしといふか。仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するか、とも参究すべし。
  動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著するか。
  風火未散といふは、仏性を出現せしむるなるべし。仏性なりとやせん、風火なりとやせん。仏性と風火と、倶出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず。ゆゑに長沙は蚯蚓有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず。ただ莫妄想と道取す、風火未散と道取す。仏性の活計は、長沙の道を卜度すべし。風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに、未散といふか。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。たとへば一音の法をとく時節到来なり。説法の一音なる、到来の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに。
  又、仏性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解なり。生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。
  無始劫来は、癡人おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり。さらに仏性を道取するに、拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。還委悉麼。
  三頭八臂。