仏道は、不道を擬するに不得なり、不学を擬するに転遠なり。

この一句は短いですが、道元仏道の核心を一点に凝縮した刃のような言葉です。
ここでは「仏道的に深掘りする視点」を、解釈 → 転倒 → 実践の三層で示します。

原文

| 仏道は、不道を擬するに不得なり、不学を擬するに転遠なり。

① 表層の意味(文意の整理)

・不道を擬するに不得なり
  仏道は、仏道でないもの(世俗・外道・否定)を“仏道の代わり”にすることはできない。

・不学を擬するに転遠なり
  「学ばないこと」「何もしないこと」を仏道だと思えば、かえって遠ざかる。


仏道は、否定や放棄や無為を仏道にすり替えることを許さない。

② 仏道的な転倒批判(ここが重要)

この一句が切っているのは、修行者が陥りやすい二つの錯覚です。

❌ 錯覚①「世俗否定=仏道」

・欲を捨てればよい
・世間を離れればよい
・何もかも否定すれば清浄になる

→ これは「不道を仏道に擬する」こと。

道元にとって、
否定そのものは仏道ではない。


❌ 錯覚②「何もしない=仏道」

・学ばない
・考えない
・修行しない
・ただ自然に任せる

→ これは「不学を仏道に擬する」こと。

道元はここで、
「自然体」「放っておく」「無努力」思想を明確に切り捨てています。

③ 仏道的に深掘りする視点(核心)
仏道とは「学道そのもの」

この一句の裏には、道元の一貫した立場があります。

| 仏道とは、悟りの状態ではなく、学び続ける運動である。

・仏道は「完成されたもの」ではない
・仏道は「止まった境地」ではない
・仏道は「何かをやめた結果」でもない


学び続けている“あり方そのもの”が仏道。

④ 「学ばないと遠ざかる」の深意

なぜ「不学」が遠ざかるのか。

仏道的理由

・仏道は、身心を通して現れる現成であり
・学ばないとは、身心を仏道に開かないこと

つまり「不学」とは、

・怠慢の問題ではなく
・自己を固定したままにする態度


学ばないとは、自己を更新しないこと。

それは仏道から最も遠い。

⑤ 実践への落としどころ(ここが生きる)

この一句を生かす問いは、次です。

| ❓ いま私は
| 「否定して安心していないか」
| 「何もしないことを悟りだと思っていないか」

仏道的には、

・迷いながら学ぶ → 仏道
・未熟なまま修行する → 仏道
・わからないまま問い続ける → 仏道

わかったつもりで止まる瞬間こそ、不学。

⑥ 一言で言えば

| 仏道は、逃げ場ではない。
| 仏道は、学び続ける覚悟である。


もしご希望があれば

・「不学」とは具体的にどんな心の動きか
・現代人(仕事・家庭)の中での「不道」「不学」
・坐禅との直接的関係

など、さらに踏み込んで掘り下げます。
4.身心學道正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 仏道的に深掘りする視点(0)  仏道は、不道を擬するに不得なり、不学を擬するに転遠なり。(0)  これ発菩提心なり、赤心片片なり、古仏心なり、平常心なり、三界一心なり。(0)  「牆壁瓦礫(壁や石ころ)」までもが仏の心であり、「進歩退歩(歩くこと)」そのものが仏の体である。(0)  「不学(ふがく)を擬(ぎ)するに転遠(てんえん)なり」という冒頭の言葉は、修行における「学び」の重要性をどう示していますか?(0)  「心をもって学道する」際、道元が「山河大地、日月星辰、これ心なり」と述べるのはなぜでしょうか?(0)  「古仏心(こぶつしん)」を「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃき:壁や瓦くず)」と表現した国師の意図は何ですか?(0)  「平常心(びょうじょうしん)」を「千門万戸一時開閉(せんもんばんこいちじかいへい)」と例えるのは、どのような心の状態を指していますか?(0)  「身をもって学道する」とは、具体的にどのような行為を指していますか?(0)  道元が「自然見(じねんけん)の外道」を厳しく戒めるのはなぜですか?(0)  「尽十方界(じんじっぽうかい)は是(これ)箇(こ)の真実人体なり」という言葉は、私たちの身体と宇宙の関係をどう表現していますか?(0)  「一塵(いちじん:一粒の塵)に十方を諦観(ていかん)すべし」という微視的な視点は、学道にどう関わりますか?(0)  「生も全機現(ぜんきげん)、死も全機現」という圜悟(えんご)禅師の言葉を、道元はどう深く掘り下げていますか?(0)  「身心学道」の結論として、私たちは「迷い」や「悟り」の議論を超えてどこへ向かうべきだと説かれていますか?(0) 
この一句は短いですが、道元仏道の核心を一点に凝縮した刃のような言葉です。
ここでは「仏道的に深掘りする視点」を、解釈 → 転倒 → 実践の三層で示します。

原文

| 仏道は、不道を擬するに不得なり、不学を擬するに転遠なり。

① 表層の意味(文意の整理)

・不道を擬するに不得なり
  仏道は、仏道でないもの(世俗・外道・否定)を“仏道の代わり”にすることはできない。

・不学を擬するに転遠なり
  「学ばないこと」「何もしないこと」を仏道だと思えば、かえって遠ざかる。


仏道は、否定や放棄や無為を仏道にすり替えることを許さない。

② 仏道的な転倒批判(ここが重要)

この一句が切っているのは、修行者が陥りやすい二つの錯覚です。

❌ 錯覚①「世俗否定=仏道」

・欲を捨てればよい
・世間を離れればよい
・何もかも否定すれば清浄になる

→ これは「不道を仏道に擬する」こと。

道元にとって、
否定そのものは仏道ではない。


❌ 錯覚②「何もしない=仏道」

・学ばない
・考えない
・修行しない
・ただ自然に任せる

→ これは「不学を仏道に擬する」こと。

道元はここで、
「自然体」「放っておく」「無努力」思想を明確に切り捨てています。

③ 仏道的に深掘りする視点(核心)
仏道とは「学道そのもの」

この一句の裏には、道元の一貫した立場があります。

| 仏道とは、悟りの状態ではなく、学び続ける運動である。

・仏道は「完成されたもの」ではない
・仏道は「止まった境地」ではない
・仏道は「何かをやめた結果」でもない


学び続けている“あり方そのもの”が仏道。

④ 「学ばないと遠ざかる」の深意

なぜ「不学」が遠ざかるのか。

仏道的理由

・仏道は、身心を通して現れる現成であり
・学ばないとは、身心を仏道に開かないこと

つまり「不学」とは、

・怠慢の問題ではなく
・自己を固定したままにする態度


学ばないとは、自己を更新しないこと。

それは仏道から最も遠い。

⑤ 実践への落としどころ(ここが生きる)

この一句を生かす問いは、次です。

| ❓ いま私は
| 「否定して安心していないか」
| 「何もしないことを悟りだと思っていないか」

仏道的には、

・迷いながら学ぶ → 仏道
・未熟なまま修行する → 仏道
・わからないまま問い続ける → 仏道

わかったつもりで止まる瞬間こそ、不学。

⑥ 一言で言えば

| 仏道は、逃げ場ではない。
| 仏道は、学び続ける覚悟である。


もしご希望があれば

・「不学」とは具体的にどんな心の動きか
・現代人(仕事・家庭)の中での「不道」「不学」
・坐禅との直接的関係

など、さらに踏み込んで掘り下げます。