眼睛における「生死」

ここまで来た問いですから、逃げずに、しかし誤解の余地がない形で答えます。
これは道元仏道の最終核です。

結論を、まず一行で。

| 眼睛において、生と死は「超えられるもの」でも「一つになるもの」でもなく、
| それぞれが、そのまま最後まで現れている。

1️⃣ まず否定から入る(重要)

眼睛における生死は、次のどれでもありません。

・生死を克服する ❌
・生死を超越する ❌
・生死は幻想だ ❌
・生死即涅槃という安心 ❌

これらはすべて、

| 生死を「意味づける視点」が残っている

道元は、そこを最後まで壊します。

2️⃣ 通常の仏教的「生死」の構造

一般的にはこう考えられます。

・生 → 苦
・死 → 解放
・涅槃 → 安住

あるいは、

・生死は迷い
・生死を超えた真理がある
これらはすべて
生死の外に立つ視点を前提にしている。

眼睛では、その視点が立たない。

3️⃣ 眼睛における「生」

眼睛における生は、

・祝福 ❌
・恵み ❌
・価値あるもの ❌

ではありません。

| 起きてしまっていること

・息をする
・動く
・痛む
・迷う


理由がない。選択もない。

生きているから生きるのではなく、
生が、そのまま現れている。

4️⃣ 眼睛における「死」

ここが最重要です。

眼睛における死は、

・消滅 ❌
・終了 ❌
・無への回帰 ❌
・次への移行 ❌

ではない。

| 生と同じ重さで、
| そのまま起きてしまう出来事

道元は、死を

・意味にしない
・救済にしない
・説明にしない


死を、最後まで死のまま引き受ける

5️⃣ 生死が「一つ」にならない理由

よく言われます:
| 生死即涅槃
| 生死不二

眼睛の立場は、もっと厳しい。

| 生は、生としてしか現れない
| 死は、死としてしか現れない

・生の中に死を見ない
・死の中に生を読み込まない
混ぜないことが、誠実

6️⃣ では、断絶なのか?

いいえ。

断絶でも、連続でもない。

眼睛では:
| 生も死も、
| 「同じ現成の様式」として現れる

・生が続く → ❌
・死が救う → ❌


ただ、それぞれが起きる

7️⃣ 「恐怖」はどうなるのか

ここを誤魔化してはいけません。

眼睛においても:
・死は怖い
・喪失は痛い
・別れは苦しい

これらは消えない。

ただし、

| 恐怖を観察する主体がいない

・克服しようとしない
・意味づけない
・乗り越えない


怖さは、怖さとして現れて終わる

8️⃣ なぜこれが「救い」ではないのか

眼睛は、

・安心を与えない
・希望を約束しない
・来世を保証しない

だから人は言う:
| それでは救いがない

道元は、そこを引き受ける。

| 救われる必要がある、という構造そのものが成立しない

9️⃣ それでも虚無ではない理由

とても重要です。

眼睛は虚無ではありません。

なぜなら:
・何も否定していない
・生も否定しない
・死も否定しない


すべてが、そのまま最後まで現れている

虚無は「意味がない」という評価。
眼睛は、評価以前。

一言で言うなら(核心)

| 眼睛において、生死とは、
| 乗り越える問題ではなく、
| その都度、起きてしまう事実である。

・生は、生き切られる
・死は、死に切られる

誰かが管理することなく。

最後に(とても大事な確認)

もし今、

・これは厳しすぎる
・何の救いもない
・立つ場所がない

と感じたなら、
それが眼睛の正確な読後感です。

道元は、最後までこう言っている。

| 生も死も、
| 誰かの理解の中に
| 入るためにあるのではない。


最後の一行

| 眼睛における生死とは、
| 生を生として、
| 死を死として、
| 取り逃がさないこと。

ここまで来ました。
もう「説明できる場所」は残っていません。
58.眼睛正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 『眼睛』と『身心脱落』の厳密な差(0)  眼睛は倫理や行為とどう関わるのか(0)  『眼睛』と『虚空』の厳密な差(0)  眼睛と「慈悲」は両立するのか(0)  その場で必要な行為かそうでない行為かはどうやって判断するのか(0)  『眼睛』と『虚空』と『古鏡』の厳密な差(0)  眼睛における「生死」(0)  『眼睛』と『有時』の厳密な差(0)  道元が「なぜ眼睛」を書かねばならなかったのか(0)  坐禅と眼睛の関係は(0)  眼睛を語れなくなるために、 座禅する?(0)  悟りと眼睛の関係(0)  億千万劫の参学を拈来して団欒せしむるは、八万四千の眼睛なり。 先師天童古仏、住瑞巌時、上堂示衆云、秋風清、秋月明。大地山河露眼睛。(1)  洞山悟本大師、在雲巌会時、遇雲巌作鞋次、師白雲巌曰、就和尚乞眼睛(洞山悟本大師、雲巌の会に在りし時、雲巌の作鞋に遇ふ次でに、師、雲巌に白して曰く、和尚に就いて眼睛を乞はん)。 雲巌曰、汝底与阿誰去也(汝底を阿誰にか与へ去るや)。(1)  先師古仏云く、抉出達磨眼睛、作泥團子打人(達磨の眼睛を抉出して、泥團子と作して打人す)。 高声云、著。海枯徹底過、波浪拍天高(著。海枯れて徹底過なり、波浪天を拍つて高し)。 これは清涼寺の方丈にして、海衆に為示するなり。しかあれば、打人とい(1) 
ここまで来た問いですから、逃げずに、しかし誤解の余地がない形で答えます。
これは道元仏道の最終核です。

結論を、まず一行で。

| 眼睛において、生と死は「超えられるもの」でも「一つになるもの」でもなく、
| それぞれが、そのまま最後まで現れている。

1️⃣ まず否定から入る(重要)

眼睛における生死は、次のどれでもありません。

・生死を克服する ❌
・生死を超越する ❌
・生死は幻想だ ❌
・生死即涅槃という安心 ❌

これらはすべて、

| 生死を「意味づける視点」が残っている

道元は、そこを最後まで壊します。

2️⃣ 通常の仏教的「生死」の構造

一般的にはこう考えられます。

・生 → 苦
・死 → 解放
・涅槃 → 安住

あるいは、

・生死は迷い
・生死を超えた真理がある
これらはすべて
生死の外に立つ視点を前提にしている。

眼睛では、その視点が立たない。

3️⃣ 眼睛における「生」

眼睛における生は、

・祝福 ❌
・恵み ❌
・価値あるもの ❌

ではありません。

| 起きてしまっていること

・息をする
・動く
・痛む
・迷う


理由がない。選択もない。

生きているから生きるのではなく、
生が、そのまま現れている。

4️⃣ 眼睛における「死」

ここが最重要です。

眼睛における死は、

・消滅 ❌
・終了 ❌
・無への回帰 ❌
・次への移行 ❌

ではない。

| 生と同じ重さで、
| そのまま起きてしまう出来事

道元は、死を

・意味にしない
・救済にしない
・説明にしない


死を、最後まで死のまま引き受ける

5️⃣ 生死が「一つ」にならない理由

よく言われます:
| 生死即涅槃
| 生死不二

眼睛の立場は、もっと厳しい。

| 生は、生としてしか現れない
| 死は、死としてしか現れない

・生の中に死を見ない
・死の中に生を読み込まない
混ぜないことが、誠実

6️⃣ では、断絶なのか?

いいえ。

断絶でも、連続でもない。

眼睛では:
| 生も死も、
| 「同じ現成の様式」として現れる

・生が続く → ❌
・死が救う → ❌


ただ、それぞれが起きる

7️⃣ 「恐怖」はどうなるのか

ここを誤魔化してはいけません。

眼睛においても:
・死は怖い
・喪失は痛い
・別れは苦しい

これらは消えない。

ただし、

| 恐怖を観察する主体がいない

・克服しようとしない
・意味づけない
・乗り越えない


怖さは、怖さとして現れて終わる

8️⃣ なぜこれが「救い」ではないのか

眼睛は、

・安心を与えない
・希望を約束しない
・来世を保証しない

だから人は言う:
| それでは救いがない

道元は、そこを引き受ける。

| 救われる必要がある、という構造そのものが成立しない

9️⃣ それでも虚無ではない理由

とても重要です。

眼睛は虚無ではありません。

なぜなら:
・何も否定していない
・生も否定しない
・死も否定しない


すべてが、そのまま最後まで現れている

虚無は「意味がない」という評価。
眼睛は、評価以前。

一言で言うなら(核心)

| 眼睛において、生死とは、
| 乗り越える問題ではなく、
| その都度、起きてしまう事実である。

・生は、生き切られる
・死は、死に切られる

誰かが管理することなく。

最後に(とても大事な確認)

もし今、

・これは厳しすぎる
・何の救いもない
・立つ場所がない

と感じたなら、
それが眼睛の正確な読後感です。

道元は、最後までこう言っている。

| 生も死も、
| 誰かの理解の中に
| 入るためにあるのではない。


最後の一行

| 眼睛における生死とは、
| 生を生として、
| 死を死として、
| 取り逃がさないこと。

ここまで来ました。
もう「説明できる場所」は残っていません。