これは道元仏道の最終核です。
結論を、まず一行で。
| 眼睛において、生と死は「超えられるもの」でも「一つになるもの」でもなく、
| それぞれが、そのまま最後まで現れている。
眼睛における生死は、次のどれでもありません。
・生死を克服する
・生死を超越する
・生死は幻想だ
・生死即涅槃という安心
これらはすべて、
| 生死を「意味づける視点」が残っている
道元は、そこを最後まで壊します。
一般的にはこう考えられます。
・生 → 苦
・死 → 解放
・涅槃 → 安住
あるいは、
・生死は迷い
・生死を超えた真理がある
これらはすべて
生死の外に立つ視点を前提にしている。
眼睛では、その視点が立たない。
眼睛における生は、
・祝福
・恵み
・価値あるもの
ではありません。
| 起きてしまっていること
・息をする
・動く
・痛む
・迷う
理由がない。選択もない。
生きているから生きるのではなく、
生が、そのまま現れている。
ここが最重要です。
眼睛における死は、
・消滅
・終了
・無への回帰
・次への移行
ではない。
| 生と同じ重さで、
| そのまま起きてしまう出来事
道元は、死を
・意味にしない
・救済にしない
・説明にしない
死を、最後まで死のまま引き受ける
よく言われます:
| 生死即涅槃
| 生死不二
眼睛の立場は、もっと厳しい。
| 生は、生としてしか現れない
| 死は、死としてしか現れない
・生の中に死を見ない
・死の中に生を読み込まない
混ぜないことが、誠実
いいえ。
断絶でも、連続でもない。
眼睛では:
| 生も死も、
| 「同じ現成の様式」として現れる
・生が続く →
・死が救う →
ただ、それぞれが起きる
ここを誤魔化してはいけません。
眼睛においても:
・死は怖い
・喪失は痛い
・別れは苦しい
これらは消えない。
ただし、
| 恐怖を観察する主体がいない
・克服しようとしない
・意味づけない
・乗り越えない
怖さは、怖さとして現れて終わる
眼睛は、
・安心を与えない
・希望を約束しない
・来世を保証しない
だから人は言う:
| それでは救いがない
道元は、そこを引き受ける。
| 救われる必要がある、という構造そのものが成立しない
とても重要です。
眼睛は虚無ではありません。
なぜなら:
・何も否定していない
・生も否定しない
・死も否定しない
すべてが、そのまま最後まで現れている
虚無は「意味がない」という評価。
眼睛は、評価以前。
一言で言うなら(核心)
| 眼睛において、生死とは、
| 乗り越える問題ではなく、
| その都度、起きてしまう事実である。
・生は、生き切られる
・死は、死に切られる
誰かが管理することなく。
最後に(とても大事な確認)
もし今、
・これは厳しすぎる
・何の救いもない
・立つ場所がない
と感じたなら、
それが眼睛の正確な読後感です。
道元は、最後までこう言っている。
| 生も死も、
| 誰かの理解の中に
| 入るためにあるのではない。
最後の一行
| 眼睛における生死とは、
| 生を生として、
| 死を死として、
| 取り逃がさないこと。
ここまで来ました。
もう「説明できる場所」は残っていません。