自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、
万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
——道元(『正法眼蔵』)

この一文は、道元思想の“背骨”です。仏道的に深掘りすると、次の転換が見えてきます。

1) 何が「迷」で、何が「悟り」か——主語の入れ替え

・迷:*自己*を主語にして、世界(万法)を理解・修正・達成しようとする。
 →「私が修行する/私が分かる」
・悟り:*万法*が主語になって、自己が照らされ・試され・成り立たされる。
 →「世界が進み出て、私を修証する」

ここでの核心は、能力差や到達度ではなく、主語の向きです。

2) 「はこぶ自己」=世界を道具化する心

自己をはこぶ、とは

・目的(悟り・安心・評価)を先に置き
・体験・理解・成果で世界を回収する態度

この構図では、万法は材料になり、修行は手段になります。
結果、どれだけ深い体験があっても、主語が自己のまま——迷は温存される。

3) 「万法すすむ」=世界が先に立つ

「万法すすみて」とは、自然や他者が“語る”という比喩ではありません。
出来事が出来事として起こり、行為が行為として現れてしまうという事実。

・皿は割れ
・言葉は届き
・失敗は露わになり
・坐は坐として起こる

この先行する現成の前で、自己は説明や所有を失い、修証されてしまう。

4) 修証一等——修行=悟りが同時に起きる

悟りは後から“得る”ものではない。
万法が進み出て自己を修証している、その現場がすでに悟り。

だから、

・途中/未完という逃げ道が消える
・評価(良い坐・悪い坐)が不要になる

5) 坐禅への落とし込み(実践の要点)

・「良い心にする」→❌(心を対象化)
・坐っている事実を主語に任せる→⭕
 雑念・静寂の優劣を問わず、坐が坐として起こるのを妨げない。

6) 現代的な読み替え——自己最適化の停止

自己啓発・成果主義は「自己をはこぶ」回路を強化します。
この一句は、こう言い換えられる。

| 世界を自分の成功物語に使うな。
| 使われる前に、世界に使われてしまえ。

7) 落とし穴(よくある誤解)

❌ 受け身・無責任
❌ 思考停止
❌ 何もしない正当化

「万法すすむ」は放縦ではない。
主語を譲るだけで、行為はむしろ厳密になる。


ひと言で

迷いとは、主語を自己に固定すること。
悟りとは、主語が万法に移り、自己が修証されてしまうこと。

必要なら、

・「現成公案」との完全照応
・仕事・人間関係での具体例
・坐禅中に主語が切り替わる“合図”

どこをさらに掘りますか。
1.現成公案正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(0)  迷を大悟するは諸仏なり、 悟に大迷なるは衆生なり。(1)  さらに悟上に得悟する漢あり、 迷中又迷の漢あり。(0)  諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。(0)  法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(0)  万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(0)  仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(0)  仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(0)  なぜ“忘れる”が学びの頂点なのか(0)  水をきはめ、そらをきはめてのち、(0)  このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(0)  「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」(0)  仏法の証験、正伝の活路(0)  一方を証するときは一方はくらし(1)  自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(1) 
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、
万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
——道元(『正法眼蔵』)

この一文は、道元思想の“背骨”です。仏道的に深掘りすると、次の転換が見えてきます。

1) 何が「迷」で、何が「悟り」か——主語の入れ替え

・迷:*自己*を主語にして、世界(万法)を理解・修正・達成しようとする。
 →「私が修行する/私が分かる」
・悟り:*万法*が主語になって、自己が照らされ・試され・成り立たされる。
 →「世界が進み出て、私を修証する」

ここでの核心は、能力差や到達度ではなく、主語の向きです。

2) 「はこぶ自己」=世界を道具化する心

自己をはこぶ、とは

・目的(悟り・安心・評価)を先に置き
・体験・理解・成果で世界を回収する態度

この構図では、万法は材料になり、修行は手段になります。
結果、どれだけ深い体験があっても、主語が自己のまま——迷は温存される。

3) 「万法すすむ」=世界が先に立つ

「万法すすみて」とは、自然や他者が“語る”という比喩ではありません。
出来事が出来事として起こり、行為が行為として現れてしまうという事実。

・皿は割れ
・言葉は届き
・失敗は露わになり
・坐は坐として起こる

この先行する現成の前で、自己は説明や所有を失い、修証されてしまう。

4) 修証一等——修行=悟りが同時に起きる

悟りは後から“得る”ものではない。
万法が進み出て自己を修証している、その現場がすでに悟り。

だから、

・途中/未完という逃げ道が消える
・評価(良い坐・悪い坐)が不要になる

5) 坐禅への落とし込み(実践の要点)

・「良い心にする」→❌(心を対象化)
・坐っている事実を主語に任せる→⭕
 雑念・静寂の優劣を問わず、坐が坐として起こるのを妨げない。

6) 現代的な読み替え——自己最適化の停止

自己啓発・成果主義は「自己をはこぶ」回路を強化します。
この一句は、こう言い換えられる。

| 世界を自分の成功物語に使うな。
| 使われる前に、世界に使われてしまえ。

7) 落とし穴(よくある誤解)

❌ 受け身・無責任
❌ 思考停止
❌ 何もしない正当化

「万法すすむ」は放縦ではない。
主語を譲るだけで、行為はむしろ厳密になる。


ひと言で

迷いとは、主語を自己に固定すること。
悟りとは、主語が万法に移り、自己が修証されてしまうこと。

必要なら、

・「現成公案」との完全照応
・仕事・人間関係での具体例
・坐禅中に主語が切り替わる“合図”

どこをさらに掘りますか。