Re: 丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。
Posted: 金 1 02, 2026 12:17 pm
丈六金身これ時なり、
時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元
この一句は、「有時」の時間論が“仏身・光明・荘厳”という宗教語彙を、日常時間へ完全に引き戻す決着点です。ポイントは、仏が光るから時が尊いのではなく、時そのものが仏身として立つから、光明が“起きてしまう”という転倒にあります。
1) 「丈六金身」——完成像の象徴をあえて引き受ける
丈六金身は、
・仏像の定型寸法
・完成・規範・正像
を象徴します。ここで道元は、異形(三頭八臂)ではなく、あえて正像を持ち出す。
| 規範的完成像でさえ、
| “時そのもの”にすぎない。
悟りの到達点を別枠の聖域に置かせないためです。
2) 「これ時なり」——仏身が時間を“持つ”のではない
通常の理解はこうなりがちです。
・仏身があり
・その仏身が時間の中に現れる
道元は逆。
| 丈六金身が時間の中にあるのではない。
| 丈六金身として“時間が成立している”。
存在=時。
仏身は、時間の属性ではなく、時間の出来事。
3) 「時なるがゆゑに」——因果の向きが逆
重要な因果転倒。
・仏だから光る
・悟ったから荘厳がある
| 時であるがゆゑに、
| 荘厳光明が起きる。
光明は、仏身の付加物ではない。
時間が時間として起動した“徴(しるし)”。
4) 「時の荘厳光明」——心理でも比喩でもない
荘厳光明を、
・気分の高揚
・神秘体験
・比喩的美化
と読むと外れます。
| 評価・意味づけが入る前に、
| 行為や出来事が“正確に立っている”という明晰さ。
これが「時の光明」。
感じるかどうかは関係ない。
5) 有時の徹底——聖俗二分の完全否定
この一句は、次を同時に壊します。
・聖なる仏身/俗なる時間
・完成の悟り/未完の日常
| 完成像(丈六金身)も、
| 日常時間(十二時)も、
| 同一の“時”として等価。
だから特別な時間は存在しない。
6) 修証一等の時間的帰結
修と証を分けない道元にとって、
・修行の時
・悟りの時
は成立しない。
| 丈六金身が“いま”として立つなら、
| 修も証も、同じ現在にしかない。
7) 坐禅・日常への落とし込み
・坐禅が整い、姿勢が定まる(丈六金身的)
・しかし時計はただ進む(十二時)
| 整いも、凡庸も、
| 同じ“時”の起動。
| その正確さが、光明。
仕事・家事・応答も同じ。
出来事が出来事としてズレずに起きている——それが荘厳。
8) 現代的に言い換える
| 完成した自分になってから学ぶな。
| いま起動しているこの時間が、
| すでに完成像として働いている。
| その正確さが、光である。
9) 落とし穴
・
神秘主義(光を見る話)
・
形骸化(仏像礼賛)
・
自己肯定の美談化
道元は慰めていない。
逃げ場を断っている。
ひと言で凝縮すると
「丈六金身これ時なり」とは、
完成像が時間の中に現れるのではなく、
完成像として“時間が起動している”という宣告。
そしてその起動の正確さそのものが、
“時の荘厳光明”である。
光は付け足されない。
時間が時間であることが、すでに光だ。
時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元
この一句は、「有時」の時間論が“仏身・光明・荘厳”という宗教語彙を、日常時間へ完全に引き戻す決着点です。ポイントは、仏が光るから時が尊いのではなく、時そのものが仏身として立つから、光明が“起きてしまう”という転倒にあります。
1) 「丈六金身」——完成像の象徴をあえて引き受ける
丈六金身は、
・仏像の定型寸法
・完成・規範・正像
を象徴します。ここで道元は、異形(三頭八臂)ではなく、あえて正像を持ち出す。
| 規範的完成像でさえ、
| “時そのもの”にすぎない。
悟りの到達点を別枠の聖域に置かせないためです。
2) 「これ時なり」——仏身が時間を“持つ”のではない
通常の理解はこうなりがちです。
・仏身があり
・その仏身が時間の中に現れる
道元は逆。
| 丈六金身が時間の中にあるのではない。
| 丈六金身として“時間が成立している”。
存在=時。
仏身は、時間の属性ではなく、時間の出来事。
3) 「時なるがゆゑに」——因果の向きが逆
重要な因果転倒。
・仏だから光る
・悟ったから荘厳がある
| 時であるがゆゑに、
| 荘厳光明が起きる。
光明は、仏身の付加物ではない。
時間が時間として起動した“徴(しるし)”。
4) 「時の荘厳光明」——心理でも比喩でもない
荘厳光明を、
・気分の高揚
・神秘体験
・比喩的美化
と読むと外れます。
| 評価・意味づけが入る前に、
| 行為や出来事が“正確に立っている”という明晰さ。
これが「時の光明」。
感じるかどうかは関係ない。
5) 有時の徹底——聖俗二分の完全否定
この一句は、次を同時に壊します。
・聖なる仏身/俗なる時間
・完成の悟り/未完の日常
| 完成像(丈六金身)も、
| 日常時間(十二時)も、
| 同一の“時”として等価。
だから特別な時間は存在しない。
6) 修証一等の時間的帰結
修と証を分けない道元にとって、
・修行の時
・悟りの時
は成立しない。
| 丈六金身が“いま”として立つなら、
| 修も証も、同じ現在にしかない。
7) 坐禅・日常への落とし込み
・坐禅が整い、姿勢が定まる(丈六金身的)
・しかし時計はただ進む(十二時)
| 整いも、凡庸も、
| 同じ“時”の起動。
| その正確さが、光明。
仕事・家事・応答も同じ。
出来事が出来事としてズレずに起きている——それが荘厳。
8) 現代的に言い換える
| 完成した自分になってから学ぶな。
| いま起動しているこの時間が、
| すでに完成像として働いている。
| その正確さが、光である。
9) 落とし穴
・
・
・
道元は慰めていない。
逃げ場を断っている。
ひと言で凝縮すると
「丈六金身これ時なり」とは、
完成像が時間の中に現れるのではなく、
完成像として“時間が起動している”という宣告。
そしてその起動の正確さそのものが、
“時の荘厳光明”である。
光は付け足されない。
時間が時間であることが、すでに光だ。