ほとけののたまはく、於其自身、尚可受用、何況能与父母妻子(其の自身に於ても、尚ほ受用すべし、何に況んや能く父母妻子に与へんをや)。

ほとけののたまはく、於其自身、尚可受用、何況能与父母妻子(其の自身に於ても、尚ほ受用すべし、何に況んや能く父母妻子に与へんをや)。
以下は、『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」中の一句

| 「ほとけののたまはく、於其自身、尚可受用、何況能与父母妻子」
| (其の自身に於ても、尚ほ受用すべし、何に況んや能く父母妻子に与へんをや)

を、仏道的に深く掘り下げて読む視点です。

出典の位置づけ

この一句は、正法眼蔵「菩提薩埵四摂法」において、
布施(不貪)の根本構造を示す、極めて重要な一句です。

1. 通常理解の落とし穴

一般的にはこの文は、次のように読まれがちです。

| 「自分が使ってもよいものなのだから、まして他人(家族)に与えるのは良いことだ」

しかし、道元は決して「余剰を与えよ」と言っていません。
ここに、仏道的理解と倫理的理解の決定的な差があります。

2. 「尚可受用」の逆説性

● 「尚可受用」とは何か

「其の自身に於ても、尚ほ受用すべし」とは、

・これは本来、自己のために用いてもよい
・自己所有として成立しうる

という意味です。

にもかかわらず、それを与える。
ここに布施の核心があります。

3. 布施とは「自己を優先しない」ことではない

重要なのは、ここで布施が

・自己犠牲
・自己否定
・道徳的善行

として語られていない点です。

仏道的には:
| 「自己に使ってもよい」という自己中心の根拠そのものが、すでに解体されている状態

それが布施です。

4. 「父母妻子」という具体性の意味

なぜ、ここで対象が

・父母
・妻子

なのか。

これは「親しい者」を例に挙げているのではありません。
むしろ逆です。

仏道的読み:
・最も「自分の延長」と錯覚しやすい存在
・最も「自分のもの」と思いやすい関係

そこにすら、所有という構えが成立しないことを示しています。

5. 布施=不貪の本義

道元は別の箇所で明言します。

| 不貪といふは、むさぼらざるなり

しかし「むさぼらない」とは、

・欲を抑えること
・取らないこと

ではありません。

不貪の本質:
| 「これは私のものだ」という成立そのものが起こらない

この地点から見れば、

・自分に使う
・他人に与える

という二項対立が、すでに意味を失っています。

6. この一句が示す布施の完成形

したがってこの文は、次のように読むべきです。

| 自己に用いてもよいとされる「自己中心の世界」がすでに解体されているがゆえに、与える/与えないという選択が成立しない

それでもなお行われる行為――
それが 菩薩行としての布施です。

7. 四摂法全体との関係

この理解は、後続の

・愛語
・利行
・同事

すべてに通じます。

特に 同事が最も誤解されやすい理由も、ここにあります。
「相手のために同じことをする」ではなく、
「自己と他者が分かれる以前の地点に立つ」ことだからです。

まとめ(仏道的核心)

この一句の核心は、倫理ではありません。

| 布施とは、与える行為ではなく、
| 「与える主体」が消えている世界のあらわれである

道元はここで、
行為の善悪ではなく、存在の位相を語っています。

もしよければ次に、

・「この理解がなぜ現代では誤解されやすいのか」
・「同事との直接的接続」

も、さらに深く掘り下げることができます。
ほとけののたまはく、於其自身、尚可受用、何況能与父母妻子(其の自身に於ても、尚ほ受用すべし、何に況んや能く父母妻子に与へんをや)。
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