嵩山高祖古仏、はるかに西天の仏国をはなれて、邊邦の神丹に西来するとき、仏祖の正法まのあたりつたはれしなり。これ出家得道にあらずは、かくのごとくなるべからず。祖師西来已前は、東地の衆生人天、いまだかつて正法を見聞せず。しかあればしるべし、正法正伝、ただこれ出家の功徳なり。
大師釈尊、かたじけなく父王のくらゐをすてて嗣続せざることは、王位の貴ならざるにあらず、仏位の最貴なるを嗣続せんがためなり。仏位はこれ出家位なり、三界の天衆生、人衆生、ともに頂戴恭敬するくらゐなり。梵王、釈王の同坐するところにあらず。いはんや下界の諸人王、諸龍王の同坐するくらゐならんや。無上正等覚位なり。くらゐよく説法度生し、放光現瑞す。この出家位の諸業、これ正業なり、諸仏七仏の懐業なり。唯仏予仏にあらざれば究尽せざるところなり。いまだ出家せざらんともがらは、すでに出家せるに奉覲給仕し、頭頂敬礼し、身命を抛捨して供養すべし。
嵩山高祖古仏、
■60.三十七品菩提分法:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
以下は、この一段を 道元禅師の歴史叙述や宗派的自負として読むことを避け、
「なぜ正法は“出家”という形式でしか歴史に現れ得なかったのか」
という一点に焦点を絞って、仏道的に深掘りする視点として整理したものです。
これは賞賛文ではなく、
仏法がこの世界に現れる条件を、歴史と身命の両面から突きつける文です。
Ⅰ.嵩山高祖(達磨)西来の決定的意味
| 嵩山高祖古仏、はるかに西天の仏国をはなれて…西来するとき、正法まのあたりつたはれしなり
ここで語られているのは「禅宗の起源」ではありません。
本質はここにあります
・仏法は自然に伝播しない
・書物や教義では越境できない
・身命を賭した移動(西来)によってのみ伝わる
達磨の西来とは
思想の輸入ではなく、身命の移植
そしてそれが可能だった理由が、
| これ出家得道にあらずは、かくのごとくなるべからず
という断言です。
Ⅱ.「祖師西来已前、正法未聞」という極言の真意
| 東地の衆生人天、いまだかつて正法を見聞せず
これは歴史的事実の主張ではありません。
正法とは、
知識や経典を聞いたことを指さない
・正法=身心を貫く仏道
・正伝=それが生活として現れること
つまり、
・経があっても
・学者がいても
・儀礼があっても
出家得道の身命がなければ、正法は“現れていない”
Ⅲ.「正法正伝、ただこれ出家の功徳」の構造
ここが全段の核心です。
なぜ「出家」だけが条件なのか
出家とは:
・清貧の理想ではない
・修行の効率化でもない
生死の帰属先を完全に転換する制度
・血縁
・国
・職
・地位
・財
これらすべてを離れ、
仏法以外に身命の保証を持たない存在
その身命だけが、
仏法を歪めずに運ぶことができる。
Ⅳ.釈尊の出家を「政治的放棄」として読む誤り
| 父王のくらゐをすてて嗣続せざることは…仏位の最貴なるを嗣続せんがため
ここでの比較は、
・王位 vs 仏位
という価値判断ではありません。
決定的な差はここ
・王位:世間秩序の継承
・仏位:生死そのものの引き受け
仏位は「上位」ではない異質
だから、
| 梵王、釈王の同坐するところにあらず
同列に置くこと自体が誤り。
Ⅴ.仏位=出家位という同一視の意味
| 仏位はこれ出家位なり
これは象徴表現ではありません。
仏位とは:
・目覚めた心の状態ではない
・神秘的境地でもない
出家という生き方そのもの
・所有しない
・固定しない
・守らない
その生き方が、
・説法となり
・放光となり
・度生となる
Ⅵ.「七仏の懐業」とは何か
| この出家位の諸業、これ正業なり、諸仏七仏の懐業なり
「懐業」とは:
・仕事
・任務
ではなく、
仏が仏として生きるために
必ず懐いてきた生き方
つまり、
・時代が変わっても
・国が変わっても
出家という形式だけは変わらなかった
Ⅶ.「唯仏予仏にあらざれば究尽せざる」
ここで道元は、
・在家を排除しているのではない
・他宗を否定しているのでもない
仏位は、説明できない
・理解されるものではない
・評価されるものでもない
生きられる以外に、究尽されない
Ⅷ.在家者への最後の呼びかけの真意
| いまだ出家せざらんともがらは…奉覲給仕し…身命を抛捨して供養すべし
これは服従要求ではありません。
仏法を未来へ存続させるための
役割分担の提示
・出家者:身命を賭して保持する
・在家者:身命を賭して支える
ここが崩れたとき、
・出家は職業化し
・在家は消費者化し
・仏法は消える
Ⅸ.この一段が突きつける最終構造
この文章が語る構造は、きわめて単純です。
1. 正法は自然には伝わらない
2. 正法は思想ではない
3. 正法は身命によってのみ運ばれる
4. その形式が出家である
だから歴史上、
正法は常に出家者の身を通して現れた
Ⅹ.参究の一句(結語)
| 仏法は
| 理解されるために現れたのではない
| 生きられるために現れた
| 生きる者がいなければ
| 正法は、どこにも存在しない
最後に(極めて重要)
この文章は、
・出家を美化する文ではありません
・在家を卑下する文でもありません
仏法は、
誰かが人生を丸ごと差し出さなければ、
この世界に留まれない
その厳粛な事実を、
道元は一切の装飾なく語っています。
ここまで読み進めたあなたは、
もはや「賛否を判断する側」ではありません。
仏法に対して、
自分は何を差し出しているのか
――その問いの只中に立たされています。
「なぜ正法は“出家”という形式でしか歴史に現れ得なかったのか」
という一点に焦点を絞って、仏道的に深掘りする視点として整理したものです。
これは賞賛文ではなく、
仏法がこの世界に現れる条件を、歴史と身命の両面から突きつける文です。
Ⅰ.嵩山高祖(達磨)西来の決定的意味
| 嵩山高祖古仏、はるかに西天の仏国をはなれて…西来するとき、正法まのあたりつたはれしなり
ここで語られているのは「禅宗の起源」ではありません。
本質はここにあります
・仏法は自然に伝播しない
・書物や教義では越境できない
・身命を賭した移動(西来)によってのみ伝わる
達磨の西来とは
思想の輸入ではなく、身命の移植
そしてそれが可能だった理由が、
| これ出家得道にあらずは、かくのごとくなるべからず
という断言です。
Ⅱ.「祖師西来已前、正法未聞」という極言の真意
| 東地の衆生人天、いまだかつて正法を見聞せず
これは歴史的事実の主張ではありません。
正法とは、
知識や経典を聞いたことを指さない
・正法=身心を貫く仏道
・正伝=それが生活として現れること
つまり、
・経があっても
・学者がいても
・儀礼があっても
出家得道の身命がなければ、正法は“現れていない”
Ⅲ.「正法正伝、ただこれ出家の功徳」の構造
ここが全段の核心です。
なぜ「出家」だけが条件なのか
出家とは:
・清貧の理想ではない
・修行の効率化でもない
生死の帰属先を完全に転換する制度
・血縁
・国
・職
・地位
・財
これらすべてを離れ、
仏法以外に身命の保証を持たない存在
その身命だけが、
仏法を歪めずに運ぶことができる。
Ⅳ.釈尊の出家を「政治的放棄」として読む誤り
| 父王のくらゐをすてて嗣続せざることは…仏位の最貴なるを嗣続せんがため
ここでの比較は、
・王位 vs 仏位
という価値判断ではありません。
決定的な差はここ
・王位:世間秩序の継承
・仏位:生死そのものの引き受け
仏位は「上位」ではない異質
だから、
| 梵王、釈王の同坐するところにあらず
同列に置くこと自体が誤り。
Ⅴ.仏位=出家位という同一視の意味
| 仏位はこれ出家位なり
これは象徴表現ではありません。
仏位とは:
・目覚めた心の状態ではない
・神秘的境地でもない
出家という生き方そのもの
・所有しない
・固定しない
・守らない
その生き方が、
・説法となり
・放光となり
・度生となる
Ⅵ.「七仏の懐業」とは何か
| この出家位の諸業、これ正業なり、諸仏七仏の懐業なり
「懐業」とは:
・仕事
・任務
ではなく、
仏が仏として生きるために
必ず懐いてきた生き方
つまり、
・時代が変わっても
・国が変わっても
出家という形式だけは変わらなかった
Ⅶ.「唯仏予仏にあらざれば究尽せざる」
ここで道元は、
・在家を排除しているのではない
・他宗を否定しているのでもない
仏位は、説明できない
・理解されるものではない
・評価されるものでもない
生きられる以外に、究尽されない
Ⅷ.在家者への最後の呼びかけの真意
| いまだ出家せざらんともがらは…奉覲給仕し…身命を抛捨して供養すべし
これは服従要求ではありません。
仏法を未来へ存続させるための
役割分担の提示
・出家者:身命を賭して保持する
・在家者:身命を賭して支える
ここが崩れたとき、
・出家は職業化し
・在家は消費者化し
・仏法は消える
Ⅸ.この一段が突きつける最終構造
この文章が語る構造は、きわめて単純です。
1. 正法は自然には伝わらない
2. 正法は思想ではない
3. 正法は身命によってのみ運ばれる
4. その形式が出家である
だから歴史上、
正法は常に出家者の身を通して現れた
Ⅹ.参究の一句(結語)
| 仏法は
| 理解されるために現れたのではない
| 生きられるために現れた
| 生きる者がいなければ
| 正法は、どこにも存在しない
最後に(極めて重要)
この文章は、
・出家を美化する文ではありません
・在家を卑下する文でもありません
仏法は、
誰かが人生を丸ごと差し出さなければ、
この世界に留まれない
その厳粛な事実を、
道元は一切の装飾なく語っています。
ここまで読み進めたあなたは、
もはや「賛否を判断する側」ではありません。
仏法に対して、
自分は何を差し出しているのか
――その問いの只中に立たされています。
嵩山高祖古仏、はるかに西天の仏国をはなれて、邊邦の神丹に西来するとき、仏祖の正法まのあたりつたはれしなり。これ出家得道にあらずは、かくのごとくなるべからず。祖師西来已前は、東地の衆生人天、いまだかつて正法を見聞せず。しかあればしるべし、正法正伝、ただこれ出家の功徳なり。
大師釈尊、かたじけなく父王のくらゐをすてて嗣続せざることは、王位の貴ならざるにあらず、仏位の最貴なるを嗣続せんがためなり。仏位はこれ出家位なり、三界の天衆生、人衆生、ともに頂戴恭敬するくらゐなり。梵王、釈王の同坐するところにあらず。いはんや下界の諸人王、諸龍王の同坐するくらゐならんや。無上正等覚位なり。くらゐよく説法度生し、放光現瑞す。この出家位の諸業、これ正業なり、諸仏七仏の懐業なり。唯仏予仏にあらざれば究尽せざるところなり。いまだ出家せざらんともがらは、すでに出家せるに奉覲給仕し、頭頂敬礼し、身命を抛捨して供養すべし。
大師釈尊、かたじけなく父王のくらゐをすてて嗣続せざることは、王位の貴ならざるにあらず、仏位の最貴なるを嗣続せんがためなり。仏位はこれ出家位なり、三界の天衆生、人衆生、ともに頂戴恭敬するくらゐなり。梵王、釈王の同坐するところにあらず。いはんや下界の諸人王、諸龍王の同坐するくらゐならんや。無上正等覚位なり。くらゐよく説法度生し、放光現瑞す。この出家位の諸業、これ正業なり、諸仏七仏の懐業なり。唯仏予仏にあらざれば究尽せざるところなり。いまだ出家せざらんともがらは、すでに出家せるに奉覲給仕し、頭頂敬礼し、身命を抛捨して供養すべし。