Re: おほよそ仏法東漸よりこのかた、
Posted: 土 1 10, 2026 11:02 am
以下は、この一段を
在家否定・出家至上の歴史論として短絡せず、
「仏法の〈在処〉とは何か」「身心とは何か」「なぜ“万機心=仏祖心”が最大の誤りなのか」
という三点に焦点を絞って、仏道的に深掘りする視点です。
これは断罪文ではありません。
仏法が成立する条件を、最後まで理詰めで突きつける文です。
Ⅰ.「在家得道なし」という断言の射程
| 在家ながら得道せるもの、一人もいまだあらず
この一句は、史実主張ではありません。
また、在家者の悟り体験を否定しているのでもありません。
道元が言っている「得道」とは何か
・心境の変化
・覚醒体験
・理解の深まり
ではない。
仏法が仏法として“この世界に現成すること”
つまり、
・得道=個人の内的体験
ではなく、
・得道=正法が歴史に立つこと
その担い手としての得道。
その意味で、
在家は「仏法の在処」になり得ない
と断言している。
Ⅱ.「仏法の在処」とは場所ではない
| 在家は仏法の在処にあらず
これは空間論ではありません。
仏法の在処とは
・建物
・寺院
・山林
ではない。
身心の帰属構造
・何に生活を預けているか
・何に最終責任を負っているか
・何が崩れたら生きられなくなるか
仏法の在処とは、
身心が完全に仏法へ帰属している状態
在家は:
・家族
・仕事
・国家
・財産
これらに身心の根を張っている。
それ自体が悪なのではない。仏法を担う構造ではない、というだけ。
Ⅲ.「見聞したら即出家」という必然構造
| 仏法その眼耳におよぶときは、いそぎて出家をいとなむ
これは規範ではない。
反射的現象である。
・熱いものに触れたら手を引く
・真に仏法が触れたら、在家でいられなくなる
出家は選択ではない結果である
Ⅳ.「万機心=仏祖心」批判の核心
ここが、この一段の最重要点です。
| 万機の身心すなはち仏祖の身心なり
| いまだかつて仏法を見聞せざるなり
「万機の心」とは何か
・政治的判断
・行政的合理性
・社会的成功
・世俗的責任感
これらを指す。
なぜこれを「黒闇獄の罪」とまで言うのか
万機心は
世俗秩序を維持するための心
仏祖心は
世俗秩序を超えて生死を引き受ける心
この二つは、
・同質ではない
・同列でもない
・混同すると、必ず仏法が壊れる
Ⅴ.「帝者が喜ぶ」言説の危険性
| しかいふを帝者よろこぶ
ここは、政治と仏法の癒着批判です。
・「あなたの政治判断こそ仏心です」
・「あなたの多忙は修行です」
これを言われて喜ばない権力はない。
しかしそれは、
・仏法を権力の免罪符にし
・出家僧を御用思想家に堕とす
この瞬間、仏法は死ぬ
Ⅵ.決定的な逆転論理
| 万機の心は仮令おのづから仏祖の心に同ずとも
| 仏祖の身心おのづから万機の身心とならんとき
| 万機の身心なるべからず
ここは非常に重要です。
意味するところ
・仮に万機心が仏祖心と同質だったとしても
・仏祖が万機を引き受けた瞬間、
それはもはや「万機心」ではない
仏祖は、
世俗的役割を引き受けても、
世俗の論理では動かない
だから逆は成立しない。
万機心が仏祖心になることはない。
Ⅶ.「心法を知らず」という最終断罪
| 心法のゆきがた、様子をしらざるなり
ここで言う「心法」とは、
・心理学的心
・思考内容
ではない。
身心と法の一致の仕方
・心は単独で仏になるのではない
・必ず身分・生活・制度と一体で動く
それを知らずに
「心は同じだ」と言うのは、
心を抽象化し、仏法を思想に落とすこと
Ⅷ.この一段の最終的構造
この文章は、三つの否定によって一つを守っています。
1. 在家得道史観の否定
2. 心の平等論の否定
3. 政治迎合仏法の否定
守っているのは一つだけ。
| 仏法は、
| 身心を引き受ける具体的な生き方であり、
| 抽象的理念ではない
Ⅸ.参究の一句(結語)
| 仏法は心の中にあるのではない
| 心がどこに身を置いているかにある
| 身を置くところが世俗であるかぎり
| その心は、仏祖の心ではない
最後に(最重要)
この文章は、
あなたを断罪するために書かれていません。
問いは一つだけ残されています
| あなたの身心は、
| どこに根を下ろして生きているか
その問いから逃げない限り、
この文章は「暴言」ではなく、
仏法の極めて冷静な診断書として読めます。
ここまで読み切ったあなたは、
すでに仏法を「思想」としてではなく、
身命の配置問題として読んでいる地点にいます。
そこが、この一段の本当の入口です。
在家否定・出家至上の歴史論として短絡せず、
「仏法の〈在処〉とは何か」「身心とは何か」「なぜ“万機心=仏祖心”が最大の誤りなのか」
という三点に焦点を絞って、仏道的に深掘りする視点です。
これは断罪文ではありません。
仏法が成立する条件を、最後まで理詰めで突きつける文です。
Ⅰ.「在家得道なし」という断言の射程
| 在家ながら得道せるもの、一人もいまだあらず
この一句は、史実主張ではありません。
また、在家者の悟り体験を否定しているのでもありません。
道元が言っている「得道」とは何か
・心境の変化
・覚醒体験
・理解の深まり
ではない。
仏法が仏法として“この世界に現成すること”
つまり、
・得道=個人の内的体験
ではなく、
・得道=正法が歴史に立つこと
その担い手としての得道。
その意味で、
在家は「仏法の在処」になり得ない
と断言している。
Ⅱ.「仏法の在処」とは場所ではない
| 在家は仏法の在処にあらず
これは空間論ではありません。
仏法の在処とは
・建物
・寺院
・山林
ではない。
身心の帰属構造
・何に生活を預けているか
・何に最終責任を負っているか
・何が崩れたら生きられなくなるか
仏法の在処とは、
身心が完全に仏法へ帰属している状態
在家は:
・家族
・仕事
・国家
・財産
これらに身心の根を張っている。
それ自体が悪なのではない。仏法を担う構造ではない、というだけ。
Ⅲ.「見聞したら即出家」という必然構造
| 仏法その眼耳におよぶときは、いそぎて出家をいとなむ
これは規範ではない。
反射的現象である。
・熱いものに触れたら手を引く
・真に仏法が触れたら、在家でいられなくなる
出家は選択ではない結果である
Ⅳ.「万機心=仏祖心」批判の核心
ここが、この一段の最重要点です。
| 万機の身心すなはち仏祖の身心なり
| いまだかつて仏法を見聞せざるなり
「万機の心」とは何か
・政治的判断
・行政的合理性
・社会的成功
・世俗的責任感
これらを指す。
なぜこれを「黒闇獄の罪」とまで言うのか
万機心は
世俗秩序を維持するための心
仏祖心は
世俗秩序を超えて生死を引き受ける心
この二つは、
・同質ではない
・同列でもない
・混同すると、必ず仏法が壊れる
Ⅴ.「帝者が喜ぶ」言説の危険性
| しかいふを帝者よろこぶ
ここは、政治と仏法の癒着批判です。
・「あなたの政治判断こそ仏心です」
・「あなたの多忙は修行です」
これを言われて喜ばない権力はない。
しかしそれは、
・仏法を権力の免罪符にし
・出家僧を御用思想家に堕とす
この瞬間、仏法は死ぬ
Ⅵ.決定的な逆転論理
| 万機の心は仮令おのづから仏祖の心に同ずとも
| 仏祖の身心おのづから万機の身心とならんとき
| 万機の身心なるべからず
ここは非常に重要です。
意味するところ
・仮に万機心が仏祖心と同質だったとしても
・仏祖が万機を引き受けた瞬間、
それはもはや「万機心」ではない
仏祖は、
世俗的役割を引き受けても、
世俗の論理では動かない
だから逆は成立しない。
万機心が仏祖心になることはない。
Ⅶ.「心法を知らず」という最終断罪
| 心法のゆきがた、様子をしらざるなり
ここで言う「心法」とは、
・心理学的心
・思考内容
ではない。
身心と法の一致の仕方
・心は単独で仏になるのではない
・必ず身分・生活・制度と一体で動く
それを知らずに
「心は同じだ」と言うのは、
心を抽象化し、仏法を思想に落とすこと
Ⅷ.この一段の最終的構造
この文章は、三つの否定によって一つを守っています。
1. 在家得道史観の否定
2. 心の平等論の否定
3. 政治迎合仏法の否定
守っているのは一つだけ。
| 仏法は、
| 身心を引き受ける具体的な生き方であり、
| 抽象的理念ではない
Ⅸ.参究の一句(結語)
| 仏法は心の中にあるのではない
| 心がどこに身を置いているかにある
| 身を置くところが世俗であるかぎり
| その心は、仏祖の心ではない
最後に(最重要)
この文章は、
あなたを断罪するために書かれていません。
問いは一つだけ残されています
| あなたの身心は、
| どこに根を下ろして生きているか
その問いから逃げない限り、
この文章は「暴言」ではなく、
仏法の極めて冷静な診断書として読めます。
ここまで読み切ったあなたは、
すでに仏法を「思想」としてではなく、
身命の配置問題として読んでいる地点にいます。
そこが、この一段の本当の入口です。