おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、

おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、おのおの三界の果報に著することなかれ。はやく出家受戒して、諸仏諸祖の道を修習すべし。曠大劫の仏因ならん。みずや、維摩老もし出家せましかば、維摩よりもすぐれたる維摩比丘をみん。今日はわづかに空生、舍利子、文殊、彌勒等をみる、いまだ半維摩をみず。いはんや三四五の維摩をみんや。もし三四五維摩をみず、しらざれば、一維摩いまだみず、しらず、保任せざるなり。一維摩いまだ保任せざれば維摩仏をみず、維摩仏みざれば維摩文殊、維摩弥勒、維摩善現、維摩舍利子等、いまだあらざるなり。いはんや維摩山河大地、維摩草木瓦礫、風雨水火、過去現在未来等あらんや。維摩いまだこれらの光明功徳みえざることは、不出家のゆゑなり。維摩もし出家せば、これらの功徳あるべきなり。当時唐朝、宋朝の禅師等、これらの宗旨に達せず、みだりに維摩を挙して作得是とおもひ、道得是といふ。これらのともがら、あはれむべし、言教をしらず、仏法にくらし。
以下は、この一段を
在家否定・維摩軽視の極論として読むことを退け、
「なぜ道元は“維摩を持ち上げる禅”をここまで徹底的に斬るのか」
という一点に焦点を合わせて、仏道的に深掘りする視点です。

この段は、前段までの議論を決定的に収束させる最終批判であり、
同時に、仏法の未来に対する道元の絶望と責任感が最も濃く現れた箇所です。

Ⅰ.最初の呼びかけの意味

| 梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等…三界の果報に著することなかれ

ここで列挙される存在は、

・人間界の最高権力
・天界の最高果報
・霊的・超自然的支配者

あらゆる「この世で最高になりうる存在」です。
道元が言っているのは単純です。

三界の頂点にいても、
そこに留まるかぎり、仏法は始まらない。

だからこそ、

| はやく出家受戒して、諸仏諸祖の道を修習すべし

これは勧誘ではなく、
仏法が仏法として成立する唯一の条件提示です。

Ⅱ.「曠大劫の仏因」という時間感覚

| 曠大劫の仏因ならん

これは功徳自慢ではありません。
出家とは、
個人の解脱を越えて、
未来の仏が生まれ続ける因を担うこと

在家の善行は「現在の果報」を生むが、
出家は「仏の時間」を生む。

Ⅲ.なぜここで「維摩」を持ち出すのか

維摩居士は、

・在家
・大智慧
・文殊すら黙らせる存在

として、禅史で頻繁に利用されてきました。
道元がここでやっているのは、
維摩そのものの否定ではありません。

「維摩を盾にして出家を否定する思想」の完全破壊です。

Ⅳ.「維摩が出家していたなら」の逆説

| 維摩老もし出家せましかば、
| 維摩よりもすぐれたる維摩比丘をみん

これは最大の逆説です。

・維摩がすぐれている
・しかし、出家していない
だから、その功徳は
維摩一人に閉じてしまっている

出家していれば:
・維摩比丘
・維摩仏
・維摩文殊
・維摩弥勒
・維摩山河大地

が現成したはずだ、と言う。

Ⅴ.「半維摩すら見ない」という痛烈さ

| 今日わづかに空生、舍利子、文殊、彌勒等をみる、
| いまだ半維摩をみず

ここは極端ですが、論理は一貫しています。
在家の維摩は、

・一代限り
・再生産されない
・継承されない

だから「半維摩」すら現れない。

Ⅵ.「保任」の決定的意味

| 保任せざるなり

ここが核心です。

・保任=悟りを保持することではない
・正法を未来へ保証すること
出家でなければ、

・維摩を保任できない
・維摩仏を生めない
・維摩的世界を展開できない

Ⅶ.維摩世界が展開しない理由

| 維摩山河大地、維摩草木瓦礫…
| 不出家のゆゑなり

これは象徴的表現です。
個人の覚りが、

・世界
・歴史
・時間
 へと展開するには、出家という制度的身体が必要。

在家の覚りは、
宇宙化しない。

Ⅷ.唐宋禅師への最終批判

| みだりに維摩を挙して作得是とおもひ、道得是といふ

ここで批判されているのは、

・在家称揚
・頓悟至上
・心の平等論
・出家軽視
「修行不要・身分不要」を語る禅の堕落形

道元にとってそれは、

・仏法の簡略化
・仏道の商品化
・正法の自己解体

に他ならない。

Ⅸ.この一段が示す最終構造

この文章が突きつける構造は、きわめて冷酷です。

・覚りは個人に起こりうる
・しかし仏法は、個人では存続しない
・仏法が存続するには、
 身命を制度として差し出す者が要る
それが出家。

Ⅹ.参究の一句(結語)

| 在家の覚りは光で終わる
| 出家の覚りは世界になる
| 維摩が世界にならなかったのは
| 力が足りなかったからではない
| 身を委ねなかったからである


最後に(最重要)

この文章は、

・在家を嘲笑するために書かれていません
・維摩を貶めるために書かれていません
仏法が「一代限りの奇跡」で終わるか、
「歴史として続く道」になるか

その分岐点を、
道元は「出家」という一点に絞って示しています。

ここまで読み進めたあなたは、
すでにこの問いを
自分の人生の配置問題として受け取っているはずです。

それこそが、
この一段が読者に要求している唯一のことです。
おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、おのおの三界の果報に著することなかれ。はやく出家受戒して、諸仏諸祖の道を修習すべし。曠大劫の仏因ならん。みずや、維摩老もし出家せましかば、維摩よりもすぐれたる維摩比丘をみん。今日はわづかに空生、舍利子、文殊、彌勒等をみる、いまだ半維摩をみず。いはんや三四五の維摩をみんや。もし三四五維摩をみず、しらざれば、一維摩いまだみず、しらず、保任せざるなり。一維摩いまだ保任せざれば維摩仏をみず、維摩仏みざれば維摩文殊、維摩弥勒、維摩善現、維摩舍利子等、いまだあらざるなり。いはんや維摩山河大地、維摩草木瓦礫、風雨水火、過去現在未来等あらんや。維摩いまだこれらの光明功徳みえざることは、不出家のゆゑなり。維摩もし出家せば、これらの功徳あるべきなり。当時唐朝、宋朝の禅師等、これらの宗旨に達せず、みだりに維摩を挙して作得是とおもひ、道得是といふ。これらのともがら、あはれむべし、言教をしらず、仏法にくらし。
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