正命道支とは、早朝粥、午時飯なり。
正命道支とは、早朝粥、午時飯なり。在叢林弄精魂なり。曲木座上直指なり。老趙州の不満二十衆、これ正命の現成なり。薬山の不満十衆、これ正命の命脈なり。汾陽の七八衆、これ正命のかかれるところなり。もろもろの邪命をはなれたるがゆゑに。
■60.三十七品菩提分法:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
以下は、この一段を
「僧の質素な生活礼賛」や「清貧主義の道徳」として読むことを退け、
道元が〈正命道支〉をどの次元で定義しているのかを一点に絞って、
仏道的に深掘りする視点です。
ここで道元は、
八正道の「正命」を、
倫理でも経済論でもなく、〈命そのものの在り処〉として確定しています。
Ⅰ.正命とは「正しい稼ぎ方」ではない
通常の仏教理解では正命とは、
・邪な職業を避ける
・清らかな生活手段を選ぶ
という倫理的・社会的規範として語られます。
しかし道元は、それを完全に切断します。
| 正命道支とは、早朝粥、午時飯なり
正命とは
何で生計を立てるかではなく、
何によって命が養われているか。
Ⅱ.「早朝粥・午時飯」が示す決定点
ここで挙げられているのは、
・収入
・生産
・労働
ではなく、食です。
なぜ「食」なのか
・食は命の直接条件
・思想や信念を介さない
・誰にもごまかせない
正命とは、
命の入口をどこに置いているか
・権力か
・富か
・評価か
それとも
仏法の作法か
Ⅲ.在叢林弄精魂 —— 命を弄ぶとは何か
| 在叢林弄精魂なり
「弄ぶ」とは軽薄な意味ではありません。
・精魂を尽くす
・命を丸ごと使い切る
という意味。
叢林とは:
・逃げ場のない修行共同体
・個人の都合が通らない場
正命とは、
安全な生活を守ることではなく、
命を仏法の中に投げ込むこと
Ⅳ.「曲木座上直指」の鋭さ
| 曲木座上直指なり
・曲がった木の座
・まっすぐ指す
・環境が整っているから坐るのではない
・条件が悪くても、道は曲がらない
正命とは、
・快適さ
・効率
・安定
を条件にしない生き方。
Ⅴ.少数僧団が示す「正命の現成」
| 老趙州の不満二十衆
| 薬山の不満十衆
| 汾陽の七八衆
ここが、この一段の決定的転換点です。
なぜ「少数」なのか
・人数が多い=正しい
・規模が大きい=成功
という発想を、道元は完全に否定します。
正命は、支持されない
正命は、流行らない
正命は、増えないことがある
それでも、
・命脈は切れていない
・法は生きている
Ⅵ.「命脈」「かかれるところ」という表現
| これ正命の命脈なり
| これ正命のかかれるところなり
正命は:
・個人の徳ではない
・組織の規模でもない
仏法の命が、かろうじて通っている一点
それが、
・二十人
・十人
・七八人
であっても、
そこに正命は現成する。
Ⅶ.「邪命を離れる」とは何を離れるのか
| もろもろの邪命をはなれたるがゆゑに
邪命とは、
・不正な職業
ではない。
命を支える条件を、
世俗に差し出すこと
・権力に依存する
・評価に依存する
・需要に依存する
・大衆迎合に依存する
これらすべてが邪命。
Ⅷ.正命道支の核心構造
この一段で道元が示している構造は、明確です。
・正業=何をしているか
・正命=何に生かされているか
同じ作務でも、
・世俗に養われていれば邪命
・仏法に養われていれば正命
Ⅸ.参究の一句(結語)
| 正命とは
| 清く生きることではない
| 命の入口を
| どこに置くかである
| 早朝の一椀の粥が
| そのすべてを語っている
最後に(重要)
この文は、
・僧の貧しさを称える文ではありません
・少人数主義を勧める文でもありません
あなたの命は、
いま何によって支えられているか
・安心か
・評価か
・成功か
それとも
仏法の作法か
この問いに答えられない限り、
正命は理念にとどまります。
しかし、
朝の一椀をどう受け取るか。
そこで、正命はすでに始まっています。
「僧の質素な生活礼賛」や「清貧主義の道徳」として読むことを退け、
道元が〈正命道支〉をどの次元で定義しているのかを一点に絞って、
仏道的に深掘りする視点です。
ここで道元は、
八正道の「正命」を、
倫理でも経済論でもなく、〈命そのものの在り処〉として確定しています。
Ⅰ.正命とは「正しい稼ぎ方」ではない
通常の仏教理解では正命とは、
・邪な職業を避ける
・清らかな生活手段を選ぶ
という倫理的・社会的規範として語られます。
しかし道元は、それを完全に切断します。
| 正命道支とは、早朝粥、午時飯なり
正命とは
何で生計を立てるかではなく、
何によって命が養われているか。
Ⅱ.「早朝粥・午時飯」が示す決定点
ここで挙げられているのは、
・収入
・生産
・労働
ではなく、食です。
なぜ「食」なのか
・食は命の直接条件
・思想や信念を介さない
・誰にもごまかせない
正命とは、
命の入口をどこに置いているか
・権力か
・富か
・評価か
それとも
仏法の作法か
Ⅲ.在叢林弄精魂 —— 命を弄ぶとは何か
| 在叢林弄精魂なり
「弄ぶ」とは軽薄な意味ではありません。
・精魂を尽くす
・命を丸ごと使い切る
という意味。
叢林とは:
・逃げ場のない修行共同体
・個人の都合が通らない場
正命とは、
安全な生活を守ることではなく、
命を仏法の中に投げ込むこと
Ⅳ.「曲木座上直指」の鋭さ
| 曲木座上直指なり
・曲がった木の座
・まっすぐ指す
・環境が整っているから坐るのではない
・条件が悪くても、道は曲がらない
正命とは、
・快適さ
・効率
・安定
を条件にしない生き方。
Ⅴ.少数僧団が示す「正命の現成」
| 老趙州の不満二十衆
| 薬山の不満十衆
| 汾陽の七八衆
ここが、この一段の決定的転換点です。
なぜ「少数」なのか
・人数が多い=正しい
・規模が大きい=成功
という発想を、道元は完全に否定します。
正命は、支持されない
正命は、流行らない
正命は、増えないことがある
それでも、
・命脈は切れていない
・法は生きている
Ⅵ.「命脈」「かかれるところ」という表現
| これ正命の命脈なり
| これ正命のかかれるところなり
正命は:
・個人の徳ではない
・組織の規模でもない
仏法の命が、かろうじて通っている一点
それが、
・二十人
・十人
・七八人
であっても、
そこに正命は現成する。
Ⅶ.「邪命を離れる」とは何を離れるのか
| もろもろの邪命をはなれたるがゆゑに
邪命とは、
・不正な職業
ではない。
命を支える条件を、
世俗に差し出すこと
・権力に依存する
・評価に依存する
・需要に依存する
・大衆迎合に依存する
これらすべてが邪命。
Ⅷ.正命道支の核心構造
この一段で道元が示している構造は、明確です。
・正業=何をしているか
・正命=何に生かされているか
同じ作務でも、
・世俗に養われていれば邪命
・仏法に養われていれば正命
Ⅸ.参究の一句(結語)
| 正命とは
| 清く生きることではない
| 命の入口を
| どこに置くかである
| 早朝の一椀の粥が
| そのすべてを語っている
最後に(重要)
この文は、
・僧の貧しさを称える文ではありません
・少人数主義を勧める文でもありません
あなたの命は、
いま何によって支えられているか
・安心か
・評価か
・成功か
それとも
仏法の作法か
この問いに答えられない限り、
正命は理念にとどまります。
しかし、
朝の一椀をどう受け取るか。
そこで、正命はすでに始まっています。
正命道支とは、早朝粥、午時飯なり。在叢林弄精魂なり。曲木座上直指なり。老趙州の不満二十衆、これ正命の現成なり。薬山の不満十衆、これ正命の命脈なり。汾陽の七八衆、これ正命のかかれるところなり。もろもろの邪命をはなれたるがゆゑに。