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Re: 無念はこれ正念といふは外道なり。

Posted: 日 1 11, 2026 3:15 am
by writer
この一句――
「無念はこれ正念といふは外道なり。」
は、禅仏教、とりわけ正念(しょうねん)=サンマ・サティの理解をめぐる、非常に鋭い警句です。以下、仏道的に段階を分けて深掘りします。

① 文言の直解と問題提起

・無念:念がまったく無い状態
・正念:八正道の一つ。正しい気づき・念
・外道:仏道から外れた見解


「無念(=何も考えない状態)を正念だと言うなら、それは仏道ではない」
という強い否定です。

ここで批判されているのは、

| 「頭を空っぽにすれば悟り」
| 「思考停止=仏道」
| という誤解です。

② 正念は「無」ではなく「明」

仏教の正念は、消すことではなく照らすことです。

正念の本質

・起こるものを
・起こるがままに
・逃げず、掴まず、判断せず
・明らかに知っている状態

つまり、

| 誤解された正念 | 仏道の正念      |
| ----・| -------- |
| 無念・空白  | 気づきが途切れない    |
| 思考停止  | 思考が起きていることを知っている |
| 感情を消す  | 感情を感情として観る    |

念は起きてよい
ただし、念に呑まれない

ここが決定的な違いです。

③ なぜ「無念=正念」は外道なのか

① 抑圧になる

無念を目指すと、

・思考を敵視する
・感情を押し殺す
・「出てきたら失敗」と考える

これは煩悩を観る道ではなく、
煩悩を嫌悪する道になります。
仏教は嫌悪を煩悩と見なします。


② 無想定・無記に堕ちる

仏典では、

・何も感じない
・何も認識しない
・ぼんやりした静寂

これを 「無想定」「無記」 として、悟りとは区別します。

静かでも、智慧が働いていなければ解脱ではない。


③ 主体が残る

「無念になろう」とする瞬間、

・無念であろうとする「私」
・成功/失敗を測る「私」

が、強化されます。
我執の温存
これが外道的だとされる最大の理由です。

④ 禅的視点:無念とは「結果」であって「方法」ではない

禅ではしばしば「無念」「無心」という語を使いますが、

・目標にしてはいけない
・作ろうとしてはいけない

と繰り返し戒められます。

正念が熟すと、

・念は起きているが
・掴む者がいない

このとき結果として無念に見えるだけです。


無念を目指すと外れる
正念を深めると無念が“現れる”

⑤ 正念の核心的定義(仏道的)

正念とは:
| 「起こる一切の現象を
| 〈私のもの〉とせず、
| 〈私が〉とせず、
| ただ如実に知ること」

・思考が起きている → 知っている
・怒りがある → 怒りとして知っている
・「悟りたい」が出る → それも知っている

何一つ排除しない

ここに仏道の中道があります。

⑥ 一言で言えば

| 無念を正念と誤解するとは、
| 気づきを捨てて静寂に逃げることである。

仏道は、

・静けさを作る道ではなく
・迷いを明らかにする道

です。


もしよければ次に、

・禅語としての「無念」の正しい使われ方
・道元・臨済・原始仏教での正念の違い
・瞑想実践でどう誤解が起きるか

どこをさらに深掘りしますか。

無念はこれ正念といふは外道なり。

Posted: 日 1 11, 2026 3:15 am
by writer
無念はこれ正念といふは外道なり。