諸法実相の「月が月を照らし、人は己に出会う」と重ねると道元がもっと厳密に否定している点と言われる所がどうなるか

とても深い重ね合わせです。
結論から言うと――
その重ね合わせによってこそ、道元が「もっと厳密に否定している点」が、はっきり輪郭を持ちます。
そしてその否定は、あなたが挙げた
「月が月を照らし、人は己に出会う」
という理解を、一段深いところで切断するものになります。


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![Image](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ ... hi1887.jpg)
まず重ね合わせを正確に置く

あなたの参照している
諸法実相的理解を、簡潔に定式化すると:
・月が月を照らす
  → 真理は真理によって自証される
・人は己に出会う
  → 修行とは自己が自己に還ること

これは天台・法華的にも、非常に正統な言い方です。

そして一見すると、
道元の「万法に証せらるる」「自己をわするる」とも
よく響き合う。

しかし、道元が否定するのはここ

道元がより厳密に否定している点は、ここです。

| 「月が月を照らしている」と“言えてしまう立場”が残ること

つまり、

・月が月を照らす
・人が己に出会う

と把握できてしまう視点そのもの。

「月が月を照らす」は、まだ〈構図〉である

この言い方には、どうしても次の構造が残ります。

・照らす月
・照らされる月
・それを見ている理解者

たとえそれが
「自照」「自証」「無媒介」と言われても、
“照らしているという構図”が成立している

ここに、道元は最後まで警戒します。

これを「擬」との関係で見る

あなたが問題にしてきた、

| 水をきはめ、そらをきはめてのち、
| 水そらをゆかんと擬する鳥魚

に即して言えば、

・「月が月を照らす」と言えた瞬間
・それはすでに
 “照らす構造を把握した後”
・つまり
 きはめてのちの擬

になっている。

道元の決定的な一刀

だから道元は、次のように言うのです。

| 諸仏のまさしく諸仏なるときは、
| 自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。

ここで否定されているのは、

・仏であること
 ではなく
・仏であると“知る自己”

同じく、

・月が月を照らす
 という理解が立った瞬間、
 それはもう
 照らしている月ではない。

では道元は何を立てているのか

道元はこう言います。

| 証仏なり、仏を証しもてゆく。

これは、

・月が月を照らす
 でも
・人が己に出会う
 でもない。
月があることが、ただ月として進行している人があることが、ただ人として進行している

そこに、

・照らす
・出会う
・自証する

という動詞が成立する余地がない。

ここで「のち」の問題が決着する

あなたが問うた、

| 迷いの段階での擬は可能ではないか

という問いも、ここで決着します。

・擬が破れているうちは、擬ではない
・自照を語れるようになった瞬間、
 それはもう「のち」

だから道元は、

・月が月を照らす
 という完成された言い方を、
 最後まで採らない。

一文で言うなら(核心)

| 月が月を照らす、と言えた瞬間、
| その月は、もう照らしていない。

そして同様に、

| 人が己に出会った、と言えた瞬間、
| その人は、もう出会っていない。

これが、
道元が「もっと厳密に否定している点」です。

だから『現成公案』という題になる

・自照
・自証
・実相

ではなく、

| 現成

――すでに成っており、
しかし
誰の理解としても回収されない。

あなたの重ね合わせは正しい。
そしてその正しさが、
道元によって、さらに一段切り捨てられる地点を
正確に照らしています。
1.現成公案正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(0)  迷を大悟するは諸仏なり、 悟に大迷なるは衆生なり。(1)  さらに悟上に得悟する漢あり、 迷中又迷の漢あり。(0)  諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。(0)  法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(0)  万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(0)  仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(0)  仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(0)  なぜ“忘れる”が学びの頂点なのか(0)  水をきはめ、そらをきはめてのち、(0)  このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(0)  「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」(0)  仏法の証験、正伝の活路(0)  一方を証するときは一方はくらし(1)  自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(1) 
とても深い重ね合わせです。
結論から言うと――
その重ね合わせによってこそ、道元が「もっと厳密に否定している点」が、はっきり輪郭を持ちます。
そしてその否定は、あなたが挙げた
「月が月を照らし、人は己に出会う」
という理解を、一段深いところで切断するものになります。


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まず重ね合わせを正確に置く

あなたの参照している
諸法実相的理解を、簡潔に定式化すると:
・月が月を照らす
  → 真理は真理によって自証される
・人は己に出会う
  → 修行とは自己が自己に還ること

これは天台・法華的にも、非常に正統な言い方です。

そして一見すると、
道元の「万法に証せらるる」「自己をわするる」とも
よく響き合う。

しかし、道元が否定するのはここ

道元がより厳密に否定している点は、ここです。

| 「月が月を照らしている」と“言えてしまう立場”が残ること

つまり、

・月が月を照らす
・人が己に出会う

と把握できてしまう視点そのもの。

「月が月を照らす」は、まだ〈構図〉である

この言い方には、どうしても次の構造が残ります。

・照らす月
・照らされる月
・それを見ている理解者

たとえそれが
「自照」「自証」「無媒介」と言われても、
“照らしているという構図”が成立している

ここに、道元は最後まで警戒します。

これを「擬」との関係で見る

あなたが問題にしてきた、

| 水をきはめ、そらをきはめてのち、
| 水そらをゆかんと擬する鳥魚

に即して言えば、

・「月が月を照らす」と言えた瞬間
・それはすでに
 “照らす構造を把握した後”
・つまり
 きはめてのちの擬

になっている。

道元の決定的な一刀

だから道元は、次のように言うのです。

| 諸仏のまさしく諸仏なるときは、
| 自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。

ここで否定されているのは、

・仏であること
 ではなく
・仏であると“知る自己”

同じく、

・月が月を照らす
 という理解が立った瞬間、
 それはもう
 照らしている月ではない。

では道元は何を立てているのか

道元はこう言います。

| 証仏なり、仏を証しもてゆく。

これは、

・月が月を照らす
 でも
・人が己に出会う
 でもない。
月があることが、ただ月として進行している人があることが、ただ人として進行している

そこに、

・照らす
・出会う
・自証する

という動詞が成立する余地がない。

ここで「のち」の問題が決着する

あなたが問うた、

| 迷いの段階での擬は可能ではないか

という問いも、ここで決着します。

・擬が破れているうちは、擬ではない
・自照を語れるようになった瞬間、
 それはもう「のち」

だから道元は、

・月が月を照らす
 という完成された言い方を、
 最後まで採らない。

一文で言うなら(核心)

| 月が月を照らす、と言えた瞬間、
| その月は、もう照らしていない。

そして同様に、

| 人が己に出会った、と言えた瞬間、
| その人は、もう出会っていない。

これが、
道元が「もっと厳密に否定している点」です。

だから『現成公案』という題になる

・自照
・自証
・実相

ではなく、

| 現成

――すでに成っており、
しかし
誰の理解としても回収されない。

あなたの重ね合わせは正しい。
そしてその正しさが、
道元によって、さらに一段切り捨てられる地点を
正確に照らしています。