擬するは模擬すると読めないか

はい、読めます。
しかもこの文脈では、「模擬する」と読むほうが、むしろ道元の狙いに近いと言ってよいです。

以下、語義・文脈・思想の三層で整理します。

① 語義としての「擬する」

中世漢文・和漢混交文における 擬(ぎ) には、少なくとも次の含意があります。

・なぞらえる
・見立てる
・想定する
・模擬する/シミュレートする
・仮にそうしてみる(頭の中で)

つまり、

| 水そらをゆかんと擬する鳥魚

は、

・実際に行く
 ではなく
・行けるかどうかを、観念的にやってみる
・概念上で再現しようとする

という意味が十分に成立します。

② 文脈的に見ると「模擬」としか読めない理由

問題の前半はこうでした。

| 水をきはめ、そらをきはめてのち、

ここですでに、

・水を「対象化」し
・空を「理解可能なもの」として
・いったん外に置いている

その上で、

| 水そらをゆかんと擬する

これは、

・水や空を
・生きる条件としてではなく
・操作可能なモデルとして扱う

態度です。
これはまさに
模擬・シミュレーション・理論実験。

③ なぜ「模擬」が致命的なのか(仏道的核心)

仏道において致命的なのは、

・失敗すること
 ではなく
・生をモデル化すること

です。

魚にとって水は、

・理解対象ではない
・選択肢でもない
・検討課題でもない
即・命

鳥にとって空も同じ。

それを、

| 水をきはめ
| 空をきはめ
| そのうえで行ってみようと擬する

瞬間、

・魚は「水の外」に出され
・鳥は「空の外」に出される

だから道元は断言します。

| 水にもそらにも
| みちをうべからず
| ところをうべからず

④ 「模擬」は現代的に言えば何か

現代語に引き寄せるなら、これは:
・メタ認知
・システム理解後の最適行動
・理論武装してから実践
・「分かってからやる」態度

です。

道元はこれを、はっきり 否定しています。

なぜなら仏道は、

・分かる → 行く
 ではなく
・行くことが分かること

だから。

⑤ だから「鳥魚」という混線が起こる

模擬の世界では、

・魚であること
・鳥であること

は、入れ替え可能なロールになります。

・水の論理を知ったから
・空の構造も応用できるはずだ

という錯覚。

それが、

| 鳥魚

という、存在論的破綻として表現されている。

⑥ まとめ(ここが決定点)

| 「擬する」は、模擬である。
| そして模擬とは、命を一度、外に出すことだ。

魚が水を模擬した瞬間、魚ではなくなる。
鳥が空を模擬した瞬間、鳥ではなくなる。

だから、

・行けない
・飛べない

のではない。

| どこにも存在できなくなる。

これが、

| ところをうべからず

の正体です。


もしさらに一歩進めるなら、

・なぜ道元は「擬する」を否定しつつ、公案という「模擬的言語」を使うのか
・なぜ「風性常住」の話でも、理解ではなく「扇を使う」動作が出てくるのか

このあたりが、次の核心になります。
1.現成公案正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(0)  迷を大悟するは諸仏なり、 悟に大迷なるは衆生なり。(1)  さらに悟上に得悟する漢あり、 迷中又迷の漢あり。(0)  諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。(0)  法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(0)  万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(0)  仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(0)  仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(0)  なぜ“忘れる”が学びの頂点なのか(0)  水をきはめ、そらをきはめてのち、(0)  このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(0)  「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」(0)  仏法の証験、正伝の活路(0)  一方を証するときは一方はくらし(1)  自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(1) 
はい、読めます。
しかもこの文脈では、「模擬する」と読むほうが、むしろ道元の狙いに近いと言ってよいです。

以下、語義・文脈・思想の三層で整理します。

① 語義としての「擬する」

中世漢文・和漢混交文における 擬(ぎ) には、少なくとも次の含意があります。

・なぞらえる
・見立てる
・想定する
・模擬する/シミュレートする
・仮にそうしてみる(頭の中で)

つまり、

| 水そらをゆかんと擬する鳥魚

は、

・実際に行く
 ではなく
・行けるかどうかを、観念的にやってみる
・概念上で再現しようとする

という意味が十分に成立します。

② 文脈的に見ると「模擬」としか読めない理由

問題の前半はこうでした。

| 水をきはめ、そらをきはめてのち、

ここですでに、

・水を「対象化」し
・空を「理解可能なもの」として
・いったん外に置いている

その上で、

| 水そらをゆかんと擬する

これは、

・水や空を
・生きる条件としてではなく
・操作可能なモデルとして扱う

態度です。
これはまさに
模擬・シミュレーション・理論実験。

③ なぜ「模擬」が致命的なのか(仏道的核心)

仏道において致命的なのは、

・失敗すること
 ではなく
・生をモデル化すること

です。

魚にとって水は、

・理解対象ではない
・選択肢でもない
・検討課題でもない
即・命

鳥にとって空も同じ。

それを、

| 水をきはめ
| 空をきはめ
| そのうえで行ってみようと擬する

瞬間、

・魚は「水の外」に出され
・鳥は「空の外」に出される

だから道元は断言します。

| 水にもそらにも
| みちをうべからず
| ところをうべからず

④ 「模擬」は現代的に言えば何か

現代語に引き寄せるなら、これは:
・メタ認知
・システム理解後の最適行動
・理論武装してから実践
・「分かってからやる」態度

です。

道元はこれを、はっきり 否定しています。

なぜなら仏道は、

・分かる → 行く
 ではなく
・行くことが分かること

だから。

⑤ だから「鳥魚」という混線が起こる

模擬の世界では、

・魚であること
・鳥であること

は、入れ替え可能なロールになります。

・水の論理を知ったから
・空の構造も応用できるはずだ

という錯覚。

それが、

| 鳥魚

という、存在論的破綻として表現されている。

⑥ まとめ(ここが決定点)

| 「擬する」は、模擬である。
| そして模擬とは、命を一度、外に出すことだ。

魚が水を模擬した瞬間、魚ではなくなる。
鳥が空を模擬した瞬間、鳥ではなくなる。

だから、

・行けない
・飛べない

のではない。

| どこにも存在できなくなる。

これが、

| ところをうべからず

の正体です。


もしさらに一歩進めるなら、

・なぜ道元は「擬する」を否定しつつ、公案という「模擬的言語」を使うのか
・なぜ「風性常住」の話でも、理解ではなく「扇を使う」動作が出てくるのか

このあたりが、次の核心になります。