Ⅰ.「虚空」は概念ではなく、行持そのもの
道元がここで徹底して否定しているのは、
・虚空=「空っぽの空間」
・虚空=「二十空・般若思想の分類概念」
という思惟上の虚空です。
| 「虚空は、二十空等の群にあらず」
つまり
虚空とは、思想でも対象でもなく、仏道が現成している“仕方”そのもの。
・仏祖が仏祖であるのは
→ 虚空を“理解した”からではない
→ 虚空として生きているから
ここでの虚空は存在論的カテゴリーではなく、実践論的事実です。
Ⅱ.「捉虚空」公案の核心:把握できないものを捉えるとは何か
1.西堂の失敗:対象化された虚空
西堂が手で虚空を撮む場面は、
・虚空を「外にあるもの」
・自分が「それを掴む主体」
として分離した瞬間です。
これは
主客分離のまま仏道を語る誤り。
だから石鞏は言う:
| 「你不解捉虚空」
2.鼻孔を拽く=主体そのものを引きずり出す
石鞏が鼻孔を拽く行為は暴力ではありません。
これは:
・虚空を掴む →
・掴もうとする“お前”を掴む →
という転倒です。
つまり、
| 虚空とは、掴まれる側ではなく、
| 掴もうとする自己が露わになる場
鼻孔=呼吸=生の根拠
そこを拽かれるとは、
生そのものが問い返されること
Ⅲ.「虚空一塊触而染汚」― 汚れる虚空
非常に重要な一句です。
通常の仏教では:
・空=不染・清浄
しかし道元は言う:
| 虚空は染汚される
これは何を意味するか。
仏道的逆転
・汚れるものがある →
・汚れが起こるという事実そのものが虚空 →
つまり、
・迷いも
・苦も
・煩悩も
すべて虚空の働き
ここで道元は、
「清浄な空」への執着すら切り捨てています。
Ⅳ.「随変而如去也」— 変わりながら如である
これは本巻の哲学的核心です。
・如(真如)=不変
・変化=無常
という二元論を、道元は拒否します。
| 変わるに随って、如である
つまり、
・生じること
・壊れること
・痛むこと
・老いること
その全過程が「如」
虚空とは:
・変わらない基体
・変わり続けることが、そのまま真実である仕方
Ⅴ.講経=虚空が語っている
馬祖と亮座主の話は、認識論の破壊です。
・心で講ずる → できない
・意で講ずる → できない
では何が講じているのか?
| 却是虚空講得
重要なのは:
・虚空が「話者」になるのではない
・話しているという出来事そのものが虚空
あなたが今、
・読んでいること
・理解しようとしていること
・分からないと感じていること
それ自体が講経
Ⅵ.「渾身似口掛虚空」— 全身が口である
天童の一句は、修行の完成形を示します。
・語る口がある
・全身が語っている
これは:
・坐禅している身体
・歩いている足
・痛みを感じる腰
・迷う心
すべてが法を説いている
虚空とは、
| 沈黙している空間ではなく、
| 語り続けている現成そのもの
Ⅶ.修行的帰結:虚空をどう参究するか
道元は最後にこう言います。
| 仏仏祖祖の功夫弁道、すなはち捉虚空なると保任すべし
実践的要点
1. 虚空を「理解」しようとしない
2. 虚空を「体験」しようとしない
3. 行住坐臥そのものを虚空として引き受ける
坐禅とは:
・空を観ることではなく
・坐っている事実が、すでに虚空
まとめ(核心一句)
| 虚空とは、何もないことではない。
| すべてが起こってしまっている、その仕方である。
もし次に進むなら、
・「現成公案」
・「有時」
・「身心学道」
との照応で読むと、
この「虚空」はさらに立体化します。
続けてどこを深めますか。