洪州西山亮座主、因参馬祖。祖問、講什麼経(洪州西山の亮座主、因みに馬祖に参ず。祖問ふ、什麼経をか講ずる)。

洪州西山亮座主、因参馬祖。祖問、講什麼経
(洪州西山の亮座主、因みに馬祖に参ず。祖問ふ、什麼経をか講ずる)。

師曰、心経。 祖曰、将什麼講
(什麼を将てか講ずる)。

師曰、将心講
(心を将て講ず)。

祖曰、心如工伎兒、意如和伎者。六識為伴侶、争解講得経
(心は工伎兒の如く、意は和伎者の如し。六識伴侶たり、争でか経を講得することを解せん)。

師曰、心既講不得、莫是虚空講得麼
(心既に講不得ならば、是れ虚空講得すること莫き麼)。

祖曰、却是虚空講得(却つて是れ虚空講得せん)。

師払袖而退(師、払袖して退く)。

祖召云、座主。 師廻首(師、廻首す)。

祖曰、従生至老、只是這箇(生より老に至るまで、ただこれだけだ)。

師因而有省。遂隠西山、更無消息
(師、因みに省有り。遂に西山に隠れて更に消息無し)。

しかあればすなはち、仏祖はともに講経者なり。講経はかならず虚空なり。虚空にあらざれば一経をも講ずることをえざるなり。

心経を講ずるにも、身経を講ずるにも、ともに虚空をもて講ずるなり。

虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり。

有師智をなし、無師智をなす。

生知をなし、学而知をなす、ともに虚空なり。

作仏作祖、おなじく虚空なるべし。
この一段は、問答の巧拙ではなく、「講経とは何が起こっていることなのか」を、
存在の根から転倒させる場面です。
以下、仏道的に深掘りします。

一、構造を先に見る:三段階の破壊

この問答は、順に 三つの足場を壊しています。

1. 経を講ずる主体(人)
2. 講ずる手段(心・意・識)
3. 講経という行為そのもの

最終的に残るのは、「虚空としてしか成立しない講経」です。

二、「将心講」──修行者の自然な誤答

亮座主の答えは、決して浅くありません。

・講ずるのは文字ではない
・口でもない
・心をもって講ずる

これは、仏教教学としては高度です。

しかし 馬祖 は、
その高さそのものを問題にする。

三、「心如工伎兒…」──心は主ではない

馬祖の譬えは非常に鋭い。

・心=工伎兒(からくり人形)
・意=和伎者(操り手)
・六識=伴侶

ここで言われているのは:
| 心は自律的な主体ではない

つまり、

・心で悟る
・心で講ずる
・心で修行する

と思った瞬間、
すでに 心は操られている側 になっている。
心を「道具」にした時点で、
講経は成立しない。

四、「虚空講得麼」──最後の逃げ道

追い詰められた亮座主は、
極めて仏教的な仮説を出す。

| 心で講じられないなら、
| 虚空が講じているのではないか

これは一見、正解に見える。

しかし重要なのは、
まだ「仮説」だから。

五、「却是虚空講得」──主体の完全消滅

馬祖は否定しない。
肯定する。

| まさに、虚空が講じている

だがこれは、

・虚空という何かがある
・それが主体として講じる

という意味ではない。

仏道的意味

・講じようとする者がいない
・講じられる対象もいない
・それでも「講経」という事実が成立している
出来事そのものが虚空

六、払袖而退──まだ「わかったつもり」

亮座主は立ち去る。

これは悟りではない。

・理解した
・答えが出た
・決着がついた

と思ったための退却。

だから馬祖は、追い討ちをかける。

七、「従生至老、只是這箇」──一生を貫く事実

振り返った亮座主に向かって、

| 生から老に至るまで、
| ただこれだけだ

ここで初めて、
亮座主は「省(さとり)」に至る。

なぜか。

それは:
・一度の理解
・一場の問答
・一瞬の体験

ではなく、
生涯を通して起こり続ける事実
として「虚空講経」を引き受けたから。

八、道元の総括が決定的

道元はこの公案を、こう畳みかける。

・心経を講ずるにも虚空
・身経を講ずるにも虚空
・思量も虚空
・不思量も虚空
・有師智も無師智も虚空

これは相対化ではない。

| どの立場にも逃げ場がない

という宣告。

九、仏道的核心(この段の一点)

| 講経とは、
| 何かを語る行為ではない。
|
| 生きてしまっていることそのものが、
| すでに説法であるという事実である。

だから、

・仏になること
・祖になること

すら、

| 虚空としてしか起こらない

十、修行への直結

この段は、私たちにこう突きつける。

・今の沈黙は、何を講じているか
・今の迷いは、何経か
・今の老いは、何を説いているか

答えを探す必要はない。
すでに講じ終えている
それを引き受けること。

そこに、
「虚空」の仏道があります。


もし次に深めるなら、

・「虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり」
・「作仏作祖、おなじく虚空なるべし」

ここは、坐禅観と直結します。
洪州西山亮座主、因参馬祖。祖問、講什麼経
(洪州西山の亮座主、因みに馬祖に参ず。祖問ふ、什麼経をか講ずる)。

師曰、心経。 祖曰、将什麼講
(什麼を将てか講ずる)。

師曰、将心講
(心を将て講ず)。

祖曰、心如工伎兒、意如和伎者。六識為伴侶、争解講得経
(心は工伎兒の如く、意は和伎者の如し。六識伴侶たり、争でか経を講得することを解せん)。

師曰、心既講不得、莫是虚空講得麼
(心既に講不得ならば、是れ虚空講得すること莫き麼)。

祖曰、却是虚空講得(却つて是れ虚空講得せん)。

師払袖而退(師、払袖して退く)。

祖召云、座主。 師廻首(師、廻首す)。

祖曰、従生至老、只是這箇(生より老に至るまで、ただこれだけだ)。

師因而有省。遂隠西山、更無消息
(師、因みに省有り。遂に西山に隠れて更に消息無し)。

しかあればすなはち、仏祖はともに講経者なり。講経はかならず虚空なり。虚空にあらざれば一経をも講ずることをえざるなり。

心経を講ずるにも、身経を講ずるにも、ともに虚空をもて講ずるなり。

虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり。

有師智をなし、無師智をなす。

生知をなし、学而知をなす、ともに虚空なり。

作仏作祖、おなじく虚空なるべし。
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