Re: この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
Posted: 水 1 14, 2026 10:57 am
この一句は『弁道話』の中でも、
仏道の実践構造を一言で確定してしまう決定句です。
| 「なぜ坐るのか」
| 「何をしているのか」
| 「どこへ行くのか」
そのすべてを、ここで道元は終わらせています。
以下、仏道的に深掘りします。
一、「この三昧」とは何か
――到達すべき境地ではない
直前に出る「この三昧」とは、
| 自受用三昧
です。
重要なのは:
・特別な禅定状態
・深い集中
・トランス状態
ではないこと。
仏道的意味
自受用三昧とは、
・仏が仏として
・何のためでもなく
・誰の評価もなく
ただ仏として受用している在り方
つまり、
| 仏が生きている、その仕方そのもの
二、「遊化する」──修行は修行らしくない
| この三昧に 遊化する
ここが非常に重要です。
「修する」「得る」「鍛える」ではない。
遊化とは
・遊ぶように
・しかし逃げずに
・完全にその中にある
努力や成果の論理から完全に外れている
仏道は、
・苦行でも
・目的達成でもない
生きてしまっている事実の自然な運動
三、「端坐参禅」──技法の否定
ここで道元は、
・呼吸法
・観想
・数息
・公案操作
を一切言わない。
ただ、
| 端坐参禅
端坐とは
・姿勢を正す
・礼儀作法
ではない。
身心を部分的に使わないこと逃げ場を残さない坐り方
四、「正門」とは何か
――近道ではない
| 正門とせり
正門とは:
・正解の入口
・一番効率のよい方法
仏道的定義
| 回り道のできない入口
・理解で入れない
・信仰だけでも入れない
・他人任せでも入れない
自分の身心を、そのまま差し出す以外、入れない門
五、なぜ坐禅だけが正門なのか
他の修行を否定しているのではありません。
しかし、
・読経
・念仏
・儀礼
・学問
これらはすべて、
| 「何かをしている私」
| が残る
坐禅だけは違う。
・何かを成し遂げない
・何かを表現しない
・何かを積み上げない
ただ坐ってしまっている事実だけが残る
だから正門。
六、修証一等との完全一致
この一句は、後に説かれる
| 修証これ一等なり
の実践的表現です。
・修行 → 証悟への道
・坐禅 → 自受用三昧の現成
坐っていることが、
| すでに仏が遊化している事実
七、坐禅中に起こるすべてが「三昧」
ここから重要な帰結が生まれます。
・集中できない
・雑念が止まらない
・痛い
・退屈
それらを排除しようとした瞬間、正門から外れる
なぜなら:
| 正門とは、
| 状態に入ることではなく、
| 逃げ場のない坐り方だから。
八、仏道的核心(この一句の一点)
| 坐禅は、
| 仏になるための方法ではない。
|
| 仏が仏として生きている様を、
| そのまま引き受ける入口である。
結び(修行者への一句)
| 坐る理由を探した瞬間、
| すでに門の外にいる。
|
| 理由なしに坐ること、
| それが正門である。
この一句を、
今日の一坐の中でどう引き受けるか。
それが『弁道話』の実地です。
仏道の実践構造を一言で確定してしまう決定句です。
| 「なぜ坐るのか」
| 「何をしているのか」
| 「どこへ行くのか」
そのすべてを、ここで道元は終わらせています。
以下、仏道的に深掘りします。
一、「この三昧」とは何か
――到達すべき境地ではない
直前に出る「この三昧」とは、
| 自受用三昧
です。
重要なのは:
・特別な禅定状態
・深い集中
・トランス状態
ではないこと。
仏道的意味
自受用三昧とは、
・仏が仏として
・何のためでもなく
・誰の評価もなく
ただ仏として受用している在り方
つまり、
| 仏が生きている、その仕方そのもの
二、「遊化する」──修行は修行らしくない
| この三昧に 遊化する
ここが非常に重要です。
「修する」「得る」「鍛える」ではない。
遊化とは
・遊ぶように
・しかし逃げずに
・完全にその中にある
努力や成果の論理から完全に外れている
仏道は、
・苦行でも
・目的達成でもない
生きてしまっている事実の自然な運動
三、「端坐参禅」──技法の否定
ここで道元は、
・呼吸法
・観想
・数息
・公案操作
を一切言わない。
ただ、
| 端坐参禅
端坐とは
・姿勢を正す
・礼儀作法
ではない。
身心を部分的に使わないこと逃げ場を残さない坐り方
四、「正門」とは何か
――近道ではない
| 正門とせり
正門とは:
・正解の入口
・一番効率のよい方法
仏道的定義
| 回り道のできない入口
・理解で入れない
・信仰だけでも入れない
・他人任せでも入れない
自分の身心を、そのまま差し出す以外、入れない門
五、なぜ坐禅だけが正門なのか
他の修行を否定しているのではありません。
しかし、
・読経
・念仏
・儀礼
・学問
これらはすべて、
| 「何かをしている私」
| が残る
坐禅だけは違う。
・何かを成し遂げない
・何かを表現しない
・何かを積み上げない
ただ坐ってしまっている事実だけが残る
だから正門。
六、修証一等との完全一致
この一句は、後に説かれる
| 修証これ一等なり
の実践的表現です。
・修行 → 証悟への道
・坐禅 → 自受用三昧の現成
坐っていることが、
| すでに仏が遊化している事実
七、坐禅中に起こるすべてが「三昧」
ここから重要な帰結が生まれます。
・集中できない
・雑念が止まらない
・痛い
・退屈
それらを排除しようとした瞬間、正門から外れる
なぜなら:
| 正門とは、
| 状態に入ることではなく、
| 逃げ場のない坐り方だから。
八、仏道的核心(この一句の一点)
| 坐禅は、
| 仏になるための方法ではない。
|
| 仏が仏として生きている様を、
| そのまま引き受ける入口である。
結び(修行者への一句)
| 坐る理由を探した瞬間、
| すでに門の外にいる。
|
| 理由なしに坐ること、
| それが正門である。
この一句を、
今日の一坐の中でどう引き受けるか。
それが『弁道話』の実地です。