はなてばてにみてり、一多のきはならむや。
はなてばてにみてり、一多のきはならむや。
■1.弁道話:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。(1) これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。(1) この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。(1) この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。(1) はなてばてにみてり、一多のきはならむや。(1) かたればくちにみつ、縱横きはまりなし。(1) 諸仏のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覚をのこさず。(0) 群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。(0) いまをしふる功夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。(0) その超関脱落のとき、この節目にかかはらむや。(0) 予発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。(0) ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。いささか臨濟の家風をきく。(0) 仏道的に深掘りする視点(0)
★注目スレッド: 諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。(1) これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。(1) この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。(1) この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。(1) はなてばてにみてり、一多のきはならむや。(1) かたればくちにみつ、縱横きはまりなし。(1) 諸仏のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覚をのこさず。(0) 群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。(0) いまをしふる功夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。(0) その超関脱落のとき、この節目にかかはらむや。(0) 予発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。(0) ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。いささか臨濟の家風をきく。(0) 仏道的に深掘りする視点(0)
この一句もまた短いですが、『弁道話』の中で
仏道を「所有・数量・位置」から完全に引き剥がす決定句です。
言い換えれば、悟りを“どこかにあるもの”として探す心を断つ刃です。
一、まず素直に読む
| はなてばてにみてり、
| 一多のきはならむや。
語順を崩さずに言えば:
・放っておけば、すでにあらゆるところに満ちている
・それを一つだとか、多いだとか、どうして区別できようか
ここでも、
「何が」満ちているのかは言われていない。
それが重要です。
二、「はなてばてにみてり」──努力以前に満ちている
「はなてばて」とは、
・端から端まで
・すみずみまで
・境界の外まで
という意味ですが、
ここでの決定点は 条件節 にあります。
| はなてばてに みてり
これは、
・修行した結果、満ちる
・努力すれば行き渡る
ではありません。
放っておいても、すでに満ちきっている
ここで崩れるのは、
・足りないという感覚
・補わねばならないという発想
・修行=欠如の補填という理解
三、それでも修行が要る理由が消えない理由
ここで、多くの人がつまずきます。
| 「すでに満ちているなら、
| 修行はいらないのでは?」
しかし、道元はすぐ次に釘を刺す。
| 一多のきはならむや
四、「一多のきはならむや」──数えた瞬間に外れる
「一」と「多」は、
・一つの真理
・多くの現象
・本体と作用
・絶対と相対
など、あらゆる哲学的区分を含みます。
道元はそれを一気に否定する。
| どうして一だの多だのと、
| 境界を立てられようか
仏道的核心
・一つと見る → 把握しようとしている
・多いと見る → 分析しようとしている
どちらも「見る側」が立っている
しかし、
| はなてばてに満ちているものには、
| 外から数える位置がない。
五、「満ちている」と「現れない」は矛盾しない
ここで、先の一句と深く響き合います。
| 人人の分上にそなはれり
| いまだ修せざるにはあらはれず
・満ちている
・しかし現れない
なぜか。
満ちているがゆえに、
対象としては見えない
・欠けているものは探せる
・満ちているものは探せない
修行とは、
| 満ちているものを得ることではなく、
| 探そうとする姿勢が崩れること
六、坐禅との直結
坐禅中に起こる典型的な迷い:
・うまくいっているか
・進んでいるか
・何か得たか
これらはすべて、
| 一か多かを量ろうとする心
しかし、道元は言う。
・坐っている時点で
・すでに端から端まで満ちている
量ろうとする心が、
満ちている事実を覆い隠している
七、仏道的核心(この一句の一点)
| 仏道は、
| 増えるものでも、減るものでもない。
|
| すでに余すところなく満ちているがゆえに、
| 一つとも、多いとも、
| 言いようがないのである。
結び(修行者への一句)
| 足りないと思うところに、
| 修行は始まらない。
|
| すでに満ちているのに、
| それを数えようとする心が、
| 迷いを生む。
この一句は、
安心させるための言葉ではありません。
「もう足りている」という地点から、
なお坐らねばならない理由を、
逆説的に突きつける言葉です。
そこに、
『弁道話』の厳しさがあります。
仏道を「所有・数量・位置」から完全に引き剥がす決定句です。
言い換えれば、悟りを“どこかにあるもの”として探す心を断つ刃です。
一、まず素直に読む
| はなてばてにみてり、
| 一多のきはならむや。
語順を崩さずに言えば:
・放っておけば、すでにあらゆるところに満ちている
・それを一つだとか、多いだとか、どうして区別できようか
ここでも、
「何が」満ちているのかは言われていない。
それが重要です。
二、「はなてばてにみてり」──努力以前に満ちている
「はなてばて」とは、
・端から端まで
・すみずみまで
・境界の外まで
という意味ですが、
ここでの決定点は 条件節 にあります。
| はなてばてに みてり
これは、
・修行した結果、満ちる
・努力すれば行き渡る
ではありません。
放っておいても、すでに満ちきっている
ここで崩れるのは、
・足りないという感覚
・補わねばならないという発想
・修行=欠如の補填という理解
三、それでも修行が要る理由が消えない理由
ここで、多くの人がつまずきます。
| 「すでに満ちているなら、
| 修行はいらないのでは?」
しかし、道元はすぐ次に釘を刺す。
| 一多のきはならむや
四、「一多のきはならむや」──数えた瞬間に外れる
「一」と「多」は、
・一つの真理
・多くの現象
・本体と作用
・絶対と相対
など、あらゆる哲学的区分を含みます。
道元はそれを一気に否定する。
| どうして一だの多だのと、
| 境界を立てられようか
仏道的核心
・一つと見る → 把握しようとしている
・多いと見る → 分析しようとしている
どちらも「見る側」が立っている
しかし、
| はなてばてに満ちているものには、
| 外から数える位置がない。
五、「満ちている」と「現れない」は矛盾しない
ここで、先の一句と深く響き合います。
| 人人の分上にそなはれり
| いまだ修せざるにはあらはれず
・満ちている
・しかし現れない
なぜか。
満ちているがゆえに、
対象としては見えない
・欠けているものは探せる
・満ちているものは探せない
修行とは、
| 満ちているものを得ることではなく、
| 探そうとする姿勢が崩れること
六、坐禅との直結
坐禅中に起こる典型的な迷い:
・うまくいっているか
・進んでいるか
・何か得たか
これらはすべて、
| 一か多かを量ろうとする心
しかし、道元は言う。
・坐っている時点で
・すでに端から端まで満ちている
量ろうとする心が、
満ちている事実を覆い隠している
七、仏道的核心(この一句の一点)
| 仏道は、
| 増えるものでも、減るものでもない。
|
| すでに余すところなく満ちているがゆえに、
| 一つとも、多いとも、
| 言いようがないのである。
結び(修行者への一句)
| 足りないと思うところに、
| 修行は始まらない。
|
| すでに満ちているのに、
| それを数えようとする心が、
| 迷いを生む。
この一句は、
安心させるための言葉ではありません。
「もう足りている」という地点から、
なお坐らねばならない理由を、
逆説的に突きつける言葉です。
そこに、
『弁道話』の厳しさがあります。
はなてばてにみてり、一多のきはならむや。