震旦第六祖曹谿山大鑑禅師、そのかみ黄梅山に参ぜしはじめ、五祖とふ、なんぢいづれのところよりかきたれる。 六祖いはく、嶺南人なり。 五祖いはく、きたりてなにごとをかもとむる。 六いはく、作仏をもとむ。 五祖いはく、嶺南人無
Posted: 2026年1月15日(木) 10:48
震旦第六祖曹谿山大鑑禅師、そのかみ黄梅山に参ぜしはじめ、五祖とふ、なんぢいづれのところよりかきたれる。
六祖いはく、嶺南人なり。
五祖いはく、きたりてなにごとをかもとむる。
六いはく、作仏をもとむ。
五祖いはく、嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん。
この嶺南人無仏性といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、嶺南人、無仏性となり。いかにしてか作仏せんといふは、いかなる作仏をか期するといふなり。
おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および経論師のしるべきにあらず。
仏祖の兒孫のみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。十聖三賢のあきらむるところにあらず。衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。成仏以来に具足する法なりと参学する正的なり。かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし。かくのごとく学せずば、仏法あへて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。このゆゑに、五祖は向他道するに、嶺南人無仏性と為道するなり。見仏聞法の最初に、難得難聞なるは、衆生無仏性なり。或従知識、或従経巻するに、きくことのよろこぶべきは衆生無仏性なり。一切衆生無仏性を、見聞覚知に参飽せざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり。六祖もはら作仏をもとむるに、五祖よく六祖を作仏せしむるに、他の道取なし、善巧なし。ただ嶺南人無仏性といふ。しるべし、無仏性の道取聞取、これ作仏の直道なりといふことを。しかあれば、無仏性の正当恁麼時すなはち作仏なり。無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり。
六祖いはく、人有南北なりとも、仏性無南北なり。この道取を挙して、句裏を功夫すべし。南北の言、まさに赤心に照顧すべし。六祖道得の句に宗旨あり。いはゆる人は作仏すとも、仏性は作仏すべからずといふ一隅の搆得あり。六祖これをしるやいなや。
四祖五祖の道取する無仏性の道得、はるかに得礙の力量ある一隅をうけて、迦葉仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は、作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり。悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん。しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性と問取すべし、なにものかこれ仏性とたづぬべし。いまの人も、仏性とききぬれば、いかなるかこれ仏性と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒なり。しかあれば、諸無の無は、無仏性の無に学すべし。六祖の道取する人有南北、仏性無南北の道、ひさしく再三撈摝すべし、まさに撈波子に力量あるべきなり。六祖の道取する人有南北仏性無南北の道、しづかに拈放すべし。おろかなるやからおもはくは、人間には質礙すれば南北あれども、仏性は虚融にして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度するは、無分の愚蒙なるべし。この邪解を抛却して、直須勤学すべし。
六祖いはく、嶺南人なり。
五祖いはく、きたりてなにごとをかもとむる。
六いはく、作仏をもとむ。
五祖いはく、嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん。
この嶺南人無仏性といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、嶺南人、無仏性となり。いかにしてか作仏せんといふは、いかなる作仏をか期するといふなり。
おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および経論師のしるべきにあらず。
仏祖の兒孫のみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。十聖三賢のあきらむるところにあらず。衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。成仏以来に具足する法なりと参学する正的なり。かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし。かくのごとく学せずば、仏法あへて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。このゆゑに、五祖は向他道するに、嶺南人無仏性と為道するなり。見仏聞法の最初に、難得難聞なるは、衆生無仏性なり。或従知識、或従経巻するに、きくことのよろこぶべきは衆生無仏性なり。一切衆生無仏性を、見聞覚知に参飽せざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり。六祖もはら作仏をもとむるに、五祖よく六祖を作仏せしむるに、他の道取なし、善巧なし。ただ嶺南人無仏性といふ。しるべし、無仏性の道取聞取、これ作仏の直道なりといふことを。しかあれば、無仏性の正当恁麼時すなはち作仏なり。無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり。
六祖いはく、人有南北なりとも、仏性無南北なり。この道取を挙して、句裏を功夫すべし。南北の言、まさに赤心に照顧すべし。六祖道得の句に宗旨あり。いはゆる人は作仏すとも、仏性は作仏すべからずといふ一隅の搆得あり。六祖これをしるやいなや。
四祖五祖の道取する無仏性の道得、はるかに得礙の力量ある一隅をうけて、迦葉仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は、作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり。悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん。しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性と問取すべし、なにものかこれ仏性とたづぬべし。いまの人も、仏性とききぬれば、いかなるかこれ仏性と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒なり。しかあれば、諸無の無は、無仏性の無に学すべし。六祖の道取する人有南北、仏性無南北の道、ひさしく再三撈摝すべし、まさに撈波子に力量あるべきなり。六祖の道取する人有南北仏性無南北の道、しづかに拈放すべし。おろかなるやからおもはくは、人間には質礙すれば南北あれども、仏性は虚融にして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度するは、無分の愚蒙なるべし。この邪解を抛却して、直須勤学すべし。