予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる、嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山広利禅寺にいたる。西廊の壁間に、西天東地三十三祖の変相を画せるをみる。このとき領覽なし。のちに悪慶元年乙酉夏安居のなかに、かさねていたるに、西蜀の成桂知客と、廊下を行歩するついでに、
予、知客にとふ。這箇は是れ什麼の変相ぞ。
知客いはく、龍樹の身現円月相なり。かく道取する顔色に鼻孔なし、声裏に語句なし。
予いはく、真箇に是れ一枚の画餅に相似せり。
ときに知客、大笑すといへども、笑裏に刀無く、画餅を破すること不得なり。
すなはち知客と予と、舍利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、数番挙揚すれども、疑著するにもおよばず。おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。
予いはく、堂頭にとふてみん。ときに堂頭は大光和尚なり。
知客いはく、他は鼻孔無し、対へ得じ。如何でか知ることを得ん。
ゆゑに光老にとはず。恁麼道取すれども、桂兄も会すべからず。聞説する皮袋も道取せるなし。前後の粥飯頭みるにあやしまず、あらためなほさず。又、画することうべからざらん法はすべて画せざるべし。画すべくは端直に画すべし。しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり。
おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて、有仏性の道にも、無仏性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疎怠は癈せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり。なにといふ魔党の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。
予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる、嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山広利禅寺にいたる。西廊の壁間に、西天東地三十三祖の変相を画せるをみる。このとき領覽なし。のちに悪慶元年乙酉夏安居のなかに、かさねていたるに、西蜀の成桂知客と、廊下
■3.佛性:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 釈迦牟尼仏言、一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易。(0) 一切諸仏 一切祖師の頂額眼睛なり。(0) 世尊の道ふ一切衆生 悉有仏性、その宗旨いかん。(0) 是什麼物恁麼来の道転法輪なり。(1) あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。(1) ――「仏性は“あるもの”ではなく、“成仏と同時に現れる働き”である」(0) 仏性は 何かが中にあることではなく、 “存在が存在として成立している仕方”そのもの(0) 佛性は有でも無でもない理由(0) 佛性は有と言えば、固定化する、無と言えば、否定対象になる👉 どちらも「対象化」だから誤り(0) 往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稻麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。(0) ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに條條の赤心な(0) 仏言はく、仏性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す。 いま仏性義をしらんとおもはばといふは、ただ知のみにあらず、行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかんとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふ(0) 当観といふは、能観所観にかかはれず、正観邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり、時節因縁漸なり、超越因縁なり。仏性漸なり、脱体仏性なり。仏仏漸なり、性性漸なり。(0) 時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、弁道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見(0) 第十二祖馬鳴尊者、第十三祖のために仏性海をとくにいはく、 山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲発現。 しかあれば、この山河大地、みな仏性海なり。皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり。すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性(0)
★注目スレッド: 釈迦牟尼仏言、一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易。(0) 一切諸仏 一切祖師の頂額眼睛なり。(0) 世尊の道ふ一切衆生 悉有仏性、その宗旨いかん。(0) 是什麼物恁麼来の道転法輪なり。(1) あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。(1) ――「仏性は“あるもの”ではなく、“成仏と同時に現れる働き”である」(0) 仏性は 何かが中にあることではなく、 “存在が存在として成立している仕方”そのもの(0) 佛性は有でも無でもない理由(0) 佛性は有と言えば、固定化する、無と言えば、否定対象になる👉 どちらも「対象化」だから誤り(0) 往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稻麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。(0) ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに條條の赤心な(0) 仏言はく、仏性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す。 いま仏性義をしらんとおもはばといふは、ただ知のみにあらず、行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかんとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふ(0) 当観といふは、能観所観にかかはれず、正観邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり、時節因縁漸なり、超越因縁なり。仏性漸なり、脱体仏性なり。仏仏漸なり、性性漸なり。(0) 時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、弁道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見(0) 第十二祖馬鳴尊者、第十三祖のために仏性海をとくにいはく、 山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲発現。 しかあれば、この山河大地、みな仏性海なり。皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり。すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性(0)
予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる、嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山広利禅寺にいたる。西廊の壁間に、西天東地三十三祖の変相を画せるをみる。このとき領覽なし。のちに悪慶元年乙酉夏安居のなかに、かさねていたるに、西蜀の成桂知客と、廊下を行歩するついでに、
予、知客にとふ。這箇は是れ什麼の変相ぞ。
知客いはく、龍樹の身現円月相なり。かく道取する顔色に鼻孔なし、声裏に語句なし。
予いはく、真箇に是れ一枚の画餅に相似せり。
ときに知客、大笑すといへども、笑裏に刀無く、画餅を破すること不得なり。
すなはち知客と予と、舍利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、数番挙揚すれども、疑著するにもおよばず。おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。
予いはく、堂頭にとふてみん。ときに堂頭は大光和尚なり。
知客いはく、他は鼻孔無し、対へ得じ。如何でか知ることを得ん。
ゆゑに光老にとはず。恁麼道取すれども、桂兄も会すべからず。聞説する皮袋も道取せるなし。前後の粥飯頭みるにあやしまず、あらためなほさず。又、画することうべからざらん法はすべて画せざるべし。画すべくは端直に画すべし。しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり。
おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて、有仏性の道にも、無仏性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疎怠は癈せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり。なにといふ魔党の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。
予、知客にとふ。這箇は是れ什麼の変相ぞ。
知客いはく、龍樹の身現円月相なり。かく道取する顔色に鼻孔なし、声裏に語句なし。
予いはく、真箇に是れ一枚の画餅に相似せり。
ときに知客、大笑すといへども、笑裏に刀無く、画餅を破すること不得なり。
すなはち知客と予と、舍利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、数番挙揚すれども、疑著するにもおよばず。おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。
予いはく、堂頭にとふてみん。ときに堂頭は大光和尚なり。
知客いはく、他は鼻孔無し、対へ得じ。如何でか知ることを得ん。
ゆゑに光老にとはず。恁麼道取すれども、桂兄も会すべからず。聞説する皮袋も道取せるなし。前後の粥飯頭みるにあやしまず、あらためなほさず。又、画することうべからざらん法はすべて画せざるべし。画すべくは端直に画すべし。しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり。
おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて、有仏性の道にも、無仏性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疎怠は癈せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり。なにといふ魔党の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。