仏性を“説明可能な対象”にしようとする思考を止めよ

仏性を“説明可能な対象”にしようとする思考を止めよ
3.佛性正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 釈迦牟尼仏言、一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易。(0)  一切諸仏 一切祖師の頂額眼睛なり。(0)  世尊の道ふ一切衆生 悉有仏性、その宗旨いかん。(0)  是什麼物恁麼来の道転法輪なり。(1)  あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。(1)  ――「仏性は“あるもの”ではなく、“成仏と同時に現れる働き”である」(0)  仏性は 何かが中にあることではなく、 “存在が存在として成立している仕方”そのもの(0)  佛性は有でも無でもない理由(0)  佛性は有と言えば、固定化する、無と言えば、否定対象になる👉 どちらも「対象化」だから誤り(0)  往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稻麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。(0)  ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに條條の赤心な(0)  仏言はく、仏性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す。   いま仏性義をしらんとおもはばといふは、ただ知のみにあらず、行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかんとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふ(0)  当観といふは、能観所観にかかはれず、正観邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり、時節因縁漸なり、超越因縁なり。仏性漸なり、脱体仏性なり。仏仏漸なり、性性漸なり。(0)  時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、弁道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見(0)  第十二祖馬鳴尊者、第十三祖のために仏性海をとくにいはく、 山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲発現。   しかあれば、この山河大地、みな仏性海なり。皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり。すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性(0) 
では、この段を一点突破で深掘りします。
鍵はただ一つ――「莫妄想」です。

仏道的に深掘りする核心視点

――「莫妄想」とは、思考停止ではなく仏性を成立させようとする回路を断つこと

① 問いそのものが、すでに妄想である

発端はこの問いです。

| 蚯蚓斬れて両段と為る、両頭倶に動く。
| 未審、仏性阿那箇頭にか在る。

ここで起きていることは何か。

・仏性を「どこかに在るもの」と想定し
・在処を特定しようとする
・動き(生理現象)と仏性を対応させようとする
この構え全体が「妄想」

だから 長沙景岑 は、

| 莫妄想

としか言わない。

② 「莫妄想」は答えではない

重要なのはここです。

| 妄想することなかれ、といふなり

これは

・「考えるな」
・「分析するな」

ではありません。

仏道的意味

| 仏性を“説明可能な対象”にしようとする思考を止めよ

つまり、

・仏性があるか/ないか
・どこにあるか
・動いている時はどうか

こうした二次的処理をすべて断て、ということ。

③ 「両頭倶動」でも、仏性は増えも減りもしない

道元は、問いをさらに追い詰めます。

| 動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか
| 動ずれば仏性にあらざらんと道著するか

これは二択ではありません。

・動いたら仏性が出る → ❌
・動いたら仏性が消える → ❌
どちらも「仏性を条件づける妄想」

④ 「風火未散」の決定的転換

| 風火未散

普通に読むと、

・まだ生命反応が残っている
・だから動いている

となります。

しかし道元は、ここを完全に反転させます。

| 風火未散はほとけ法をとく
| 未散風火は法ほとけをとく

ここで起きている転換

・風火が仏性を説明する → ❌
・風火そのものが説法している → ⭕

仏性は、

・原因ではなく
・結果でもなく
・現前の出来事そのもの

⑤ 「一音の法」=この瞬間しかない

| 法は一音なり

これは非常に重要です。

・一音とは
 → 過去にも未来にも分割できない
・一音が鳴った「その時」以外に、法はない

つまり、

| 仏性は、持続する実体ではなく、
| 現前している“出来事”

⑥ 生にも死にも属さない理由

| 生のときも有仏性なり、無仏性なり
| 死のときも有仏性なり、無仏性なり

ここで道元は、

・生=仏性あり
・死=仏性なし

という時間的理解を完全に壊します。

仏道的に言えば

| 仏性は
| 生死をまたいで存続するものではなく、
| 生死が起きているその現成である

⑦ 最後の断罪:「識神=仏性」説

| 識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり

ここで道元が切って捨てるのは、

・意識
・観照する心
・気づいている主体

を仏性とする理解です。
それは「分かっている私」を温存する最大の妄想

⑧ 「牆壁瓦礫」こそが出口

| 拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり

仏性は、

・高尚なものでもなく
・微細なものでもなく
壁・瓦礫・動いている蚯蚓と同じ次元

ここにまで落としきって、
はじめて「莫妄想」が生きる。

⑨ 最後の一句「三頭八臂」

これは説明ではありません。

・意味を取ろうとする瞬間
・すでに妄想が再起動する
思考を切断するための打撃句

総まとめ(一点)

| 「莫妄想」とは、
| 仏性を理解しようとする心を止めることではない。
|
| 仏性を“成立させようとする思考回路”を、
| その場で断つことである。

だから長沙は、

・有とも言わず
・無とも言わず

ただ、

| 莫妄想
| 風火未散

としか言わない。

ここに、
仏性を生かす唯一の活計があります。


次に進むなら、

・「莫妄想」と只管打坐の関係
・「一音の法」と現成公案
・「牆壁瓦礫」と無情説法

このどれかを掘ると、さらに一段深くなります。
仏性を“説明可能な対象”にしようとする思考を止めよ
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