仏道的に深掘りする視点
仏道的に深掘りする視点
■4.唯佛與佛:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 仏道的に深掘りする視点(1) ――「唯仏与仏」とは、理解の問題ではなく“立場の問題”である(1) 仏法は、人の知るべきにはあらず。(1) いはゆるその面目は、不染汚なり(1) ふるき人のいはく、尽大地これ自己の法身にてあれども、法身にさへられざるべし。(1)
★注目スレッド: 仏道的に深掘りする視点(1) ――「唯仏与仏」とは、理解の問題ではなく“立場の問題”である(1) 仏法は、人の知るべきにはあらず。(1) いはゆるその面目は、不染汚なり(1) ふるき人のいはく、尽大地これ自己の法身にてあれども、法身にさへられざるべし。(1)
では、この巻全体を貫く仏道的に深掘りするための「一本の視点」を示します。
細部解説ではなく、読解の立脚点です。
仏道的に深掘りする核心視点
――「唯仏与仏」とは、理解の問題ではなく“立場の問題”である
① 冒頭一句がすでにすべてを言っている
| 仏法は、人の知るべきにはあらず。
ここで道元は、はっきり線を引きます。
・凡夫が知って理解する仏法
・二乗が到達して把握する仏法
だから続けて言う。
| 唯仏与仏、乃能究尽
これは
「仏しか分からない」という排他主義ではありません。
“仏であるという立場”でしか、仏法は現れない
という意味です。
② 悟りは「思っていた悟り」ではない
道元は、悟りについて極端なことを言います。
・悟る前に思っていた悟りではない
・悟ったあとも「悟った」とは思えない
・悟った理由も説明できない
これはなぜか。
理由は一つ
| 悟りは「到達点」ではなく、
| 立ち位置そのものが反転する出来事だから
③ 「悟りがなかった」と知る悟り
| まどひはなきものぞとも知るべし、
| さとりはなきことぞとも知るべし。
これは否定ではありません。
・迷いが消える →
・悟りを得る →
迷い・悟りという枠組み自体が、不要になる
これが「唯仏与仏」の視座です。
④ 不染汚=何も足さず、何も引かない身
| その面目は、不染汚なり。
不染汚とは、
・清らかである
・汚れていない
という道徳的意味ではありません。
道元の意味
・取らない
・捨てない
・向かわない
・逃げない
世界に対して“構えが起きていない”身
だから、
・春は春として
・秋は秋として
ただ現れる。
⑤ 「尽大地、自己の法身」の真意
これは最重要句です。
| 尽大地これ自己の法身なり
ここで言う「自己」は、
・心理的な私
・個人としての私
立場として現れている存在そのもの
しかし道元は、すぐにこう言います。
| いはぬ、いはぬ。
なぜか。
・言った瞬間に
・法身を“対象化”してしまうから
言えてはならず、言わねばならない
この緊張そのものが「唯仏与仏」。
⑥ 生死を超えるのではなく、生死の只中に立つ
| 死のなかにいけることあり、
| いけるなかに死せることあり。
これは形而上学ではありません。
・生の側に立つ
・死の側に立つ
生死という二項が成立する以前の立脚点
それが「仏の位置」です。
⑦ 現身度生=救う側/救われる側が消える
| 現身度生とは、度生現身にてありけるなり。
これは、
・私が誰かを救う
ではありません。
現れている身そのものが、すでに“度”である
だから、
・現を見て度を疑わず
・度を見て現を探さない
⑧ 「莫管他」=反応しないということ
| 百千万境一時に来らん時、いかがすべき。
| 莫管他。
これは無関心ではありません。
・対処しない
・無視する
立場を動かさない
仏法は「対応力」ではなく
位置の問題だという宣言です。
⑨ 三世諸仏と同時に行じている
| 心をおこすより、さとりをうるにいたるまで、
| 尽大地と尽衆生と、ともにおこなふ。
ここで、
・私が修行する
という図式は崩れます。
修行しているのは「私」ではない尽大地が、尽衆生として修行している
これが「唯仏与仏」の世界。
⑩ 魚は魚の心を知る/仏は仏の行を知る
最後の譬えが決定打です。
| うをにあらざれば、うをのこころをしらず
これは、
・人間には分からない
という話ではありません。
同じ在り方に立つとき、
説明なしに“分かれている”
仏法とは、
・教義を理解することでも
・道理を把握することでもなく
仏の行に、仏として加わること
最終凝縮(この巻を読む立脚点)
| 「唯仏与仏」とは、
| 仏法の内容を理解することではない。
|
| 仏法が現れている“その場所”に、
| 立っているかどうか、ただそれだけである。
だから道元は、
・説明しきらず
・定義せず
・逃げ道を与えない
この巻は、
読む者を「仏の立場に立たせる」ための文章です。
もし次に進むなら、この巻は
・『現成公案』
・『仏性』
・『身心学道』
と完全に一体で読めます。
次はどこを、どの角度で掘りましょうか。
細部解説ではなく、読解の立脚点です。
仏道的に深掘りする核心視点
――「唯仏与仏」とは、理解の問題ではなく“立場の問題”である
① 冒頭一句がすでにすべてを言っている
| 仏法は、人の知るべきにはあらず。
ここで道元は、はっきり線を引きます。
・凡夫が知って理解する仏法
・二乗が到達して把握する仏法
だから続けて言う。
| 唯仏与仏、乃能究尽
これは
「仏しか分からない」という排他主義ではありません。
“仏であるという立場”でしか、仏法は現れない
という意味です。
② 悟りは「思っていた悟り」ではない
道元は、悟りについて極端なことを言います。
・悟る前に思っていた悟りではない
・悟ったあとも「悟った」とは思えない
・悟った理由も説明できない
これはなぜか。
理由は一つ
| 悟りは「到達点」ではなく、
| 立ち位置そのものが反転する出来事だから
③ 「悟りがなかった」と知る悟り
| まどひはなきものぞとも知るべし、
| さとりはなきことぞとも知るべし。
これは否定ではありません。
・迷いが消える →
・悟りを得る →
迷い・悟りという枠組み自体が、不要になる
これが「唯仏与仏」の視座です。
④ 不染汚=何も足さず、何も引かない身
| その面目は、不染汚なり。
不染汚とは、
・清らかである
・汚れていない
という道徳的意味ではありません。
道元の意味
・取らない
・捨てない
・向かわない
・逃げない
世界に対して“構えが起きていない”身
だから、
・春は春として
・秋は秋として
ただ現れる。
⑤ 「尽大地、自己の法身」の真意
これは最重要句です。
| 尽大地これ自己の法身なり
ここで言う「自己」は、
・心理的な私
・個人としての私
立場として現れている存在そのもの
しかし道元は、すぐにこう言います。
| いはぬ、いはぬ。
なぜか。
・言った瞬間に
・法身を“対象化”してしまうから
言えてはならず、言わねばならない
この緊張そのものが「唯仏与仏」。
⑥ 生死を超えるのではなく、生死の只中に立つ
| 死のなかにいけることあり、
| いけるなかに死せることあり。
これは形而上学ではありません。
・生の側に立つ
・死の側に立つ
生死という二項が成立する以前の立脚点
それが「仏の位置」です。
⑦ 現身度生=救う側/救われる側が消える
| 現身度生とは、度生現身にてありけるなり。
これは、
・私が誰かを救う
ではありません。
現れている身そのものが、すでに“度”である
だから、
・現を見て度を疑わず
・度を見て現を探さない
⑧ 「莫管他」=反応しないということ
| 百千万境一時に来らん時、いかがすべき。
| 莫管他。
これは無関心ではありません。
・対処しない
・無視する
立場を動かさない
仏法は「対応力」ではなく
位置の問題だという宣言です。
⑨ 三世諸仏と同時に行じている
| 心をおこすより、さとりをうるにいたるまで、
| 尽大地と尽衆生と、ともにおこなふ。
ここで、
・私が修行する
という図式は崩れます。
修行しているのは「私」ではない尽大地が、尽衆生として修行している
これが「唯仏与仏」の世界。
⑩ 魚は魚の心を知る/仏は仏の行を知る
最後の譬えが決定打です。
| うをにあらざれば、うをのこころをしらず
これは、
・人間には分からない
という話ではありません。
同じ在り方に立つとき、
説明なしに“分かれている”
仏法とは、
・教義を理解することでも
・道理を把握することでもなく
仏の行に、仏として加わること
最終凝縮(この巻を読む立脚点)
| 「唯仏与仏」とは、
| 仏法の内容を理解することではない。
|
| 仏法が現れている“その場所”に、
| 立っているかどうか、ただそれだけである。
だから道元は、
・説明しきらず
・定義せず
・逃げ道を与えない
この巻は、
読む者を「仏の立場に立たせる」ための文章です。
もし次に進むなら、この巻は
・『現成公案』
・『仏性』
・『身心学道』
と完全に一体で読めます。
次はどこを、どの角度で掘りましょうか。
仏道的に深掘りする視点