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Re: 仏法は、人の知るべきにはあらず。

Posted: 金 1 16, 2026 3:18 am
by writer
では、この一段を一点に凝縮して、仏道的に深掘りする視点を示します。
ここは『唯仏与仏』の中でも、「悟りとは何か」を根こそぎ転倒させる核心部です。

仏道的に深掘りする核心視点

――悟りとは「わかった出来事」ではなく、「わかろうとする力が完全に役に立たなくなった地点」である

① 冒頭一句の本当の射程

| 仏法は、人の知るべきにはあらず。

これは
「難しい」「理屈では分からない」
という意味ではありません。

道元の意味は、はるかに過激です。

・「知る主体」が成立しているかぎり、仏法は現れない
・仏法は「対象」ではなく
・“立場そのもの”だから

だから続けて、

| 凡夫として悟るなし
| 二乗としてきはむるなし

と言い切る。

ここで切られているのは
能力差でも、修行量でもなく、
立脚点そのものです。

②「唯仏与仏」とは排他ではない

| ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏

これは
「仏しか分からない」
という閉じた言葉ではありません。

仏道的にはこう読む

| 仏法は、
| 仏として立っているところにしか“起きない”

だから、

・説明される前に
・理解される前に
・共有される前に

すでに完結している出来事。

③ 悟ったとき「思っていた悟り」が消える理由

道元は、悟りについて異様な言い方をします。

| 悟るとはかくこそあらめとおもはるることはなきなり
| 悟りもおぼえしがごとくにてもなし

これはなぜか。

理由は一つ

| 悟りは、予想と照合できるような体験ではない

なぜなら、

・照合する「私」が
・その瞬間に崩れているから

④ 決定的な逆転

「さきのおもひも、さながら悟りにてありける」

ここが、この段の最深部です。

| こしかたのおもひも
| さながら悟りにてありける

普通なら、

・迷っていた
・間違っていた
・力が足りなかった

と考えるところを、
道元は完全に否定します。

道元の見方

・過去の思いも
・探していた心も
・迷っていた努力も
すでに悟りの只中にあった

ただし――

| そのをりは、さかさまにせんとしける

つまり、

・悟りを
・目的にし
・到達点にし
・手に入れようとした

その向きが逆だっただけ。

⑤ なぜ「ちからのなきおもひ」なのか

| ちからのなきとは、おもひもいひもするなり

ここで言う「力」とは、

・集中力
・理解力
・意志力

ではありません。
自分を根拠にする力

この力がある限り、

・悟りは
・必ず「私の成果」になる

それは、

| たのもしからぬ悟り

だと、道元は言う。

⑥ 悟りは「悟りの力」によってのみ起こる

| 悟りとは、
| ひとすぢにさとりのちからにのみたすけらる

ここで、修行者の手は完全に離されます。

・私が悟る ❌
・私が到達する ❌
悟りが、悟りとして起こる

これが「唯仏与仏」の構造です。

⑦ 「悟りはない」「迷いはない」

| まどひはなきものぞとも知るべし
| さとりはなきことぞとも知るべし

これは否定ではありません。

・悟りが消えたのではない
・迷いが消えたのでもない
悟り/迷いという区別が、成立しなくなった

⑧ 「仏」と「無上菩提」は別のものではない

| 無上菩提の人にてあるをり、これをほとけといふ
| 仏の無上菩提にてあるとき、これを無上菩提といふ

ここでは、

・仏が悟りを持つ ❌
・悟りを得た人が仏になる ❌
仏であるという出来事=無上菩提

⑨ 最後の警告

| この道にあるときの面目、しらざらんはおろかなり

これは叱責ではありません。

意味はこうです

| 説明できないことを、
| 分からないまま通り過ぎるな

・知ろうとするな
・しかし
・軽く扱うな

最終凝縮(この一段の核心)

| 悟りとは、
| 悟りを理解した出来事ではない。
|
| 悟りを理解しようとする力が、
| 完全に役に立たなくなった地点で、
| すでに起きている出来事である。

だからこそ、

| 唯仏与仏

仏法は
理解されるためにあるのではなく、
立たれるためにある。


もし次に進むなら、この段は

・『現成公案』の「自己をならふ」
・『仏性』の「成仏と同時に仏性が現れる」
・『身心学道』の「身心脱落」

と、一本につながります。

どこを次に掘りますか。

仏法は、人の知るべきにはあらず。

Posted: 金 1 16, 2026 3:17 am
by writer
仏法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑにむかしより、凡夫として仏法を悟るなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏、乃能究尽といふ。それをきはめ悟るとき、われながらも、かねてより悟るとはかくこそあらめとおもはるることはなきなり。たとひおぼゆれども、そのおぼゆるにたがはぬ悟りにてなきなり。悟りもおぼえしがごとくにてもなし。かくあれば、かねておもふ、そのようにたつべきにあらず。悟りぬるをりは、いかにありけるゆゑに悟りたりとおぼえぬなり。これにてかへりしるべし、悟りよりさきに、とかくおもひけるは、悟りのようにあらぬと。さきのさまざまおもふおもひのえうにあらざりけるは、おもひのまことにあしくして、そのちからのなきにてはなし。こしかたのおもひもさながら悟りにてありけるを、そのをりは、さかさまにせんとしけるゆゑに、ちからのなきとは、おもひもいひもするなり。えうにあらずとおぼゆることは、しるべきところ必ずあり。いはゆる、ちひさくはならじと恐れける。もし悟りよりさきのおもひをちからとして悟りのいでこんは、たのもしからぬ悟りにてありぬべし。悟りよりさきにちからとせず、はるかに越えて来れるゆゑに、悟りとは、ひとすぢにさとりのちからにのみたすけらる。まどひはなきものぞとも知るべし、さとりはなきことぞとも知るべし。無上菩提の人にてあるをり、これをほとけといふ。仏の無上菩提にてあるとき、これを無上菩提といふ。この道にあるときの面目、しらざらんはおろかなりぬべし。   仏法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑにむかしより、凡夫として仏法を悟るなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏、乃能究尽といふ。それをきはめ悟るとき、われながらも、かねてより悟るとはかくこそあらめとおもはるることはなきなり。たとひおぼゆれども、そのおぼゆるにたがはぬ悟りにてなきなり。悟りもおぼえしがごとくにてもなし。かくあれば、かねておもふ、そのようにたつべきにあらず。悟りぬるをりは、いかにありけるゆゑに悟りたりとおぼえぬなり。これにてかへりしるべし、悟りよりさきに、とかくおもひけるは、悟りのようにあらぬと。さきのさまざまおもふおもひのえうにあらざりけるは、おもひのまことにあしくして、そのちからのなきにてはなし。こしかたのおもひもさながら悟りにてありけるを、そのをりは、さかさまにせんとしけるゆゑに、ちからのなきとは、おもひもいひもするなり。えうにあらずとおぼゆることは、しるべきところ必ずあり。いはゆる、ちひさくはならじと恐れける。もし悟りよりさきのおもひをちからとして悟りのいでこんは、たのもしからぬ悟りにてありぬべし。悟りよりさきにちからとせず、はるかに越えて来れるゆゑに、悟りとは、ひとすぢにさとりのちからにのみたすけらる。まどひはなきものぞとも知るべし、さとりはなきことぞとも知るべし。無上菩提の人にてあるをり、これをほとけといふ。仏の無上菩提にてあるとき、これを無上菩提といふ。この道にあるときの面目、しらざらんはおろかなりぬべし。