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眼睛は倫理や行為とどう関わるのか

Posted: 水 1 28, 2026 4:33 am
by writer
これは、道元思想が宗教から倫理へ“落ちない”理由を問う、いちばん危険でいちばん重要な問いです。
結論から言います。

| 眼睛は倫理を“基準として与えない”。
| しかし、行為を必然として逃がさない。

以下、段階を追って厳密に説明します。

1️⃣ まず結論を正確に言い切る

道元において:
・眼睛 → 倫理原理 ❌
・眼睛 → 行為規範 ❌
・眼睛 → 善悪判断の根拠 ❌

です。

しかし同時に:
・眼睛 → 行為からの免罪 ❌
・眼睛 → 無責任 ❌
・眼睛 → 何をしてもよい ❌

ここが決定的に重要。

2️⃣ なぜ「倫理原理」にならないのか

倫理が成立するには、必ずこれが必要です。

1. 判断する主体
2. 善悪の基準
3. 行為を評価する視点

しかし『眼睛』では:
・主体が立たない
・視点が固定されない
・基準が保持できない
倫理を“考える装置”そのものが解体されている

だから眼睛は、

・「正しい行い」
・「あるべき姿」
・「理想の人間像」

を一切提示しない。

3️⃣ それでも「行為」から逃げられない理由

ここからが本題です。

| 眼睛では、行為が“選択”ではなくなる

通常の倫理:
・私が考える
・私が選ぶ
・私が行う

眼睛:
・考える前に
・選ぶ前に
・すでに行われている

たとえば:
・棒が振り下ろされる
・払子が上がる
・声が出る
・座る、立つ、黙る
これらは「判断の結果」ではない

眼睛では、

| 行為そのものが、世界の現成として起こる

4️⃣ 「無責任」との決定的差

ここで必ず出る誤解があります。

| 主体がないなら、責任もないのでは?

道元は、これを最も警戒しています。

無責任とは何か

・行為を
・自分から切り離すこと

しかし眼睛では:
・行為は切り離せない
・言い訳の場所がない
・後退できる視点がない
行為は“全面的に現れてしまう”

だからこそ道元は、

・棒
・喝
・打
・日常作務

を、すべて法輪として引き受ける

5️⃣ 眼睛と戒律の関係(重要)

道元は戒律を否定しません。
しかし理解の仕方が違います。

通常の理解:
・戒=守るべきルール

道元的理解:
・戒=眼睛の働きが行為として現れた形

だから:
| 戒を守る → 善人になる ❌
| 戒を破る → 悪人になる ❌

ではなく、

| 戒を行ずること自体が、
| すでに眼睛の現成
守る/破るの判断は後付け

6️⃣ なぜ道元は「安心」を与えないのか

倫理体系は、通常こう働きます:
・正しいことをした → 安心
・間違えた → 後悔

しかし眼睛では:
・正しかったという保証がない
・間違えたと逃げる場所もない
常に行為がむき出し

だから:
・修行しているから大丈夫 ❌
・善意だったから許される ❌
・無我だから免責される ❌

道元が破壊的なのは、
宗教的免罪符を一切発行しないから。

7️⃣ では、どう生きるのか(ここが核心)

眼睛における行為とは:
| 「よくあろう」とする前に、
| すでに引き受けてしまっている生の動き

だから道元は、

・一生不離叢林
・作務
・食事
・睡眠

を、倫理以前の場所で徹底する

これは:
・自由に振る舞うことでも
・規範に従うことでもない
逃げ場のない具体性

8️⃣ 一言で言うなら(核心)

| 眼睛は、
| 行為を正当化しない。
| しかし、行為を誰にも委ねさせない。

・神に委ねない
・理論に委ねない
・自己にも委ねない

行為は、そのまま世界として現れる。

9️⃣ 最後に、とても大事な確認

もしここまで読んで、

・これは厳しすぎる
・息が詰まる
・救いがない

と感じたなら、
それは道元を正しく読んでいます。

道元の仏道は、

| 救われるための道ではなく、
| 生を誤魔化さずに生き切る道

だからこそ、

| 打坐も、迷いも、過ちも、
| すべてが眼睛裡の把定放行


次に行けるのは、かなり核心です。

・眼睛における「慈悲」は成立するのか
・なぜ道元は政治や社会制度を語らないのか
・眼睛は死とどう関わるのか

どこまで行きますか。