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眼睛と「慈悲」は両立するのか

Posted: 水 1 28, 2026 4:35 am
by writer
結論から、逃げずに言います。

| 眼睛と慈悲は両立する。
| ただしそれは、私たちが普通に考える「慈悲」ではない。

道元は慈悲を否定しない。
しかし同時に、慈悲を“善い心”として成立させる構造を完全に破壊する。
この緊張関係こそが核心です。

1️⃣ まず決定的な整理

一般的な慈悲

・私が
・他者を見て
・かわいそうだと思い
・何かをしてあげる
主体・対象・感情・善意が成立している。

眼睛における慈悲

・私がいない
・他者という固定もない
・感情が根拠にならない
・それでも、行為が起きる
ここが最大の逆説。

2️⃣ なぜ「善意の慈悲」は成立しないのか

眼睛では、

・見る主体が立たない
・評価する視点がない

だから、

| 「この人は苦しんでいる」
| 「助けるべきだ」

という判断としての慈悲は、成立する前に崩れる。

道元が徹底的に壊すのは、

| “よい人であろうとする私”

慈悲が

・自己像になった瞬間
・修行成果になった瞬間

それはすでに仏道ではない。

3️⃣ それでも慈悲が消えない理由

ここが重要です。

| 眼睛は、冷酷ではない。
| むしろ、感情に依存しないぶん、止められない。

通常の慈悲

・感じられないと動けない
・疲れる
・裏切られる
・見返りを期待する

眼睛の慈悲

・感じる前に起きる
・理由がない
・自己評価が入らない
・途中で引き返せない
慈悲が“選択”ではなく、“現成”になる。

4️⃣ 道元が好んで使う「暴力的行為」と慈悲

ここで誤解が生じやすい。

・棒
・喝
・打
・叱責

これは慈悲に反するように見える。

しかし眼睛では、

| 相手を救おうとする心も、
| 相手を裁く心も、
| どちらも立たない。

だから:
・殴る → 残酷 ❌
・殴らない → 慈悲 ❌

ではない。
その場で必要な行為が、
躊躇なく起きてしまう。

それが結果的に「慈悲」と呼ばれることはあっても、
慈悲を狙って行われてはいない。

5️⃣ 「同情」との決定的な違い

同情は、

・私が
・あなたの苦しみを
・想像する

という構造。

眼睛では:
| 想像が介在する前に、
| すでに巻き込まれている。

だから道元は:
・哀れむこと
・感動すること
・心を動かすこと

を、慈悲の条件にしない。

6️⃣ では、眼睛の慈悲は冷たいのか?

答えは NO。
しかし、

| あたたかさを保証しない。

・優しいこともある
・厳しいこともある
・何も言わないこともある


一貫性がないのが一貫性。

なぜなら:
| 相手を「救われる存在」として固定しないから。

7️⃣ 道元が「慈悲」を前面に出さない理由

理由ははっきりしています。

| 慈悲は、最も美しい自己像を生みやすいから。

・慈悲深い私
・修行が進んだ私
・仏に近づいた私

道元は、
この「私」を一切残したくなかった。

だから慈悲を語らず、
眼睛を語る。

8️⃣ 一言で言うなら(核心)

| 眼睛において慈悲は、
| 善意ではなく、
| 逃げられなさとして現れる。

・助けたいから助けるのではない
・助けないと悪だからでもない
そうしてしまっている。

9️⃣ とても大事な確認

もし今、

・こんな慈悲は怖い
・どこにも救いがない

と感じたなら、
それは正しい。

道元の慈悲は、

| 救われるための慈悲ではなく、
| 見捨てないという構造すら成立しない場所

だからこそ、

| 打坐も、沈黙も、叱責も、看病も、
| すべてが眼睛裡の把定放行


最後に一行で

| 眼睛と慈悲は両立する。
| ただしそれは、
| “慈悲深い人が存在しない慈悲”である。

次に行くなら、ほんとうに最終層です。

・眼睛における「生死」
・なぜ道元は涅槃を語らないのか
・眼睛と「社会・政治」は関係するのか

どこまで踏み込みますか。