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「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」を、道元禅師が独自の深遠な哲学で読み解いた一巻

Posted: 2026年2月09日(月) 11:29
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『正法眼蔵』「諸悪莫作(しょあくばくさ)」巻は、仏教の最も基本的な標語である「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」を、道元禅師が独自の深遠な哲学で読み解いた一巻です。

「悪いことをせず、善いことを行い、自らの心を浄める。これが諸仏の教えである」という、一見すると子供でもわかる道徳的な教えが、道元の目を通すと「存在の真実」へと昇華されます。

仏道的な視点から、この巻の核心を深掘りします。

1. 「莫作(まくさ)」は「禁止」ではなく「不生」である

通常、「諸悪莫作」は「悪いことをするな」という禁止命令として理解されます。しかし、道元はこれを「悪というものがそもそも生じない(無生)」という境地として読み替えます。

・修行の力による現成: 菩提心(悟りを求める心)をもって修行に励むとき、全宇宙が「莫作」の力に満たされます。
・悪の不在: 悪を我慢して抑えるのではなく、仏道の修行そのものが現成している場においては、悪が付け入る隙(縁)がなく、結果として「悪がつくられない」状態になる。これを道元は「莫作の力量」と呼びます。
2. 「善悪」は固定的な実体ではない

道元は、善や悪を「固定的な性質」とは見なしません。

・時と場所の相関: 「天上の善が人間の悪であることもある」と述べ、善悪は状況や時間(時節)に依拠する相対的なものであると説きます。
・法としての善悪: 善悪は人間がジャッジする「価値」ではなく、その瞬間の「法の現れ(実相)」です。「善悪は時なり、時は善悪にあらず」という言葉は、善悪という現象そのものが宇宙の真理の表現であると同時に、真理そのものは善悪という枠組みに縛られないことを示しています。
3. 「三歳の孩児」と「八十の老翁」

白居易(白楽天)と鳥窠(ちょうか)禅師の問答は、この巻のクライマックスです。

・知識と行持の断絶: 「3歳の子供でも言える」と笑った白居易に対し、禅師は「80歳の老人でも行うのは難しい」と返しました。
・道元の視点: 道元はここをさらに深掘りします。白居易は「3歳の子供が言うことなど、浅い知識だ」と軽んじましたが、道元は「3歳の子供が『諸悪莫作』と言うとき、それはすでに如来の説法(獅子吼)である」と断言します。
・言論(道得)と実践(行不得)は切り離されたものではなく、その一言の中に全宇宙の真理が宿っている。白居易は「言葉の意味」だけを追い、その言葉が「現成」している事実に気づかなかったのです。
4. 自浄其意(じじょうごい)の自己

「自らの意(こころ)を浄める」とは、個人のメンタルケアのことではありません。

・「自」の拡大: 道元にとっての「自」とは、五蘊(肉体と精神)だけでなく、山河大地、日月星辰までを含みます。
・相互修行: 「我々が山河大地を修行させるが、山河大地もまた我々を修行させている」。この全宇宙的な相互作用の中で、汚れが脱落していくこと(身心脱落)こそが「自浄」の本質です。


まとめ:概念から「事事実実」へ

この巻を通じて道元が伝えたいのは、「諸悪莫作・衆善奉行」という言葉を、単なる標語(コンセプト)としてではなく、いま、ここでの「事実」として生きよということです。

「悪いことをしないように気をつけよう」と考える「私」がいるうちはまだ二元論です。そうではなく、自分という存在が「莫作(つくらない)」そのものになり、「奉行(行う)」そのものになる。そのとき、あなたの日常の立ち居振る舞いすべてが、諸仏の教えそのもの(公案)になるのだ、と説いています。


この「諸悪莫作」の教えについて、さらに具体的な日常の修行(行持)への活かし方などを詳しくお話ししましょうか?