正法眼蔵Ⅱ 十二巻

正法眼蔵Ⅱ 十二巻
 正 法 眼 蔵    八大人覚(はちだいにんかく    
八大人覚

  諸仏是大人也、大人之所覚知、所以称八大人覚也。覚知此法、為涅槃因
(諸仏は是れ大人也。大人の覚知する所、所以に八大人覚と称ず。此の法を覚知するを、涅槃の因と為)。
  我本師釈迦牟尼仏、入般涅槃夜、最後之所説也
(我が本師釈迦牟尼仏、入般涅槃したまひし夜の、最後の所説也)。
  一者少欲。於彼未得五欲法中、不広追求、名為少欲
(一つには少欲。彼の未得の五欲の法の中に於て、広く追求せざるを、名づけて少欲と為す)。
  仏言、汝等比丘、当知、多欲之人、多求利故、苦悩亦多。少欲之人、無求無欲、則無此患。直爾少欲尚応修習、何況少欲能生諸功徳。少欲之人、則無諂曲以求人意、亦復不為諸根所牽。行少欲者、心則坦然、無所憂畏、悩事有余、常無不足。有少欲者、則有涅槃、是名少欲
(仏言はく、汝等比丘、当に知るべし、多欲の人は、多く利を求むるが故に苦悩も亦た多し。少欲の人は、求むること無く欲無ければ則ち此の患ひ無し。直爾の少欲なるすら尚ほ応に修習すべし、何に況んや少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は、則ち諂曲して以て人の意を求むること無く、亦復諸根に牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然として、憂畏する所無し、事に悩れて余あり、常に足らざること無し。少欲有る者は則ち涅槃有り。是れを少欲と名づく)。
  二者知足。已得法中、受取以限、称曰知足
(二つには知足。已得の法の中に、受取するに限りを以てするを、称じて知足と曰ふ)。
  仏言、汝等比丘、若欲脱諸苦悩、当観知足。知足之法、即是富楽安穩之処。知足之人、雖臥地上猶為安楽。不知足者、雖処天堂亦不称意。不知足者、雖富而貧。知足之人、雖貧而富。不知足者、常為五欲所牽、為知足者之所憐愍。是名知足
(仏言はく、汝等比丘、若し諸の苦悩を脱れんと欲はば、当に知足を観ずべし。知足の法は、即ち是れ富楽安穩の処なり。知足の人は、地上に臥すと雖も猶ほ安楽なりと為す。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦た意に称はず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。知足の人は、貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲に牽かれて、知足の者に憐愍せらる。是れを知足と名づく)。
  三者楽寂静。離諸憒鬧、独処空閑、名楽寂静
(三つには楽寂静。諸の憒鬧を離れ、空閑に独処するを、楽寂静と名づく)。
  仏言、汝等比丘、欲求寂静無為安楽、当離憒鬧独処閑居。静処之人、帝釈諸天、所共敬重。是故当捨己衆他衆、空閑独処、思滅苦本。若楽衆者、則受衆悩。譬如大樹衆鳥集之、則有枯折之患。世間縛著没於衆苦、辟如老象溺泥、不能自出。是名遠離
(仏言はく、汝等比丘、寂静無為の安楽を求めんと欲はば、当に憒鬧を離れて独り閑居に処すべし。静処の人は、帝釈諸天、共に敬重する所なり。是の故に当に己衆他衆を捨して、空閑に独処し、苦本を滅せんことを思ふべし。若し衆を楽はん者は、則ち衆悩を受く。譬へば、大樹の、衆鳥之に集まれば、則ち枯折の患有るが如し。世間の縛著は衆苦に没す、辟へば老象の泥に溺れて、自ら出ること能はざるが如し。是れを遠離と名づく)。
  四者懃精進。於諸善法、懃修無間、故云精進。精而不雑、進而不退
(四つには懃精進。諸の善法に於て、懃修すること無間なり、故に精進と云ふ。精にして雑ならず、進んで退かず)。
  仏言、汝等比丘、若勤精進、則事無難者。是故汝等当勤精進。辟如小水常流、則能穿石。若行者之心数数懈癈、譬如鑽火未熱而息、雖欲得火、火難可得。是名精進
(仏言はく、汝等比丘、若し勤精進すれば、則ち事として難き者無し。是の故に汝等当に勤精進すべし。辟へば小水の常に流るれば、則ち能く石を穿つが如し。若し行者の心数数懈癈せんには、譬へば火を鑽るに未だ熱からざるに而も息めば、火を得んと欲ふと雖も、火を得べきこと難きが如し。是れを精進と名づく)。
  五者不忘念。亦名守正念。守法不失、名為正念。亦名不忘念
(五つには不忘念。亦た守正念と名づく。法を守つて失せざるを、名づけて正念と為。亦た不忘念と名づく)。
  仏言、汝等比丘、求善知識、求善護助、無如不忘念。若有不忘念者、諸煩悩賊則不能入。是故汝等、常当攝念在心。若失念者則失諸功徳。若念力堅強、雖入五欲賊中、不為所害。譬如著鎧入陣、則無所畏。是名不忘念
(仏言はく、汝等比丘、善知識を求め、善護助を求むるは、不忘念に如くは無し。若し不忘念有る者は、諸の煩悩の賊則ち入ること能はず。是の故に汝等、常に念を攝めて心に在らしむべし。若し念を失せば則ち諸の功徳を失す。若し念力堅強なれば、五欲の賊の中に入ると雖も為に害せられず。譬へば鎧を著て陣に入れば、則ち畏るる所無きが如し。是れを不忘念と名づく)。
  六者修禅定。住法不乱、名曰禅定
(六つには修禅定。法に住して乱れず、名づけて禅定と曰ふ)。
  仏言、汝等比丘、若攝心者、心則在定。心在定故、能知世間生滅法相。是故汝等、常当精勤修習諸定。若得定者、心則不散。譬如惜水之家、善治堤塘。行者亦爾、為智恵水故、善修禅定、令不漏失。是名為定
(仏言はく、汝等比丘、若し心を攝むれば、心則ち定に在り。心、定に在るが故に、能く世間生滅の法相を知る。是の故に汝等、常に当に精勤して諸の定を修習すべし。若し定を得ば、心則ち散ぜず。譬へば水を惜しむ家の、善く堤塘を治むるが如し。行者も亦た爾り、智恵の水の為の故に、善く禅定を修して漏失せざらしむ。是れを名づけて定と為す)。
  七者修智恵。起聞思修証為智恵
(七つには修智恵。聞思修証を起すを智恵と為す)。
  仏言、汝等比丘、若有智恵則無貪著、常自省察不令有失。是則於我法中能得解脱。若不爾者、既非道人、又非白衣、無所名也。実智恵者則是度老病死海堅牢船也、亦是無明黒暗大明灯也、一切病者之良薬也、伐煩悩樹之利斧也。是故汝等当以聞思修慧、而自増益。若人有智恵之照、雖是肉眼、而是明眼人也。是為智恵
(仏言はく、汝等比丘、若し智恵有れば則ち貪著無し、常に自ら省察して失有らしめず。是れ則ち我が法の中に於て能く解脱を得。若し爾らずは、既に道人に非ず、又白衣に非ず、名づくる所なし。実智恵は則ち是れ老病死海を度る堅牢の船なり、亦た是れ無明黒暗の大明灯なり、一切病者の良薬なり、煩悩の樹を伐る利斧なり。是の故に汝等当に聞思修慧を以て而も自ら増益すべし。若し人智恵の照あらば、是れ肉眼なりと雖も、而も是れ明眼の人なり。是れを智恵と為す)。
  八者不戯論。証離分別、名不戯論。究尽実相、乃不戯論
(八つには不戯論。証して分別を離るるを、不戯論と名づく。実相を究尽す、乃ち不戯論なり)。
  仏言、汝等比丘、若種種戯論、其心則乱。雖復出家猶未得脱。是故比丘、当急捨離乱心戯論。汝等若欲得寂滅楽者、唯当善滅戯論之患。是名不戯論
(仏言はく、汝等比丘、若し種種の戯論あらば、其の心則ち乱る。復た出家すと雖も猶ほ未だ得脱せず。是の故に比丘、当に急ぎて乱心と戯論とを捨離すべし。汝等若し寂滅の楽を得んと欲はば、唯当に善く戯論の患を滅すべし。是れを不戯論と名づく)。

  これ八大人覚なり。一一各具八、すなはち六十四あるべし。ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。
  大師釈尊、最後之説、大乗之所教誨。二月十五日夜半の極唱、これよりのち、さらに説法しましまさず、つひに般涅槃しまします。
  仏言、汝等比丘、常当一心勤求出道。一切世間動不動法、皆是敗壞不安之相。汝等且止、勿得復語。時将欲過、我欲滅度、是我最後之所教誨
 (仏言はく、汝等比丘、常に当に一心に勤めて出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆な是れ敗壞不安の相なり。汝等且く止みね、復た語ふこと得ること勿れ。時将に過ぎなんとす、我れ滅度せんとす。是れ我が最後の教誨する所なり)。

  このゆゑに、如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる。これを修習せず、しらざらんは仏弟子にあらず。これ如来の正法眼蔵涅槃妙心なり。しかあるに、いましらざるものはおほく、見聞せることあるものはすくなきは、魔嬈によりてしらざるなり。また宿殖善根すくなきもの、きかず、みず。むかし正法、像法のあひだは、仏弟子みなこれをしれり、修習し参学しき。いまは千比丘のなかに、一両この八大人覚しれる者なし。あはれむべし、澆季の陵夷、たとふるにものなし。如来の正法、いま大千に流布して、白法いまだ滅せざらんとき、いそぎ習学すべきなり、緩怠なることなかれ。
  仏法にあふたてまつること、無量劫にかたし。人身をうること、またかたし。たとひ人身をうくといへども、三洲の人身よし。そのなかに、南洲の人身すぐれたり。見仏聞法、出家得道するゆゑなり。如来の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覚をきかず、ならはず。いまわれら見聞したてまつり、習学したてまつる、宿殖善根のちからなり。いま習学して生生に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくしてことなることなからん。

正法眼蔵 八大人覚 第十二

本云建長五年正月六日書于永平寺

如今建長七年乙卯解制之前日、令義演書記書寫畢。同一校之(如今建長七年乙卯解制の前日、義演書記をして書寫せしめ畢んぬ。同じく之を一校せり)。

右本、先師最後御病中之御草也。仰以前所撰仮名正法眼蔵等、皆書改、并新草具都盧壹百卷、可撰之云云
(右の本は、先師最後の御病中の御草なり。仰せには以前所撰の仮名正法眼蔵等、皆な書き改め、并びに新草具に都盧壹百卷、之を撰ずべしと云云)。
既始草之御此卷、当第十二也。此之後、御病漸漸重増。仍御草案等事即止也。所以此御草等、先師最後教敕也。我等不幸不拝見一百卷之御草、尤所恨也。若奉恋慕先師之人、必書此十二卷、而可護持之。此釈尊最後之教敕、且先師最後之遺教也
(既に始草の御此の卷は、第十二に当れり。此の後、御病漸漸重増したまふ。仍つて御草案等の事も即ち止みぬ。所以に此の御草等は、先師最後の教敕なり。我等不幸にして一百卷の御草を拝見せず、尤も恨むる所なり。若と先師を恋慕し奉らん人は、必ず此の十二卷を書して、之を護持すべし。此れ釈尊最後の教敕にして、且つ先師最後の遺教也)。
 正 法 眼 蔵    百八法明門(ひゃくはちほうみょうもん    
百八法明門

  爾の時に護明菩薩、生家を観じ已りぬ。時に兜率陀に一天宮有り、名を高幢と曰ふ、縦広正等六十由旬なり。菩薩時時に彼の宮の中に上り、兜率天の為に法要を説けり。是の時に菩薩、彼の宮に上りて、安坐し訖已りて、兜率諸天子に告げて言く、汝等諸天、応に来り聚集るべし、我が身久しからずして人間に下るべし。我れ今一の法明門を説かんと欲ふ、入諸法相方便門と名づく。教を留めて汝を化すること最後なり。汝等我れを憶念するが故に、汝等若し此の法門を聞かば、応に歓喜を生ずべし。
  時に兜率陀諸天の大衆、菩薩の此の如く語るを聞き已りて、天の玉女、一切の眷属に及ぶまで、皆な来り聚集りて、彼の宮に上りぬ。
  護明菩薩、彼の天衆の聚会り畢已れるを見て、為に法を説かんと欲ひて、即時更に一天宮を化作して、彼の高幢を本天宮の上に在けり。高大広闊にして四天下を覆ひ、喜ぶべき微妙、端正双び少く威徳巍巍たり、衆宝もて荘餝せり。一切欲界の天宮殿の中に、匹喩すべき者無し。色界の諸天、彼の化殿を見て、自が宮殿に於て是の如くの心を生ぜり、塚墓の相の如しと。
  時に護明菩薩、已に過去に於て、宝行を行じ、諸の善根を種ゑて、福聚を成就し、功徳具足して、成ぜる所の荘厳の師子の高座に昇上りて坐せり。
  護明菩薩、彼の師子の高座の上に在り、無量の諸宝、荘厳間錯して無量無辺なり。種種の天衣而も彼の座に敷き、種種の妙香以て彼の座に薫ず。無量無辺の宝爐に焼香し、種種微妙の香花を出して其の地上に散ず。高座を周匝して諸の珍宝有り、百千万億の荘厳放光、彼の宮を顯耀かす。彼の宮の上下は宝網羅もて覆ひ、彼の羅網には多く金鈴を懸く。彼の諸の金鈴、声を出すこと微妙なり。彼の大宝宮、復た無量種種の光明を出す。彼の宝宮殿の千万の幡蓋、種種の妙色あつて映つて上に覆ふ。彼の大宮殿、諸の旒蘇を垂れ、無量無辺百千万億の諸の天の玉女、各種種の七宝を持し、音声もて作楽し讃歎して、菩薩往昔よりの無量無辺の功徳を説く。護世の四王百千万億、左右に在りて彼の宮を守護す。千万の帝釈彼の宮を礼拝し、千万の梵天彼の宮を恭敬す。又諸の菩薩百千万億那由他衆、彼の宮を護持す。十方の諸仏、万億那由他数有りて、彼の宮を護念したまふ。百千万億那由他劫に修せし所の行、諸波羅蜜を行ぜし、福報成就し、因縁具足し、日夜に増長し、無量の功徳、悉皆荘厳せり。是の如く是の如く、難説難説なり。
  彼の大微妙なる師子の高座に、菩薩、上に坐して一切諸天衆に告げて言く、汝等諸天、今此の一百八法明門、一生補処の菩薩大士、兜率宮に在つて、下つて人間に託生せんと欲る者、天衆の前に於て、要らず須らく此の一百八法明門を宣暢して説くべし。諸天に留与して以て憶念を作さしめ、然る後下生す。汝等諸天、今至心に諦聴し諦受すべし、我れ今之を説くべし。

一百八法明門者何〔一百八法明門とは何ぞや〕。
正信是法明門、不破堅牢心故〔正信是れ法明門なり、堅牢の心を破せざるが故に〕。
浄心是法明門、無濁穢故〔浄心是れ法明門なり、濁穢なきが故に〕。
歓喜是法明門、安穩心故〔歓喜是れ法明門なり、安穩心の故に〕。
愛楽是法明門、令心清浄故〔愛楽是れ法明門なり、心をして清浄ならしむるが故に〕。
身行正行是法明門、参業浄故〔身行正行是れ法明門なり、参業浄きが故に〕。
口行浄行是法明門、断四悪故〔口行浄行是れ法明門なり、四悪を断ずるが故に〕。
意行浄行是法明門、断参毒故〔意行浄行是れ法明門なり、参毒を断ずるが故に〕。
念仏是法明門、観仏清浄故〔念仏是れ法明門なり、観仏清浄なるが故に〕。
念法是法明門、観法清浄故〔念法是れ法明門なり、観法清浄なるが故に〕。
念僧是法明門、得道堅牢故〔念僧是れ法明門なり、得道堅牢なるが故に〕。
念施是法明門、不望果報故〔念施是れ法明門なり、果報を望まざるが故に〕。
念戒是法明門、一切願具足故〔念戒是れ法明門なり、一切の願具足するが故に〕。
念天是法明門、発広大心故〔念天是れ法明門なり、広大心を発すが故に〕。
慈是法明門、一切生処善根攝勝故〔慈是れ法明門なり、一切の生処に善根攝勝なるが故に〕。
悲是法明門、不殺害衆生故〔悲是れ法明門なり、衆生を殺害せざるが故に〕。
喜是法明門、捨一切不喜事故〔喜是れ法明門なり、一切不喜の事を捨するが故に〕。
捨是法明門、厭離五欲故〔捨是れ法明門なり、五欲を厭離するが故に〕。
無常観是法明門、観参界慾故〔無常観是れ法明門なり、参界の慾を観ずるが故に〕。
苦観是法明門、断一切願故〔苦観是れ法明門なり、一切の願を断ずるが故に〕。
無我観是法明門、不染著我故〔無我観是れ法明門なり、我に染著せざるが故に〕。
寂定観是法明門、不擾乱心意故〔寂定観是れ法明門なり、心意を擾乱せざるが故に〕。
慚愧是法明門、内心寂定故〔慚愧是れ法明門なり、内心寂定なるが故に〕。
羞恥是法明門、外悪滅故〔羞恥是れ法明門なり、外悪滅するが故に〕。
実是法明門、不誑天人故〔是れ法明門なり、天人を誑かさざるが故に〕。
真是法明門、不誑自身故〔真是れ法明門なり、自身を誑かさざるが故に〕。
法行是法明門、随順法行故〔法行是れ法明門なり、法行に随順するが故に〕。
参帰是法明門、浄参悪道故〔参帰是れ法明門なり、参悪道を浄からしむるが故に〕。
知恩是法明門、不捨善根故〔知恩是れ法明門なり、善根を捨せざるが故に〕。
報恩是法明門、不欺負他故〔報恩是れ法明門なり、他を欺負せざるが故に〕。
不自欺是法明門、不自譽故〔不自欺是れ法明門なり、自ら譽めざるが故に〕。
為衆生是法明門、不毀呰他故〔為衆生是れ法明門なり、他を毀呰せざるが故に〕。
為法是法明門、如法而行故〔為法是れ法明門なり、如法にして行ずるが故に〕。
知時是法明門、不軽言説故〔知時是れ法明門なり、言説を軽んぜざるが故に〕。
攝我慢是法明門、智恵満足故〔攝我慢是れ法明門なり、智恵満足するが故に〕。
不生悪心是法明門、自護護他故〔不生悪心是れ法明門なり、自ら護し他を護するが故に〕。
無障礙是法明門、心無疑惑故〔無障礙是れ法明門なり、心、疑惑無きが故に〕。
信解是法明門、決了第一義故〔信解是れ法明門なり、第一義を決了するが故に〕。
不浄観是法明門、捨欲染心故〔不浄観是れ法明門なり、欲染の心を捨するが故に〕。
不諍闘是法明門、断瞋訟故〔不諍闘是れ法明門なり、瞋訟を断ずるが故に〕。
不癡是法明門、断殺生故〔不癡是れ法明門なり、殺生を断ずるが故に〕。
楽法義是法明門、求法義故〔楽法義是れ法明門なり、法義を求むるが故に〕。
愛法明是法明門、得法明故〔愛法明是れ法明門なり、法明を得るが故に〕。
求多聞是法明門、正観法相故〔求多聞是れ法明門なり、法相を正観するが故に〕。
正方便是法明門、具正行故〔正方便是れ法明門なり、正行を具するが故に〕。
知名色是法明門、除諸障礙故〔知名色是れ法明門なり、諸の障礙を除くが故に〕。
除因見是法明門、得解脱故〔除因見是れ法明門なり、解脱を得るが故に〕。
無怨親心是法明門、於怨親中生平等故〔無怨親心是れ法明門なり、怨親の中に平等を生ずるが故に〕。
陰方便是法明門、知諸苦故〔陰方便是れ法明門なり、諸の苦を知るが故に〕。
諸大平等是法明門、断於一切和合法故〔諸大平等是れ法明門なり、一切和合の法を断ずるが故に〕。
諸入是法明門、修正道故〔諸入是れ法明門なり、正道を修するが故に〕。
無生忍是法明門、証滅諦故〔無生忍是れ法明門なり、滅諦を証するが故に〕。
受念処是法明門、断一切諸受故〔受念処是れ法明門なり、一切の諸受を断ずるが故に〕。
心念処是法明門、観心如幻化故〔心念処是れ法明門なり、心を観ずること幻化の如きが故に〕。
法念処是法明門、智恵無翳故〔法念処是れ法明門なり、智恵無翳なるが故に〕。
四正懃是法明門、断一切悪成諸善故〔四正懃是れ法明門なり、一切悪を断じて諸の善を成ずるが故に〕。
四如意足是法明門、身心軽故〔四如意足是れ法明門なり、身心軽きが故に〕。
信根是法明門、不随他語故〔信根是れ法明門なり、他の語に随はざるが故に〕。
精進根是法明門、善得諸智故〔精進根是れ法明門なり、善く諸の智を得るが故に〕。
念根是法明門、善作諸業故〔念根是れ法明門なり、善く諸の業を作すが故に〕。
定根是法明門、心清浄故〔定根是れ法明門なり、心清浄なるが故に〕。
慧根是法明門、現見諸法故〔慧根是れ法明門なり、諸法を現見するが故に〕。
信力是法明門、過諸魔力故〔信力是れ法明門なり、諸の魔の力に過ぐるが故に〕。
精進力是法明門、不退転故〔精進力是れ法明門なり、不退転なるが故に〕。
念力是法明門、不共他故〔念力是れ法明門なり、他と共ならざるが故に〕。
定力是法明門、断一切念故〔定力是れ法明門なり、一切の念を断ずるが故に〕。
慧力是法明門、離二辺故〔慧力是れ法明門なり、二辺を離るるが故に〕。
念覚分是法明門、如諸法智故〔念覚分是れ法明門なり、諸法智の如くなるが故に〕。
法覚分是法明門、照明一切諸法故〔法覚分是れ法明門なり、一切諸法を照明するが故に〕。
精進覚分是法明門、善知覚故〔精進覚分是れ法明門なり、善く知覚するが故に〕。
喜覚分是法明門、得諸定故〔喜覚分是れ法明門なり、諸の定を得るが故に〕。
除覚分是法明門、所作已弁故〔除覚分是れ法明門なり、所作已に弁ずるが故に〕。
定覚分是法明門、知一切法平等故〔定覚分是れ法明門なり、一切法平等を知るが故に〕。
捨覚分是法明門、厭離一切生故〔捨覚分是れ法明門なり、一切の生を厭離するが故に〕。
正見是法明門、得漏尽聖道故〔正見是れ法明門なり、漏尽聖道を得るが故に〕。
正分別是法明門、断一切分別無分別故〔正分別是れ法明門なり、一切の分別と無分別とを断ずるが故に〕。
正語是法明門、一切名字、音声語言、知如響故〔正語是れ法明門なり、一切の名字、音声、語言は、響きの如しと知るが故に〕。
正業是法明門、無業無報故〔正業是れ法明門なり、業無く報無きが故に〕。
正命是法明門、除滅一切悪道故〔正命是れ法明門なり、一切の悪道を除滅するが故に〕。
正行是法明門、至彼岸故〔正行是れ法明門なり、彼岸に至るが故に〕。
正念是法明門、不思念一切法故〔正念是れ法明門なり、一切法を思念せざるが故に〕。
正定是法明門、得無散乱参昧故〔正定是れ法明門なり、無散乱参昧を得るが故に〕。
菩提心是法明門、不断参宝故〔菩提心是れ法明門なり、参宝を断ぜざるが故に〕。
依倚是法明門、不楽小乗故〔依倚是れ法明門なり、小乗を楽はざるが故に〕。
正信是法明門、得最勝仏法故〔正信是れ法明門なり、最勝の仏法を得るが故に〕。
増進是法明門、成就一切諸善根法故〔増進是れ法明門なり、一切諸の善根の法を成就するが故に〕。
檀度是法明門、念念成就相好、荘厳仏土、教化慳貪諸衆生故〔檀度是れ法明門なり、念念に相好を成就し、仏土を荘厳し、慳貪の諸の衆生を教化するが故に〕。
戒度是法明門、遠離悪道諸難、教化破戒諸衆生故〔戒度是れ法明門なり、悪道の諸難を遠離し、破戒の諸の衆生を教化するが故に〕。
忍度是法明門、捨一切嗔恚、我慢、諂曲、調戯、教化如是諸悪衆生故〔忍度是れ法明門なり、一切の嗔恚、我慢、諂曲、調戯を捨し、是の如きの諸の悪衆生を教化するが故に〕。
精進度是法明門、悉得一切諸善法、教化懈怠諸衆生故〔精進度是れ法明門なり、悉く一切の諸の善法を得て、懈怠の諸の衆生を教化するが故に〕。
禅度是法明門、成就一切禅定及諸神通、教化散乱諸衆生故〔禅度是れ法明門なり、一切の禅定及び諸の神通を成就し、散乱の諸の衆生を教化するが故に〕。
智度是法明門、断無明黒暗及著諸見、教化愚癡諸衆生故〔智度是れ法明門なり、無明の黒暗及び諸見に著することを断じ、愚癡の諸の衆生を教化するが故に〕。
方便是法明門、随衆生所見威儀、而示現教化、成就一切諸仏法故〔方便是れ法明門なり、衆生所見の威儀に随つて、教化を示現し、一切諸仏の法を成就するが故に〕。
四攝法是法明門、攝受一切衆生、得菩提已、施一切衆生法故〔四攝法是れ法明門なり、一切衆生を攝受し、菩提を得已つて、一切衆生に法を施すが故に〕。
教化衆生是法明門、自不受楽、不疲倦故〔教化衆生是れ法明門なり、自ら楽を受けず、疲倦せざるが故に〕。
攝受正法是法明門、断一切衆生諸煩惱故〔攝受正法是れ法明門なり、一切衆生の諸の煩惱を断ずるが故に〕。
福聚是法明門、利益一切諸衆生故〔福聚是れ法明門なり、一切諸の衆生を利益するが故に〕。
修禅定是法明門、満足十力故〔修禅定是れ法明門なり、十力を満足するが故に〕。
寂定是法明門、成就如来参昧具足故〔寂定是れ法明門なり、如来の参昧を成就して具足するが故に〕。
慧見是法明門、智恵成就満足故〔慧見是れ法明門なり、智恵成就して満足するが故に〕。
入無礙辯是法明門、得法眼成就故〔入無礙辯是れ法明門なり、法眼を得て成就するが故に〕。
入一切行是法明門、得仏眼成就故〔入一切行是れ法明門なり、仏眼を得て成就するが故に〕。
成就陀羅尼是法明門、聞一切諸仏法能受持故〔成就陀羅尼是れ法明門なり、一切諸仏の法を聞いて能く受持するが故に〕。
得無礙辯是法明門、令一切衆生皆歓喜故〔得無礙辯是れ法明門なり、一切衆生をして皆な歓喜せしむるが故に〕。
順忍是法明門、順一切諸仏法故〔順忍是れ法明門なり、一切諸仏の法に順ふが故に〕。
得無生法忍是法明門、得受記故〔得無生法忍是れ法明門なり、受記を得るが故に〕。
不退転地是法明門、具足往昔諸仏法故〔不退転地是れ法明門なり、往昔の諸仏の法を具足するが故に〕。
従一地至一地智是法明門、潅頂成就一切智故〔従一地至一地智是れ法明門なり、潅頂して一切智を成就するが故に〕。
潅頂地是法明門、従生出家、乃至得成阿耨多羅三藐三菩提故〔潅頂地是れ法明門なり、生れて出家するより、乃至阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得るが故に〕。

  爾の時に護明菩薩、是の語を説き已りて、彼の一切の諸の天衆に告げて言く、諸天、当に知るべし、此れは是れ一百八法明門なり、諸天に留与す。汝等受持し、心に常に憶念して、忘失せしむることなかるべし。

  これすなはち一百八法明門なり。一切の一生所繋の菩薩、都史多天より閻浮提に下生せんとするとき、かならずこの一百八法明門を、都史多天の衆のために敷揚して、諸天を化するは、諸仏の常法なり。
  護明菩薩とは、釈迦牟尼仏、一生補処として第四天にましますときの名なり。李附馬、天聖広灯録を撰するに、この一百八法明門の名字をのせたり。参学のともがら、あきらめしれるはすくなく、しらざるは稻麻竹葦のごとし。いま初心晩学のともがらのためにこれを撰す。師子の座にのぼり、人天の師となれらんともがら、審細参学すべし。この都史多天に一生所繋として住せざれば、さらに諸仏にあらざるなり。行者みだりに我慢することなかれ、一生所繋の菩薩は中有なし。

正法眼蔵 百八法門
 正 法 眼 蔵    四禅比丘(しぜんびく    
四禅比丘

  第十四祖龍樹祖師言く、仏弟子の中に一の比丘有りき、第四禅を得て、増上慢を生じ、四果を得たりと謂へり。初め初禅を得ては、須陀洹を得たりと謂へり。第二禅を得し時、是れを斯陀含果と謂ひ、第三禅を得し時、是れを阿那含果と謂ひ、第四禅を得し時、是れを阿羅漢と謂へり。是れを恃んで自ら高ぶり、復た進まんことを求めず。命尽きなんとする時、四禅の中陰の相有りて来るを見て、便ち邪見を生じ、涅槃無し、仏、為に我を欺くと謂へり。悪邪見の故に、四禅の中陰を失ひ、便ち阿毘泥梨の中陰の相を見、命終して即ち阿毘泥梨中に生ぜり。
  諸の比丘、仏に問ひたてまつらく、阿蘭若比丘、命終して何れの処にか生ぜし。
  仏言、是の人は阿毘泥梨中に生ぜり。
  諸の比丘大きに驚き、坐禅持戒して便ち爾るに至るやといふ。
  仏、前の如く答へて言はく、彼は皆な増上慢に因る。四禅を得し時、四果を得たりと謂へり。臨命終の時、四禅の中陰の相を見て、便ち邪見を生じて謂へらく、涅槃無し、我れは是れ羅漢なり、今還つて復た生ず、仏は虚誑せりと。是の時即ち阿毘泥梨の中陰の相を見、命終して即ち阿毘泥梨の中に生ぜり。
  是の時に仏、偈を説いて言はく、多聞、持戒、禅も、未だ漏尽の法を得ず。 此の功徳有りと雖も、此の事信ずべきこと難し。墮獄は謗仏に由る、第四禅は関るに非ず。
  この比丘を称じて四禅比丘といふ、または無聞比丘と称ず。四禅をえたるを四果と僻計せることをいましめ、また謗仏の邪見をいましむ。人天大会みなしれり。如来在世より今日にいたるまで、西天東地ともに是にあらざるを是と執せるをいましむとして、四禅をえて四果とおもふがごとしとあざける。
  この比丘の不是、しばらく略して挙するに三種あり。

  第一には、みづから四禅と四果とを分別するにおよばざる無聞の身ながら、いたづらに師をはなれて、むなしく阿蘭若に独処す。さいはひにこれ如来在世なり、つねに仏所に詣して、常恆に見仏聞法せば、かくのごとくのあやまりあるべからず。しかあるに、阿蘭若に独処して仏所に詣せず、つねに見仏聞法せざるによりてかくのごとし。たとひ仏所に詣せずといふとも、諸大阿羅漢の処にいたりて、教訓を請ずべし。いたづらに独処する、増上慢のあやまりなり。

  第二には、初禅をえて初果とおもひ、二禅をえて第二果とおもひ、三禅をえて第三果とおもひ、四禅をえて第四果とおもふ、第二のあやまりなり。初二三四禅の相と、初二三四果の相と、比類に及ばず。たとふることあらんや。これ無聞のとがによれり。師につかへず、くらきによれるとがなり。

  優婆毱多の弟子の中に、一の比丘有りき。信心もて出家し、四禅を獲得て謂ひて四果と為り。毱多、方便して他処に往かしむ。路に於て群賊を化作し、復た五百の賈客を化作せり。賊、賈客を劫かし、殺害狼藉す。比丘、見て怖を生じ、即便ち自ら念へらく、我れは羅漢に非ず、応に是れ第三果なるべしと。
  賈客亡げて後、長者女有り、比丘に語りて言く、唯願はくは大徳、我れと共に去るべし。
  比丘答言、仏、我が女人と行くことを許したまはず。
  女言、我れ大徳を望んで而も其の後に随はん。
  比丘、憐愍して相望んで行くに、尊者次に復た大河を変作せり。
  女人言、大徳、我れと共に渡るべし。
  比丘は下に在り、女は上流に在り。
  女、便ち水に墮し、白して言く、大徳、我れを済ふべし。
  爾の時に比丘、手接して出し、細滑の想を生じて、愛欲の心を起し、即便ち自ら阿那含に非ずと知りぬ。
  此の女人に於て極めて愛着を生じ、将ゐて屏処に向ひて、共に交通せんと欲ふに、方に是れ師なるを見て、大慚愧を生じ、低頭して立ちたり。
  尊者語りて言く、汝、昔自ら是れ阿羅漢なりと謂へり、云何が此の如きの悪事を為さんと欲るや。
  将ゐて僧中に至り、其れをして懺悔せしめ、為に法要を説きて、阿羅漢を得しめき。
  この比丘、はじめ生見のあやまりあれど、殺害の狼藉をみるにおそりを生ず。ときにわれ羅漢にあらずとおもふ、なほ第三果なるべしとおもふあやまりあり。のちに細滑の想によりて愛欲心を生ずるに、阿那含にあらずとしる、さらに謗仏のおもひを生ぜず、謗法のおもひなし、聖教にそむくおもひあらず。四禅比丘にはひとしからず。この比丘は、聖教を習学せるちからあるによりて、みづから阿羅漢にあらず、阿那含にあらずとしるなり。いまの無聞のともがらは、阿羅漢はいかなりともしらず、仏はいかなりともしらざるがゆゑに、みづから阿羅漢にあらず、仏にあらずともしらず、みだりにわれは仏なりとのみおもひいふは、おほきなるあやまりなり、ふかきとがあるべし。学者まづすべからく仏はいかなるべしとならふべきなり。

  古徳云、聖教を習ふ者、薄次位を知るは、縦逾濫を生ずれども、亦た開解し易し。
  まことなるかな、古徳の言。たとひ生見のあやまりありとも、すこしきも仏法を習学せらんともがらは、みづからに欺誑せられじ、他人にも欺誑せられじ。
  曽て聞く、人有りて自ら仏と成ると謂ふ。待つに天暁けず、為に魔障ならんと謂ふ。暁け已るに梵王の請説を見ず、自ら仏に非ずと知りぬ。自ら是れ阿羅漢なりと謂へり。又他人の之を罵ることを被りて心異念を生ず、自ら是れ阿羅漢に非ずと知りぬ。仍て是れ第三果なりと謂へり。又女人を見て欲想を起す、聖人に非ずと知りぬ。此れ亦た良く教相を知るに由ての故に、乃ち是の如し。
  それ仏法をしれるは、かくのごとくみづからが非を覚知し、はやくそのあやまりをなげすつ。しらざるともがらは、一生むなしく愚蒙のなかにあり。生より生を受くるも、またかくのごとくなるべし。
  この優婆毱多の弟子は、四禅をえて四果とおもふといへども、さらに我非羅漢の智あり。無聞比丘も、臨命終のとき、四禅の中陰みゆることあらんに、我非羅漢としらば、謗仏の罪あるべからず。いはんや四禅をえてのちひさし、なんぞ四果にあらざるとかへりみしらざらん。すでに四果にあらずとしらば、なんぞ改めざらん。いたづらに僻計にとどこほり、むなしく邪見にしづめり。

  第三には、命終の時おほきなる誤りあり、そのとがふかくしてつひに阿鼻地獄におちぬるなり。たとひなんぢ一生のあひだ、四禅を四果とおもひきたれりとも、臨命終の時、四禅の中陰みゆることあらば、一生の誤りを懺悔して、四果にはあらざりとおもふべし。いかでか仏われを欺誑して、涅槃なきに涅槃ありと施設せさせたまふとおもふべき。これ無聞のとがなり。このつみすでに謗仏なり。これによりて、阿鼻の中陰現じて、命終して阿鼻地獄におちぬ。たとひ四果の聖者なりとも、いかでか如来におよばん。
  舎利弗は久しくこれ四果の聖者なり。三千大千世界所有の智惠をあつめて、如来をのぞきたてまつりてほかを一分とし、舎利弗の智惠を十六分にせる一分と、三千大千世界所有の智惠とを格量するに、舎利弗の十六分之一分に及ばざるなり。しかあれども、如来未曽説の法をときましますをききて、前後の仏説ことにして、われを欺誑しましますとおもはず。波旬に此事無しとほめたてまつる。如来は福増をわたし、舎利弗は福増をわたさず。四果と仏果と、はるかにことなること、かくのごとし。たとひ舎利弗及びもろもろの弟子のごとくならん、十方界にみちみてたらん、ともに仏智を測量せんことうべからず。孔老にかくのごとくの功徳いまだなし。仏法を習学せんもの、たれか孔老を測度せざらん。孔老を習学するもの、仏法を測量することいまだなし。いま大宋国のともがら、おほく孔老と仏道と一致の道理をたつ。僻見もともふかきものなり。しもにまさに広説すべし。
  四禅比丘、みづからが僻見をまこととして、如来の欺誑しましますと思ふ、ながく仏道を違背したてまつるなり。愚癡のはなはだしき、六師等にひとしかるべし。
  古徳云、大師在世すら、尚ほ僻計生見の人有り、況んや滅後師無く、禅を得ざる者をや。
  いま大師とは仏世尊なり。まことに世尊在世、出家受具せる、なほ無聞によりては僻計生見の誤りのがれがたし。いはんや如来滅後、後五百歳、辺地下賎の時処、誤りなからんや。四禅を発せるもの、なほかくのごとし。いはんや四禅を発するに及ばず、いたづらに貪名愛利にしづめらんもの、官途世路を貪るともがら、不足言なるべし。いま大宋国に寡聞愚鈍のともがら多し、かれらがいはく、仏法と老子、孔子の法と、一致にして異轍あらず。

  大宋嘉泰中に僧正受といふもの有り。普灯録三十卷を撰進するに云く、臣、孤山智圓の言ふを聞くに曰く、吾が道は県の如し、三教は足の如し。足一も虧くれば県覆へると。臣、甞て其の人を慕ひ其の説を稽ふ。乃ち知りぬ、儒の教たること、其の要は誠意に在り。道の教たること、其の要は虚心に在り、釈の教たること、其の要は見性に在ることを。誠意と虚心と見性と、名を異にして躰同じ。厥の帰する攸を究むるに、適として此の道と会せずといふこと無し云云。
  かくのごとく僻計生見のともがらのみ多し、ただ智圓、正受のみにはあらず。このともがらは、四禅を得て四果と思はんよりも、その誤りふかし。謗仏、謗法、謗僧なるべし。すでに撥無解脱なり、撥無三世なり、撥無因果なり。莽莽蕩蕩招殃禍、疑ひなし。三宝、四諦、四沙門なしとおもふしともがらにひとし。仏法いまだその要見性にあらず、西天二十八祖、七仏、いづれのところにか仏法のただ見性のみなりとある。六祖壇経に見性の言あり、かの書これ偽書なり、附法蔵の書にあらず、曹溪の言句にあらず、仏祖の兒孫またく依用せざる書なり。正受、智圓いまだ仏法の一隅をしらざるによりて、一県三足の邪計をなす。
  古徳云、老子、荘子は尚ほ自ら未だ小乗の能著所著、能破所破を識らず。況んや大乗の中の若しは著し若しは破するをや。是の故に仏法と少しく同じからず。然れば、世の愚かなる者は名相に迷ひ、濫禅の者は正理に惑ひ、道徳、逍遙の名を将つて仏法解脱の説に斉しめんと欲ふ、豈に得べけんや。
  むかしより名相にまどふもの、正理をしらざるともがら、仏法をもて荘子、老子にひとしむるなり。いささかも仏法の稽古あるともがら、むかしより荘子、老子をおもくする一人なし。

  清浄法行経云、月光菩薩、彼に顔囘と称ず、光浄菩薩、彼に仲尼と称ず、迦葉菩薩、彼に老子と称ず、云云。
  むかしよりこの経の説を挙して、孔子、老子等も菩薩なれば、その説ひそかに仏説に同じかるべしといひ、また仏のつかひならん、その説おのづから仏説ならんといふ。この説みな非なり。
  古徳云、諸の目録に準じ、皆な此の経を推す。以為くは疑偽ならん云云。
  いまこの説によらば、いよいよ仏法と孔老とことなるべし。すでにこれ菩薩なり、仏果にひとしかるべからず。また和光応迹の功徳は、ひとり三世諸仏菩薩の法なり。俗人凡夫の所能にあらず、実業の凡夫、いかでか応迹に自在あらん。孔老いまだ応迹の説なし、いはんや孔老は、先因をしらず、当果をとかず。わづかに一世の忠をもて、君につかへ家ををさむる術をむねとせり、さらに後世の説なし。すでにこれ断見の流類なるべし。荘老をきらふに、小乗なほしらず、いはんや大乗をやといふは上古の明師なり。三教一致といふは智圓、正受なり、後代澆季愚闇の凡夫なり。なんぢなんの勝出あればか、上古の先徳の所説をさみして、みだりに孔老と仏法とひとしかるべしといふ。なんだちが所見、すべて仏法の通塞を論ずるにたらず。負笈して明師に参学すべし、智圓、正受、なんぢら大小両乗すべていまだしらざるなり。四禅をえて四果とおもふよりもくらし。悲しむべし、澆風のあふぐところ、かくのごとくの魔子おほかることを。
  古徳云、孔丘、姫旦の語、三皇五帝の書の如きは、孝以て家を治め、忠以て国を治め、国を輔し民を利する、只是れ一世の内のみにして、過未に済らず。仏法の三世を益するに斉しめん、謬らざらんや。
  まことなるかなや、古徳の語。よく仏法の至理に達せり、世俗の道理にあきらかなり。三皇五帝の語、いまだ転輪聖王の教に及ぶべからず。梵王、帝釈の説にならべ論ずべからず。統領するところ、所得の果報、はるかに劣なるべし。輪王、梵王、帝釈、なほ出家受具の比丘に及ばず。いかにいはんや如来にひとしからんや。孔丘、姫旦の書、また天竺の十八大経に及ぶべからず。四韋陀の典籍にならべがたし。西天婆羅門教、いまだ仏教にひとしからざるなり。なほ小乗声聞教にひとしからず。あはれむべし。振旦小国辺方にして、三教一致の邪説あり。

  第十四祖龍樹菩薩云、大阿羅漢辟支仏は、八万大劫を知り、諸大菩薩及び仏は無量劫を知りたまふ。
  孔老等、いまだ一世中の前後をしらず、一生二生の宿通あらんや。いかにいはんや一劫をしらんや、いかにいはんや百劫千劫をしらんや、いかにいはんや八万大劫をしらんや、いかにいはんや無量劫をしらんや。この無量劫をあきらかにてらししれること、たなごころをみるよりもあきらかなる諸仏菩薩を、孔老等に比類せん、愚闇といふにもたらざるなり。耳をおほうて三教一致の言をきくことなかれ。邪説中最邪説なり。
  荘子云、貴賎苦楽、是非得失、皆是自然。
  この見、すでに西国の自然見の外道の流類なり、貴賎苦楽、是非得失、みなこれ善悪業の感ずるところなり。満業、引業をしらず、過世、未世をあきらめざるがゆゑに現在にくらし、いかでか仏法にひとしからん。
  あるがいはく、諸仏如来ひろく法界を証するゆゑに、微塵法界、みな諸仏如来の所証なり。しかあれば、依正二報ともに如来の所証となりぬるがゆゑに、山河大地、日月星辰、四倒三毒、みな如来の所証なり。山河をみるは如来をみるなり、三毒四倒仏法にあらずといふことなし。微塵をみるは法界をみるにひとし。造次顛沛、みな三菩提なり。これを大解脱といふ。これを単伝直指の祖道となづく。
  かくのごとくいふともがら、大宋国に稻麻竹葦のごとく、朝野に遍満せり。しかあれども、このともがら、たれ人の兒孫といふことあきらかならず、おほよそ仏祖の道をしらざるなり。たとひ諸仏の所証となるとも、山河大地たちまちに凡夫の所見なかるべきにあらず、諸仏の所証となる道理をならはず、きかざるなり。なんぢ微塵をみるは法界をみるにひとしといふ、民の王にひとしといはんがごとし。またなんぞ法界をみて微塵にひとしといはざる。もしこのともがらの所見を仏祖の大道とせば、諸仏出世すべからず、祖師出現すべからず、衆生得道すべからざるなり。たとひ生即無生と体達すとも、この道理にあらず。
  真諦三蔵云、振旦に二福有り、一には羅刹無し、二には外道無し。
  この言、まことに西国の外道婆羅門の伝来せるなく、得道の外道なしといふとも、外道の見おこすともがらなかるべきにあらず。羅刹はいまだみえず、外道の流類はなきにあらず。小国辺地のゆゑに、中印度のごとくにあらざることは、仏法をわづかに修習すといへども、印度のごとくに証をとれるなし。

  古徳云、今時多く還俗する者有り、王珏を畏り憚りて、外道の中に入る。仏法の義を偸み、竊かに荘老を解して、遂に混雑を成し、初心孰れか正、孰れか邪なるを迷惑す。是れ韋陀の法を発得する見と為る也。
  しるべし、仏法と荘老と、いづれか正、いづれか邪をしらず、混雑するは初心のともがらなり、いまの知圓、正受等これなり。ただ愚昧のはなはだしきのみにあらず、稽古なきいたり、顯然なり、炳焉なり。近日宋朝の僧徒、ひとりとしても、孔老は仏法に及ばずとしれるともがらなし。名を仏祖の兒孫にかれるともがら、稻麻竹葦のごとく、九州の山野にみてりといふとも、孔老のほかに仏法すぐれいでたりと暁了せる一人半人あるべからず。ひとり先師天童古仏のみ、仏法と孔老とひとつにあらずと暁了せり。昼夜に施設せり。経論師、また講者の名あれども、仏法はるかに孔老の辺を勝出せりと暁了せるなし。近代一百年来の講者、おほく参禅学道のともがらの儀をまなび、その解会をぬすまんとす、もともあやまれりといふべし。

  孔子の書に生知有り、仏教には生知無し。仏法には舎利の説有り、孔老は舎利の有無を知らず。
  ひとつにして混雑せんと思ふとも、広説の通塞、つひに不得ならん。
  論語云、生而知之上、学而知之者次、困而学之、又其次也。困而不学、民斯為下矣(生れながらにして之を知るは上なり、学んで之を知るは次なり、困しんで之を学ぶは又其の次なり。困しみて学ばざるは、民にして斯れを下と為す矣。
  もし生知あらば無因のとがあり、仏法には無因の説なし。四禅比丘は臨命終の時、たちまちに謗仏の罪に墮す。仏法をもて孔老の教にひとしとおもはん、一生中より謗仏の罪ふかかるべし。学者はやく孔老と仏法と一致なりと邪計する解をなげすつべし。この見たくはへてすてずは、つひに悪趣におつべし。学者あきらかにしるべし、孔老は三世の法をしらず、因果の道理をしらず、一洲の安立をしらず、いはんや四洲の安立をしらんや。六天のことなほしらず、いはんや三界九地の法をしらんや。小千界しらず、中千界しるべからず。三千大千世界をみることあらんや、しることあらんや。振旦一国なほ小臣にして帝位にのぼらず、三千大千世界に王たる如来に比すべからず。如来は梵王、帝釈、転輪聖王等、昼夜に恭敬侍衛し、恆時に説法を請じたてまつる。孔老かくのごとくの徳なし、ただこれ流転の凡夫なり。いまだ出離解脱のみちをしらず。いかでか如来のごとく諸法実相を究尽することあらん。もしいまだ究尽せずは、なにによりてか世尊にひとしとせん。孔老内徳なし、外用なし、世尊におよぶべからず、三教一致の邪説をはかんや。孔老、世界の有辺際、無辺際を通達すべからず。広をしらず、みず、大をしらず、みざるのみにあらず、極微色をみず、刹那量をしるべからず。世尊あきらかに極微色をみ、刹那量をしらせたまふ。いかにしてか孔老にひとしめたてまつらん。孔老、荘子、惠子等は、ただこれ凡夫なり。なほ小乗の須陀洹におよぶべからず。いかにいはんや第二、第三、第四阿羅漢におよばんや。
  しかあるを、学者くらきによりて諸仏にひとしむる、迷中深迷なり。孔老は三世をしらず、多劫をしらざるのみにあらず、一念しるべからず、一心しるべからず。なほ日月天に比すべからず、四大王、衆天に及ぶべからざるなり。世尊に比するは、世間出世間に迷惑せるなり。

  列伝云く、喜、周の大夫として星象を善くす。因みに異氣を見て東にゆきて之を迎ふるに、果して老子を得たり。請うて書五千有言を著はさしむ。喜も亦た自ら書九篇を著はす。関令子と名づく。化胡経に準ず。老、関西に過かんとするに、喜、耼に従ひて去くことを求めんと欲ふ。
  耼云、若し志心去くことを求めんと欲はば、当に父母等の七人の頭を将ち来るべし、乃ち去くことを得べし。
  喜、乃ち教に従ひしに、七頭皆な豬頭に変ぜり。
  古徳云、然あるに、俗典の孝儒は尚ほ木像を尊ぶ、老耼は化を設けて喜をして親を害せしむ。如来の教門は大慈を本とす、如何が老氏の逆をもて化原と為ん。
  むかしは老耼をもて世尊にひとしむる邪党あり、いまは孔老ともに世尊にひとしといふ愚侶あり、あはれまざらめやは。孔老なほ転輪聖王の十善をもて世間を化するにおよぶべからず。三皇五帝、いかでか金銀銅鉄諸輪王の七宝、千子具足して、あるいは四天下を化し、あるいは三千界を領ぜるにおよばん。孔子はいまだこれにも比すべからず。過現当来の諸仏諸祖、ともに父母師僧三宝に孝順し、病人等を供養ずるを化原とせり。害親を化原とせる、いまだむかしよりあらざるところなり。
  しかあればすなはち、老耼と仏法とひとつにあらず。父母を殺害するは、かならず順次生業にして泥梨に墮すること必定なり。たとひ老耼みだりに虚無を談ずとも、父母を害せんもの、生報まぬかれざらん。

  伝灯録云く、二祖毎に歎いて曰く、孔老の教は礼術風規なり、荘易の書は未だ妙理を尽さず。近ごろ聞く、達磨大士少林に住止せり。至人遠からず当に玄境に造るべし。
  いまのともがら、あきらかに信ずべし、仏法の振旦に正伝せることは、ただひとへに二祖の参学力なり。初祖たとひ西来せりとも、二祖をえずは仏法つたはれざらん。二祖もし仏法をつたへずは、東地いまに仏法なからん。おほよそ二祖は余輩に群すべからず。
  伝灯録云、僧神光者、曠達之士也。久居伊洛、博覧群書、善談玄理(伝灯録云く、僧神光といふものあり、曠達の士也。久しく伊洛に居して群書を博覽せり、善く玄理を談ず。
  むかし二祖の群書を博覽すると、いまの人の書卷をみると、はるかにことなるべし。得法伝衣ののちも、むかしわれ孔老之教、礼術風規とおもふしは誤りなりとしめすことばなし。しるべし、二祖すでに孔老は仏法にあらずと通達せり。いまの遠孫、なにとしてか祖父に違背して仏法と一致なりといふや。まさにしるべし、これ邪説なり。二祖の遠孫にあらずは、正受等が説、たれかもちゐん。二祖の兒孫たるべくは、三教一致といふことなかれ。

  如来在世に外道有り、論力と名づく。自ら論議与に等しき者無く、其の力最大なりと謂へり。故に論力と云ふ。五百梨昌の募を受けて、五百の明難を撰じ、来つて世尊を難ず。仏の所に来至りて、仏に問ひたてまつりて云く、一究竟道とやせん、衆多究竟道とやせん。
  仏言、唯一究竟道なり。
  論力云、我等が諸師は、各究竟道有りと説く。外道の中に、各各自ら是なりと謂うて、他人の法を毀訾して、互ひに相是非するを以ての故に多道有り。
  世尊其の時、已に鹿頭を化して、無学果を成ぜしめて、仏の辺に在りて立てり。
  仏、論力に問ひたまはく、衆多の道の中に、誰をか第一と為す。
  論力云、鹿頭第一なり。
  仏言、其れ若し第一ならんには、云何ぞ其の道を捨てて、我が弟子となりて我が道の中に入るや。
  論力、見已りて、慚愧し低頭して、帰依し道に入れり。
  是の時に仏、義品の偈を説いて言はく、各各究竟なりと謂ひて、而も各自ら愛著し、各自ら是として彼を非なりとす、是れ皆な究竟に非ず。
  是の人論衆に入りて、義理を辯明する時、各各相是非し、勝負して憂苦を懐く。
  勝者は驕慢坑に墮し、負者は憂獄に墮す、是の故に有智の者は、此の二法に墮せず。
  論力、汝当に知るべし、我が諸の弟子の法は、虚も無く亦た実も無し、汝、何れの所をか求めんと欲ふ。
  汝、我が論を壊せんと欲はば、終に已に此の処無し、一切智も明らめ難し、適自ら毀壊するに足らんのみ。

  いま世尊の金言かくのごとし。東土愚闇の衆生、みだりに仏教に違背して、仏道とひとしきみちありといふことなかれ。すなはち謗仏謗法となるべきなり。西天の鹿頭ならびに論力、乃至長爪梵志、先尼梵志等は、博学のいたり、東土にむかしよりいまだなし、孔老さらに及ぶべからざるなり。これらみなみづからが道をすてて仏道に帰依す、いま孔老の俗人をもて仏法に比類せんは、きかんものもつみあるべし。いはんや阿羅漢、辟支仏も、みなつひに菩薩となる。一人としても小乗にしてをはるものなし。いかでかいまだ仏道にいらざる孔老を諸仏にひとしといはん。大邪見なるべし。
  おほよそ如来世尊、はるかに一切を超越しましますこと、すなはち諸仏如来、諸大菩薩、梵天帝釈、みなともにほめたてまつり、しりたてまつるところなり。西天二十八祖、唐土六祖、ともにしれるところなり。おほよそ参学力あるもの、みなともにしれり。いま澆運のともがら、宋朝愚闇のともがらの三教一致の狂言、用ゐるべからず、不学のいたりなり。

正法眼蔵 四禅比丘

建長七年乙卯夏安居日 以御草案本書寫畢 懐弉
正 法 眼 蔵    四馬(しめ  
四馬

  世尊一日、外道来詣仏所問仏、不問有言、不問無言(世尊一日、外道、仏の所に来詣りて仏に問ひたてまつらく、有言を問はず、無言を問はず)。
  世尊據坐良久(世尊、據坐良久したまふ)。
  外道礼拝讃歎云、善哉世尊、大慈大悲、開我迷雲、令我得入(外道、礼拝し讃歎して云く、善哉世尊、大慈大悲、我が迷雲を開き、我れをして得入せしめたまへり)。
  乃作礼而去(乃ち作礼して去りぬ)。
  外道去了、阿難尋白仏言、外道以何所得、而言得入、称讃而去(外道去り了りて、阿難、尋いで仏に白して言さく、外道何の所得を以てか、而も得入すと言ひ、称讃して去るや)。
  世尊云、如世間良馬、見鞭影而行(世間の良馬の、鞭影を見て行くが如し)。
祖師西来よりのち、いまにいたるまで、諸善知識おほくこの因縁を挙して参学のともがらにしめすに、あるいは年載をかさね、あるいは日月をかさねて、ままに開明し、仏法に信入するものあり。これを外道問仏話と称ず。しるべし、世尊に聖黙聖説の二種の施設まします。これによりて得入するもの、みな如世間良馬見鞭影而行なり。聖黙聖説にあらざる施設によりて得入するも、またかくのごとし。

  龍樹祖師曰、為人説句、如快馬見鞭影、即入正路(人の為に句を説くに、快馬の鞭影を見て、即ち正路に入るが如し)。
あらゆる機縁、あるいは生不生の法をきき、三乗一乗の法をきく、しばしば邪路におもむかんとすれども、鞭影しきりにみゆるがごときは、すなはち正路にいるなり。もし師にしたがひ、人にあひぬるがごときは、ところとして説句にあらざることなし、ときとして鞭影をみずといふことなきなり。即坐に鞭影をみるもの、三阿僧祇をへて鞭影をみるものあり、無量劫を経て鞭影をみ、正路にいることをうるなり。

雑阿含経曰、仏告比丘、有四種馬、一者見鞭影、即便驚悚随御者意。二者触毛、便驚悚随御者意。三者触肉、然後乃驚。四者徹骨、然後方覚。初馬如聞他聚落無常、即能生厭。次馬如聞己聚落無常、即能生厭。三馬如聞己親無常、即能生厭。四馬猶如己身病苦、方能生厭(雑阿含経に曰く、仏、比丘に告げたまはく、四種の馬有り、一つには鞭影を見るに、即便ち驚悚して御者の意に随ふ。二つには毛に触るれば、便ち驚悚して御者の意に随ふ。三つには肉に触れて、然して後乃ち驚く。四つには骨に徹つて、然して後方に覚す。初めの馬は、他の聚落の無常を聞きて、即ち能く厭を生ずるが如し。次の馬は、己が聚落の無常を聞きて、即ち能く厭を生ずるが如し。三の馬は、己が親の無常を聞きて、即ち能く厭を生ずるが如し。四の馬は、猶ほ己が身の病苦によりて、方に能く厭を生ずるが如し)。

  これ阿含の四馬なり。仏法を参学するとき、かならず学するところなり。真善知識として人中天上に出現し、ほとけのつかひとして祖師なるは、かならずこれを参学しきたりて、学者のために伝授するなり。しらざるは人天の善知識にあらず。学者もし厚殖善根の衆生にして、仏道ちかきものは、かならずこれをきくことをうるなり。仏道とほきものは、きかず、しらず。
しかあればすなはち、師匠いそぎとかんことをおもふべし、弟子いそぎきかんとこひねがふべし。いま生厭といふは、

仏以一音演説法(仏、一音を以て法を演説したまふに)、
衆生随類各得解(衆生、類に随つて各解を得)。
或有恐怖或歓喜(或いは恐怖する有り、或いは歓喜し)、
或生厭離或断疑(或いは厭離を生じ、或いは疑ひを断ず)。
なり。

大経曰、仏言、復次善男子、如調馬者、凡有四種。一者触毛、二者触皮、三者触肉、四者触骨。随其所触、称御者意。如来亦爾、以四種法、調伏衆生。一為説生、便受仏語。如触其毛随御者意。二説生老、便受仏語。如触毛皮、随御者意。三者説生及以老病、便受仏語。如触毛皮肉随御者意。四者説生及老病死、便受仏語。如触毛皮肉骨、随御者意(大経に曰く、仏言はく、復た次に善男子、調馬者の如き、凡さ四種有り。一つには触毛、二つには触皮、三つには触肉、四つには触骨なり。其の触るる所に随つて、御者の意に称ふ。如来も亦た爾なり、四種の法を以て、衆生を調伏したまふ。一つには為に生を説きたまふに、便ち仏語を受く。其の毛に触るれば御者の意に随ふが如し。二つには生、老を説きたまふに、便ち仏語を受く。毛、皮に触るれば御者の意に随ふが如し。三つには生及以び老、病を説きたまふに便ち仏語を受く。毛、皮、肉に触るれば御者の意に随ふが如し。四つには生及び老、病、死を説きたまふに、便ち仏語を受く。毛、皮、肉、骨に触るれば御者の意に随ふが如し)。
  善男子、御者調馬、無有決定。如来世尊、調伏衆生、必定不虚。是故号仏調御丈夫(善男子、御者の馬を調ふること、決定有ること無し。如来世尊、衆生を調伏したまふこと、必定して虚しからず。是の故に仏を調御丈夫と号く)。
  これを涅槃経の四馬となづく。学者ならはざるなし、諸仏ときたまはざるおはしまさず。ほとけにしたがひたてまつりてこれをきく、ほとけをみたてまつり、供養したてまつるごとには、かならず聴聞し、仏法を伝授するごとには、衆生のためにこれをとくこと、歴劫におこたらず。つひに仏果にいたりて、はじめ初発心のときのごとく、菩薩声聞、人天大会のためにこれをとく。このゆゑに、仏法僧宝種不断なり。
  かくのごとくなるがゆゑに、諸仏の所説と菩薩の所説と、はるかにことなり。しるべし、調馬師の法におほよそ四種あり。いはゆる触毛、触皮、触肉、触骨なり。これなにものを触毛せしむるとみえざれども、伝法の大士おもはくは、鞭なるべしと解す。しかあれども、かならずしも調馬の法に鞭をもちゐるもあり、鞭をもちゐざるもあり。調馬かならず鞭のみにはかぎるべからず。たてるたけ八尺なる、これを龍馬とす。このむまととのふること、人間にすくなし。また千里馬といふむまあり、一日のうちに千里をゆく。このむま五百里をゆくあひだ、血汗をながす、五百里すぎぬれば、清涼にしてはやし、このむまにのる人すくなし。ととのふる法、しれるものすくなし。このむま、神丹国にはなし、外国にあり。このむま、おのおのしきりに鞭を加すとみえず。
  しかあれども、古徳いはく、調馬かならず鞭を加す。鞭にあらざればむまととのほらず。これ調馬の法なり。いま触毛皮肉骨の四法あり、毛をのぞきて皮に触することあるべからず。毛、皮をのぞきて肉、骨に触すべからず。かるがゆゑにしりぬ、これ鞭を加すべきなり。いまここにとかざるは文の不足なり。
  諸経かくのごときのところおほし、如来世尊調御丈夫またしかあり。四種の法をもて、一切衆生を調伏して、必定不虚なり。いはゆる生を為説するにすなはち仏語をうくるあり、生、老を為説するに仏語をうくるあり、生、老、病を為説するに仏語をうくるあり、生、老、病、死を為説するに仏語をうくるあり。のちの三をきくもの、いまだはじめの一をはなれず。世間の調馬の、触毛をはなれて触皮肉骨あらざるがごとし。生老病死を為説すといふは、如来世尊の生老病死を為説しまします、衆生をして生老病死をはなれしめんがためにあらず。生老病死すなはち道ととかず、生老病死すなはち道なりと解せしめんがためにとくにあらず。この生老病死を為説するによりて、一切衆生をして阿耨多羅三藐三菩提の法をえしめんがためなり。これ如来世尊、調伏衆生、必定不虚、是故号仏調御丈夫なり。

正法眼蔵 四馬

建長七年乙卯夏安居日以御草案書寫之畢
正 法 眼 蔵    三時業(さんじごう    
三時業

  第十九祖鳩摩羅多尊者、至中天竺国、有大士、名闍夜多。問曰、我家父母、素信三宝。而甞縈疾瘵、凡所営事、皆不如意。而我鄰家、久為栴陀羅行、而身常勇健、所作和合。彼何幸、而我何辜
  (第十九祖鳩摩羅多尊者、中天竺国に至るに、大士有り、闍夜多と名づく。問うて曰く、我が家の父母、素三宝を信ず。而も甞より疾瘵に縈はれ、凡そ営む所の事、皆な不如意なり。而も我が鄰家、久しく栴陀羅の行を為して、而も身は常に勇健なり、所作和合す。彼れ何の幸かある、而も我れ何の辜かある)。

  尊者曰、何足疑乎、且善悪之報有三時焉。凡人但見仁夭、暴寿、逆吉義凶、便謂亡因果虚罪福。殊不知、影響相随、毫釐靡忒。縦経百千万劫、亦不磨滅
  (尊者曰く、何ぞ疑ふに足らんや、且く善悪の報に三時有り。凡そ人、但だ仁は夭に、暴は寿く、逆は吉く義は凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪福虚しと謂へり。殊に知らず、影響相随ひて、毫釐も忒ふこと靡きを。縦ひ百千万劫を経とも、亦た磨滅せず)。
  時闍夜多、聞是語已、頓釈所疑(時に闍夜多、是の語を聞き已りて、頓に所疑を釈せり)。

  鳩摩羅多尊者は、如来より第十九代の附法なり。如来まのあたり名字を記しまします。ただ釈尊一仏の法をあきらめ正伝せるのみにあらず、かねて三世の諸仏の法をも曉了せり。闍夜多尊者、いまの問をまうけしよりのち、鳩摩羅多尊者にしたがひて、如来の正法を修習し、つひに第二十代の祖師となれり。これもまた、世尊はるかに第二十祖は闍夜多なるべしと記しましませり。しかあればすなはち、仏法の批判、もともかくのごとくの祖師の所判のごとく習学すべし。いまのよに因果をしらず、業報をあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらに群すべからず。

  いはゆる、善悪之報有三時焉といふは、三時、一者順現法受。二者順次生受。三順後次受。これを三時といふ。
  仏祖の道を修習するには、その最初より、三時の業報の理をならひあきらむるなり。しかあらざれば、おほくあやまりて邪見に墮するなり。ただ邪見に墮するのみにあらず、悪道におちて長時の苦をうく。続善根せざるあひだは、おほくの功徳をうしなひ、菩提の道ひさしくさはりあり、をしからざらめや。この三時の業は、善悪にわたるなり。
  第一順現法受業者、謂若業此生造作増長、即於此生受異熟果、是名順現法受業
  (第一に順現法受業とは、謂く、若し業を此生に造作増長して、即ち此生に於て異熟果を受く、是れを順現法受業と名づく)。
  いはく、人ありて、あるいは善にもあれ、あるいは悪にもあれ、この生につくりて、すなはちこの生にその報をうくるを、順現報受業といふ。
  悪をつくりて、この生にうけたる例。
  曽有採樵者、入山遭雪、迷失途路。時会日暮、雪深寒凍、将死不久。即前入一蒙密林中、乃見一羆。先在林内。形色青紺、眼如雙炬。其人惶恐、分当失命。此実菩薩現受羆身。見其憂恐、尋慰諭言、汝今勿怖。父母於子或有異心、吾今於汝終無悪意
  (曽採樵の者有りて、山に入りて雪に遭ひ、途路を迷失す。時会日暮れなり、雪深く寒凍えて、将に死せんとすること久しからじ。即ち前んで一の蒙密林の中に入るに、乃ち一の羆を見る。先より林の内に在り。形色青紺にして、眼は雙つの炬の如し。其の人惶恐し、当に失命すべきを分とせり。此れは実に菩薩の、羆の身を現受せるなり。其の憂恐するを見て、尋いで慰諭して言く、汝、今怖るること勿れ。父母は子に於て或しは異心有らんも、吾れは今、汝に於て終に悪意無けん)。
  即前捧取、将入窟中、温燸其身、令蘇息已、取諸根果、勧随所食。恐冷不消、抱持而臥。如是恩養経於六日。至第七日天翎路現。人有帰心。羆既知已、復取甘果飽而䬻之。送至林外慇懃告別
  (即ち前んで捧取して将て窟の中に入り、其の身を温燸めて、蘇息せしめ已りて、諸の根果を取りて、勧めて所食に随はしむ。冷にして消せざらしめんことを恐りて、抱持して臥せり。是の如く恩養して六日を経たり。第七日に至つて天翎れ路現ず。人に帰の心有り。羆既に知り已りて、復た甘果を取つて飽かしめて之に䬻ひせり。送りて林外に至つて慇懃に別れを告ぐ)。
  人跪謝曰、何以報(人、跪いて謝して曰く、何を以てか報ぜん)。
  羆言、我今不須余報、但如比日我護汝身、汝於我命、亦願如是
  (羆言く、我れ今余の報を須めず、但だ比日我が汝の身を護りしが如く、汝、我が命に於ても亦た願はくは是の如くすべし)。
  其人敬諾、擔樵下山、逢二猟師。問曰、山中見何蟲獣(其の人敬諾し、擔樵して山を下るに、二の猟師に逢へり。問うて曰く、山中にして何なる蟲獣をか見つる)。
  樵人答曰、我亦不見余獣、唯見一羆(我れ亦た余の獣を見ず、唯一の羆を見る)。
  猟師求請、能示我不(能く我れに示すべしや不や)。
  樵人答曰、若能予三分之二、吾当示汝(若し能く三分の二を予へば、吾れ当に汝に示すべし)。
  猟師依許、相予倶行、竟害羆命、分肉為三。樵人両手欲取羆肉、悪業力故、雙臂倶落。如珠縷断、如截藕根。猟師危忙、驚問所以、樵人恥愧、具述委曲
  (猟師依許し、相予て倶に行き、竟に羆の命を害せり、肉を分ちて三と為す。樵人両手をもて羆の肉を取らんと欲るに、悪業力の故に、雙の臂、倶に落つ。珠の縷を断るが如く、藕の根を截るが如し。猟師危忙し、驚いて所以を問ふ、樵人恥愧ぢて、具さに委曲を述ぶ)。
  是二猟師、責樵人曰、他既於汝有此大恩、汝今何忍行斯悪逆。怪哉、汝身何不糜爛
  (是の二の猟師、樵人を責めて曰く、他、既に汝に於て此の大恩有り、汝、今何ぞ斯の悪逆を行ずるに忍びんや。怪しき哉。汝が身何ぞ糜爛せざる)。
  於是猟師、共其肉施僧伽藍(是に於て猟師、共に其の肉を僧伽藍に施す)。
  時僧上座、得妙願智、即時入定、観是何肉、即知是予一切衆生作利楽者、大菩薩肉。即時出定、以此事白衆。衆聞驚歎、共取香薪焚焼其肉。收其余骨、起窣堵婆礼拝供養
  (時に僧の上座、妙願智を得て、即時に入定して、是れ何の肉ぞと観ずるに、即ち、是れ一切衆生の予に利楽を作す者、大菩薩の肉なることを知れり。即時に出定して、此の事を以て衆に白す。衆、聞きて驚歎し、共に香薪を取りて其の肉を焚焼す。其の余骨を收めて、窣堵婆を起てて礼拝供養せり)。
  如是悪業、待相続、或度相続、方受其果(是の如きの悪業は、相続を待つて、或いは相続に度りて、方に其の果を受くべし)。
  かくのごとくなるを、悪業の順現報受業となづく。おほよそ恩をえては報をこころざすべし、他に恩しては報をもとむることなかれ。いまも恩ある人を逆害をくはへんとせん、その悪業かならずうくべきなり。衆生ながくいまの樵人のこころなかれ。林外にして告別するには、いかがしてこの恩を謝すべきといふといへども、やまのふもとに猟師にあふては二分の肉をむさぼる。貪欲にひかれて大恩所を害す。在家出家、ながくこの不知恩のこころなかれ。悪業力のきるところ、両手を断ずること、刀剣のきるよりもはやし。

  この生に善をつくりて、順現報受に善報をえたる例。
  昔健駄羅国迦膩色迦王、有一黄門、恆監内事。暫出城外、見有群牛、数盈五百、来入城内。問駈牛者、此是何牛
  (昔、健駄羅国の迦膩色迦王に、一の黄門有りて、恆に内事を監す。暫く城外に出でて、群牛有るを見るに、数五百に盈れり、城内に来入す。駈牛の者に問ふ、此れは是れ何の牛ぞ)。
  答言、此牛将去其種(此の牛は将に其の種を去らんとす)。
  於是黄門即自思惟、我宿悪業受不男身、今応以財救此牛難。遂償其債悉令得脱。善業力故、令此黄門即復男身。深生慶祝、尋還城内、侍立宮門。附使啓王、請入奉覲。王令喚入、怪問所由。於是黄門、具奏上事。王聞驚喜、厚賜珍財、転授高官、令知外事
  (是に於て黄門即ち自ら思惟すらく、我れ宿悪業に不男の身を受く、今応に財を以て此の牛の難を救ふべし。遂に其の債を償つて悉く得脱せしめつ。善業力の故に、此の黄門をして即ち男身に復せしめぬ。深く慶祝を生じ、尋いで城内に還つて、宮門に侍立す。使に附して王に啓し、入つて奉覲せんことを請ふ。王、喚び入れしめ、怪しんで所由を問ふ。是に黄門、具に上の事を奏す。王聞きて驚喜して、厚く珍財を賜ひ、転た高官を授けて、外事を知らしめき)。
  如是善業、要待相続、或度相続、方受其果(是の如きの善業は、要ず相続を待つて、或いは相続を度りて、方に其の果を受くべし)。
  あきらかにしりぬ、牛畜の身、をしむべきにあらざれども、すくふ人、善果をうく。いはんや恩田をうやまひ、徳田をうやまひ、もろもろの善を修せんをや。かくのごとくなるを、善の順現報受業となづく。善によりて悪によりて、かくのごとくのことおほかれど、つくしあぐるにいとまあらず。

  第二順次生受業者、謂若業此生造作増長、於第二生受異熟果、是名順次生受業
  (第二に順次生受業者、謂く、若し業を此の生に造作し増長して、第二生に異熟果を受くるを、是れを順次生受業と名づく)。
  いはく、もし人ありて、この生に五無間業をつくれる、かならず順次生に地獄におつるなり。順次生とは、この生つぎの生なり。余のつみは、順次生に地獄におつるもあり。また順後次受のひくべきあれば、順次生に地獄におちず、順後業となることもあり。この五無間業は、さだめて順次生受業に地獄におつるなり。順次生、また第二生とも、これをいふなり。

  五無間業
  一者殺父 二者殺母 三者殺阿羅漢 四者出仏身血 五者破和合僧
  いはく、もし人ありて、この生に五無間業をつくるもの、かならず順次生に地獄に墮するなり。あるいはつぶさに五無間業ともにつくるものあり、いはゆる迦葉波仏のときの華上比丘これなり。あるいは一無間をつくるものあり、いはゆる釈迦牟尼仏のときの阿闍世王なり。そのちちをころす。あるいは三無間業をつくれるものあり、釈迦牟尼仏のときの阿逸多これなり。ちちをころし、ははをころし、阿羅漢をころす。この阿逸多は在家のときつくる、のちに出家をゆるさる。
  提婆達多、比丘として三無間業をつくれり。いはゆる破僧、出血、殺阿羅漢なり。あるいは提婆達兜といふ。此翻天熟(此に天熟と翻ず)。その破僧といふは、
  将五百新学愚蒙比丘、吉伽耶山作五邪法而破法輪僧、身子厭之眠熟、目連縕衆将還。提婆達多眠起発誓、誓報此恩捧縦三十肘、広十五肘石、擲仏。山神以手遮石、小石迸傷仏足、血出
  (五百の新学愚蒙の比丘を将ゐて吉伽耶山に五邪法を作して法輪僧を破す。身子、之を厭ひて眠熟せしめ、目連、衆を縕げて将に還らしめんとせり。提婆達多、眠より起きて誓を発し、此の恩に報いんと誓ひ、縦三十肘、広十五肘の石を捧げて仏に擲ちつ。山神、手を以て石を遮り、小石迸りて仏の足を傷つけ、血出でぬ)。
  もしこの説によらば、破僧さき、出血のちなり。もし余説によらば、破僧、出血の前後、いまだあきらめず。また拳をもて蓮華色比丘尼をうちころす。この比丘尼は阿羅漢なり。これを三無間業をつくれりといふなり。
  破僧罪につきては、破羯磨僧あり、破法輪僧あり。破羯磨僧は三洲にあるべし、北洲をのぞく。如来在世より、法滅のときにいたるまでこれあり。破法輪僧はただ如来在世のみにあり。余時はただ南洲にあり、三洲になし。この罪、最大なり。この三無間業をつくれるによりて、提婆達多、順次生に阿鼻地獄に墮す。かくのごとく五逆つぶさにつくれるものあり、一逆をつくれるものあり。提婆達多がごときは三逆をつくれり。ともに阿鼻地獄に墮すべし。その一逆をつくれるがごとき、阿鼻地獄一劫の寿報なるべし。具造五逆のひと、一劫のなかにつぶさに五報をうくとやせん、また前後にうくとやせん。
  先徳曰く、阿含、涅槃同在一劫、火有厚薄(阿含、涅槃に同じく一劫在り、火に厚薄有り)と。
  あるいはいはく、唯在増苦増(唯だ増苦増すこと在り)と。
  いま提婆達多、かさねて三逆をつくれり、一逆をつくれる人の罪には三倍すべし。しかあれども、すでに臨命終のときは南無の言をとなへて悪心すこしきまぬかる。うらむらくは具足して南無仏と称ぜざること。阿鼻にしてははるかに釈迦牟尼仏に帰命したてまつる。続善ちかきにあり。なほ阿鼻地獄に四仏の提婆達多あり。
  瞿伽離比丘は千釈出家の時、そのなかの一人なり。調達、瞿伽離、二人出城門のとき、二人ののれる馬、たちまちに仆倒し、二人のむまよりおち、冠ぬげておちぬ。ときのみる人、みないはく、この二人は仏法におきて益をうべからず。
  この瞿伽離比丘、また倶伽離といふ。此生に舍利弗、目犍連を謗ずるに、無根の波羅夷をもてす。世尊みづからねんごろにいさめましますにやまず。梵王くだりていさむるにやまず。二尊を謗ずるによりて、次生に墮すべし。又、いまに続善根の縁にあはず。
  四禅比丘、臨命終のとき謗仏せしによりて四禅の中陰かくれて阿鼻地獄に墮せり。かくのごとくなるを順次生受業となづく。
  この五無間業を、なにによりて無間業となづく。そのゆゑ五あり。
  一者趣果無間。故名無間。捨此身已、次身即受。故名無間。(一つには趣果無間なり。故に無間と名づく。此の身を捨し已りて次の身を即ち受く。故に無間と名づく)
  二者受苦無間。故名無間。五逆之罪、生阿鼻獄一劫之中、受苦相続無有楽間。因従果称名無間業(二つには受苦無間なり。故に無間と名づく。五逆の罪、阿鼻獄に生ずる一劫の中、受苦相続して楽間有ること無し。因つて果に従つて称して無間業と名づく)。
  三者時量無間故、名無間。五逆之罪、生阿鼻獄。決定一劫時不断故。故名無間。(三つには時量無間の故に無間と名づく。五逆の罪は阿鼻獄に生ず。決定して一劫時に不断なるが故に。故に無間と名づく)
  四者寿命無間。故名無間。五逆之罪、生阿鼻獄。一劫之中、寿命無絶。因従果称名為無間。(四つには寿命無間なり。故に無間と名づく。五逆の罪は阿鼻獄に生ず。一劫の中、寿命絶ゆること無し。因つて果に従つて名を称じて無間と為す)
  五者身形無間。故名無間。五逆之罪、生阿鼻獄。阿鼻地獄、縦広八万四千由旬、一人入中身亦遍満。一切人入、身亦遍満。不相障礙。因従果号名曰無間。(五つには身形無間なり。故に無間と名づく。五逆の罪は阿鼻獄に生ず。阿鼻地獄は、縦広八万四千由旬なり。一人中に入るも身亦た遍満す。一切人入るも身亦た遍満す。相障礙せず。因つて果に従つて号名て無間と曰ふ)

  第三順後次受業者、謂若業此生造作増長、墮第三生、或墮第四生、或復過此、雖百千劫、受異熟果、是名順後次受業(第三に順後次受業とは、謂く、若し業を此生に造作し増長して、第三生に墮し、或いは第四生に墮し、或いは復た此れを過ぎて、百千劫なりと雖も異熟果を受く、是れを順後次受業と名づく)。
  いはく、人ありて、この生に、あるいは善にもあれ、あるいは悪にもあれ、造作しをはれりといへども、あるいは第三生、あるいは第四生、乃至百千生のあひだにも、善悪の業を感ずるを、順後次受業となづく。菩薩の三祇劫の功徳、おほく順後次受業なり。かくのごとくの道理しらざるがごときは、行者おほく疑心をいだく。いまの闍夜多尊者の在家のときのごとし。もし鳩摩羅多尊者にあはずは、そのうたがひ、とけがたからん。行者もし思惟それ善なれば、悪すなはち滅す。それ悪思惟すれば、善すみやかに滅するなり。
  室羅筏国昔有二人、一恆修善、一常作悪。修善行者、於一身中、恆修善行、未甞作悪。作悪行者、於一身中、常作悪行、未甞修善(室羅筏国に昔二の人有り、一は恆に善を修す、一は常に悪を作る。善行を修する者は、一身の中に、恆に善行を修して、未だ甞て悪を作らず。悪行を作る者は、一身の中に、常に悪行を作りて、未だ甞て善を修せず)。
  修善行者、臨命終時、順後次受悪業力故、歘有地獄中有現前、便作是念、我一身中、恆修善行、未甞作悪、応生天趣、何因縁有此中有現前。遂起念言、我定応有順後次受悪業今熟故、此地獄中有現前(善行を修せる者は、臨命終の時に、順後次受の悪業の力の故に、歘に地獄の中有有りて現前するに、便ち是の念を作さく、我れ一身の中に恆に善行を修す、未だ甞て悪を作らず。応に天趣に生ずべきに、何の因縁にてか此の中有有りて現前する。遂に念を起して言く、我れ定んで応に順後次受の悪業有りて今熟すべきが故に、此の地獄の中有、現前す)。
  即自憶念一身已来所修善業、深生歓喜。由勝善思現在前故、地獄中有即便隠没、天趣中有歘爾現前。従此命終、生於天上(即ち自ら一身已来の所修の善業を憶念して、深く歓喜を生ず。勝善思現在前するに由るが故に、地獄の中有即便ち隠没して、天趣の中有歘爾に現前す。此れより命終して、天上に生ぜり)。
  この恆修善行のひと、順後次受のさだめてうくべきがわが身にありけるとおもふのみにあらず、さらにすすみておもはく、一身の修善もまたさだめてのちにうくべし。ふかく歓喜すとはこれなり。この憶念まことなるがゆゑに、地獄の中有すなはちかくれて、天趣の中有たちまちに現前して、いのちをはりて天上にむまる。この人もし悪人ならば、命終のとき、地獄の中有現前せば、おもふべし、われ一身の修善その功徳なし、善悪あらんにはいかでかわれ地獄の中有をみん。このとき因果を撥無し、三宝を毀謗せん。もしかくのごとくならば、すなはち命終し、地獄におつべし。かくのごとくならざるによりて、天上にむまるるなり。この道理、あきらめしるべし。
  作悪行者、臨命終時、順後次受善業力故、歘有天趣中有現前、便作是念、我一身中常作悪行、未甞修善、応生地獄、何縁有此中有現前。遂起邪見、撥無善悪及異熟果。邪見力故、天趣中有尋即隠没、地獄中有歘爾現前。従此命終、生於地獄(悪行を作れる者は、臨命終の時、順後次受の善業力の故に、歘ちに天趣の中有有りて現前するに、便ち是の念を作さく、我れ一身の中に常に悪行を作る、未だ甞て善を修せず、応に地獄に生ずべし、何の縁にてか此の中有有りて現前する。遂に邪見を起して、善悪及び異熟果を撥無す。邪見力の故に、天趣の中有尋いで即ち隠没し、地獄の中有歘爾に現前す。此れより命終して地獄に生ぜり)。
  この人いけるほど、つねに悪をつくり、さらに一善を修せざるのみにあらず、命終のとき、天趣の中有の現前せるをみて、順後次受をしらず、われ一生のあひだ悪をつくれりといへども、天趣にむまれんとす。はかりしりぬ、さらに善悪なかりけり。かくのごとく善悪を撥無する邪見力のゆゑに、天趣の中有たちまちに隠没して、地獄の中有すみやかに現前し、いのちをはりて地獄におつ。これは邪見のゆゑに、天趣の中有かくるるなり。
  しかあればすなはち、行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで学習すべし。
  まづ因果を撥無し、仏法を毀謗し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。まさにしるべし、今生のわが身、ふたつなしみつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく悪業を感得せん、をしからざらんや。悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。

  皓月供奉、問長沙景岑和尚、古即云、了即業障本来空、未了応須償宿債。只如師子尊者、二祖大師、為什麼得償債去
  (皓月供奉、長沙の景岑和尚に問ふ、古徳云く、了ずれば即ち業障本来空なり、未だ了ぜずは応に須らく宿債を償ふべし。只師子尊者、二祖大師の如きは、什麼としてか償債を得去るや)。
  長沙云、大徳不識本来空(大徳、本来空を識らず)。
  彼云、如何是本来空(如何ならんか是れ本来空)。
  長沙云、業障是(業障是れなり)。
  彼云、如何是業障(如何ならんか是れ業障)。
  長沙云、本来空是(本来空是れなり)。
  皓月無語。
  長沙便示一偈云(長沙便ち一偈を示して云く)、
  仮有元非有(仮の有も元と有に非ず)、
  仮滅亦非無(仮の滅も亦た無に非ず)。
  涅槃償債義(涅槃償債の義)、
  一性更無殊(一性更に殊なること無し)。

  長沙景岑は南泉の願禅師の上足なり。久しく参学のほまれあり。ままに道得是あれども、いまの因縁は渾無理会得なり。ちかくは永嘉の語を会せず、つぎに鳩摩羅多の慈誨をあきらめず。はるかに世尊の所説、ゆめにもいまだみざるがごとし。仏祖の道処すべてつたはれずは、たれかなんぢを尊崇せん。
  業障とは三障のなかの一障なり。いはゆる三障とは、業障、報障、煩悩障なり。業障とは五無間業をなづく。皓月が問、このこころなしといふとも、先来いひきたること、かくのごとし。皓月が問は、業不亡の道理によりて順後業のきたれるにむかふてとふところなり。長沙のあやまりは、如何是本来空と問するとき、業障是とこたふる、おほきなる僻見なり。業障なにとしてか本来空ならん。つくらずは業障ならじ。つくられば本来空にあらず。つくるはこれつくらぬなり。業障の当躰をうごさかずながら空なりといふは、すでにこれ外道の見なり。業障本来空なりとして放逸に造業せん、衆生さらに解脱の期あるべからず。解脱のひなくは、諸仏の出世あるべからず。諸仏の出世なくは、祖師西来すべからず。祖師西来せずは、南泉あるべからず。南泉なくは、たれかなんぢが参学眼を換却せん。また如何是業障と問するとき、さらに本来空是と答する、ふるくの縛馬答に相似なりといふとも、おもはくはなんぢ未了得の短才をもて久学の供奉に相対するがゆゑに、かくのごとくの狂言を発するなるべし。
  のち偈にいはく、涅槃償債義、一性更無殊。
  なんぢがいふ一性は什麼性なるぞ。三性のなかにいづれなりとかせん。おもふらくは、なんぢ性をしらず。涅槃償債義とはいかに。なんじがいふ涅槃はいづれの涅槃なりとかせん。声聞の涅槃なりとやせん、支仏の涅槃なりとやせん、諸仏の涅槃なりとやせん。たとひいづれなりとも、償債義にひとしかるべからず。なんぢが道処さらに仏祖の道処にあらず。更買草鞋行脚(更に草鞋を買ひて行脚)すべし。師子尊者、二祖大師等、悪人のために害せられん、なんぞうたがふにたらん。最後身にあらず、無中有の身にあらず、なんぞ順後次受業のうくべきなからん。すでに後報のうくべきが熟するあらば、いまのうたがふところにあらざらん。あきらかにしりぬ、長沙いまだ三時業をあきらめずといふこと。参学のともがら、この三時業をあきらめんこと、鳩摩羅多尊者のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業なり、廃怠すべからず。
  このほか不定業等の八種の業あること、ひろく参学すべし。いまだこれをしらざれば、仏祖の正法つたはるべからず。この三時業の道理あきらめざらんともがら、みだりに人天の導師と称ずることなかれ。

  世尊言、
  仮令経百劫(仮令百劫を経とも)、所作業不亡(所作の業は亡ぜじ)。因縁会遇時(因縁会遇せん時)、果報還自受(果報還つて自ら受く)。汝等当知、若純黒業得純黒異熟、若純白業得純白異熟、若黒白業得雑異熟。是故、応離純黒及黒白雑業、当勤修学純白之業(汝等当に知るべし、若し純黒業なれば純黒の異熟を得ん、若し純白業なれば純白の異熟を得ん、若し黒白業なれば雑の異熟を得ん。是の故に、応に純黒及び黒白の雑業を離るべし、当に純白の業を勤修学すべし)。時諸大衆、聞仏説已、歓喜信受(時に諸の大衆、仏説を聞き已りて、歓喜信受しき)。

  世尊のしめしましますがごときは、善悪の業つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふといふとも不亡なり。もし因縁にあへばかならず感得す。しかあれば、悪業は懺悔すれば滅す。また転重軽受す。善業は随喜すればいよいよ増長するなり。これを不亡といふなり。その報なきにはあらず。

正法眼蔵 三時業
 正 法 眼 蔵    深信因果(    
深信因果

  百丈山大智禅師懐海和尚、凡そ参次に一りの老人有つて、常に衆に随つて聴法す。衆人退すれば老人もまた退す。忽ちに一日退せず。
  師、遂に問ふ、面前に立せるは、復た是れ何人ぞ。
  老人対して曰く、某甲は是れ非人なり。過去迦葉仏の時に、曽て此の山に住せり。因みに学人問ふ、大修行底の人、還た因果に落つや無や。某甲答へて曰く、因果に落ちず。後五百生まで、野狐の身に墮す。今請すらくは和尚、一転語を代すべし。貴すらくは野狐の身を脱れんことを。
  遂問曰、大修行底の人、還た因果に落つや無や。
  師曰、因果に昧からず。
  老人言下に大悟し、礼を作して云く、某甲已に野狐身を脱かれぬ、山後に住在せらん。敢告すらくは和尚、乞ふ亡僧の事例に依らんことを。
  師、維那に令して白槌して衆に告して曰く、食後に亡僧を送るべし。
  大衆言議すらく、一衆皆安なり、涅槃堂にまた病人無し、何が故ぞ是の如くなる。
  食後に只見る、師、衆を領して、山後の岩下に至り、杖を以て一つの死野狐を指出するを。乃ち法に依つて火葬せり。
  師、至晩に上堂して、前の因縁を挙す。
  黄檗便ち問ふ、古人錯つて一転語を祗対し、五百生野狐身に墮す。転転錯らざらん、箇の什麼にか作る合き。
  師曰、近前来、?が与に道はん。
  檗、遂に近前して、師に一掌を与ふ。
  師、拍手して笑つて云く、将に胡の鬚の赤きかと謂へば、更に赤き鬚の胡在ること有り。
  この一段の因縁、天聖広灯録にあり。しかあるに、参学のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇して祖道陵替せり。不落因果はまさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に墮す。不昧因果はあきらかにこれ深信因果なり、これによりて聞くもの悪趣を脱す。あやしむべきにあらず、疑ふべきにあらず。近代参禅学道と称ずるともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりと知る、いはゆる不落と不昧と一等にしてことならずとおもへり、これによりて因果を撥無せりと知るなり。
  
  第十九祖鳩摩羅多尊者曰、且善悪之報、有三時焉。凡人但見仁夭暴寿、逆吉義凶、便謂亡因果虚罪福。殊不知、影響相随、毫釐靡忒。縱経百千万劫、亦不磨滅(第十九祖鳩摩羅多尊者曰く、且く善悪の報に三時有り。凡そ人、但だ仁は夭に暴は寿く、逆は吉く義は凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪福虚しと謂へり。殊に知らず、影響相随ひて毫釐も忒ふこと靡きを。縱ひ百千万劫を経とも、亦た磨滅せず)。
  あきらかにしりぬ、曩祖いまだ因果を撥無せずといふことを。いまの晩進、いまだ祖宗の慈誨をあきらめざるは稽古のおろそかなるなり。稽古おろそかにしてみだりに人天の善知識と自称するは、人天の大賊なり、学者の怨家なり。汝ち前後のともがら、亡因果のおもむきを以て、後学晩進のために語ることなかれ。これは邪説なり、さらに仏祖の法にあらず。汝等が疎学によりて、この邪見に墮せり。
  今神旦国の衲僧等、ままにいはく、われらが人身をうけて仏法にあふ、一生二生のことなほしらず。前百丈の野狐となれる、よく五百生をしれり。はかりしりぬ、業報の墜墮にあらじ。金鎖玄関留不往、行於異類且輪廻(金鎖玄関留むれども往せず、異類に行じて且く輪廻す)なるべし。大善知識とあるともがらの見解かくのごとし。この見解は、仏祖の屋裡におきがたきなり。あるいは人、あるいは狼、あるいは余趣のなかに、生得にしばらく宿通をえたるともがらあり。しかあれども、明了の種子にあらず、悪業の所感なり。この道理、世尊ひろく人天のために演説しまします。これをしらざるは疎学のいたりなり。あはれむべし、たとひ一千生、一万生をしるとも、かならずしも仏法なるべからず。外道すでに八万劫をしる、いまだ仏法とせず。わづかに五百生をしらん、いくばくの能にあらず。
  近代宋朝の参禅のともがら、もともくらきところ、ただ不落因果を邪見の説としらざるにあり。あはれむべし、如来の正法の流通するところ、祖祖正伝せるにあひながら、撥無因果の邪儻とならん。参学のともがら、まさにいそぎて因果の道理をあきらむべし。今百丈の不昧因果の道理は、因果にくらからずとなり。しかあれば、修因感果のむね、あきらかなり。仏仏祖祖の道なるべし。おほよそ仏法いまだあきらめざらんとき、みだりに人天のために演説することなかれ。
  
  龍樹祖師云く、外道の人の如く、世間の因果を破せば、則ち今世後世無けん。出世の因果を破せば、則ち三宝、四諦、四沙門果無けん。
  あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあれども、性はひさしくさとりに帰せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解する、すなはち外道なり。あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に帰す、仏法を修 せざれども、自然に覚海に帰すれば、さらに生死の輪転なし。このゆゑに後世なしといふ。これ断見の外道なり。かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに仏弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、真の知識に参学せざるによりてなり。真知識に久参するがごときは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹祖師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。
  
  永嘉真覚大師玄覚和尚は、曹谿の上足なり。もとはこれ天台の法華宗を 学せり。左谿玄朗大師と同室なり。涅槃経を披閲せるところに、金光その室にみつ。ふかく無生の悟を得たり。すすみて曹谿に詣し、証をもて六祖に告す。六祖つひに印可す。のちに証道歌をつくるにいはく、
  空に豁達し、因果を撥へば、 漭漭蕩蕩として殃禍を招く。
  あきらかにしるべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古徳ともに因果をあきらめたり、近世には晩進みな因果にまどへり。いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、仏法のために仏法を習学せんともがらは、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。
  
  宏智古仏、かみの因縁を頌古するにいはく、 一尺の水、一丈の波、 五百生前奈何ともせず。 不不落不昧商量するや、 依前として葛藤窠に撞入す。 阿呵呵。会也麼。 若若し是れ?洒洒落落たらば、 不妨げず我が哆哆和和なるを。 神歌社舞自ら曲を成し、 其の間に拍手して哩囉を唱ふ。
  いま不落不昧商量也、依前撞入葛藤窠の句、すなはち不落と不昧と、おなじかるべしといふなり。
  おほよそこの因縁、その理、いまだつくさず。そのゆゑいかんとなれば、脱野狐身は、いま現前せりといへども、野狐身をまぬかれてのち、すなはち人間に生ずといはず、天上に生ずといはず、および余趣に生ずといはず。人の疑ふところなり。脱野狐身のすなはち、善趣にうまるべくは天上人間にうまるべし、悪趣にうまるべくは四悪趣等にうまるべきなり。脱野狐身ののち、むなしく生処なかるべからず。もし衆生死して性海に帰し、大我に帰すといふは、ともにこれ外道の見なり。
  
  夾山圜悟禅師克勤和尚、頌古に云く、 魚行けば水濁り、鳥飛べば毛落つ、 至鑑逃れ難く、太虚寥廓たり。 一往迢迢たり五百生、 只因果に縁つて大修行す。 疾雷、山を破り、風、海を震はす、 百錬の精金、色改まらず。

  この頌なほ撥無因果のおもむきあり、さらに常見のおもむきあり。
  
  杭州徑山大慧禅師宗杲和尚、頌に云、不落不昧、石頭土塊、陌路に相逢ふて、銀山粉砕す。 拍手呵呵笑ひ一場。 明州に箇の憨布袋有り。

  これらをいまの宋朝のともがら、作家の祖師とおもへり。しかあれども、宗杲が見解、いまだ仏法の施權のむねにおよばず、ややもすれば自然見解のおもむきあり。
  
  おほよそこの因縁に、頌古、拈古のともがら三十余人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふものなし。あはれむべし。このともがら、因果をあきらめず、いたづらに紛紜のなかに一生をむなしくせり。仏法参学には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見おこして、断善根とならんことを。
  おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは墮し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず、おほよそ衆生の見仏聞法あるべからざるなり。因果の道理は、孔子、老子等のあきらむるところにあらず。ただ仏仏祖祖、あきらめつたへましますところなり。澆季の学者、薄福にして正師にあはず、正法をきかず、このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、漭漭蕩蕩として殃禍をうくるなり。撥無因果のほかに余悪いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。
  しかあればすなはち、参学のともがら、菩提心をさきとして、仏祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし。
  
正法眼蔵 深信因果
  
彼御本奥書に云 建長七年乙卯夏安居日以御草案書寫之
未及中書 清書 定有可再治事也 雖然書寫之 懐弉
正 法 眼 蔵    帰依仏法僧宝(きえぶっぽうそうぼう    
帰依仏法僧宝

  禅苑清規曰、敬仏法僧否(仏法僧を敬ふや否や)。一百二十門第一
  あきらかにしりぬ、西天東土、仏祖正伝するところは、恭敬仏法僧なり。帰依せざれば恭敬せず、恭敬せざれば帰依すべからず。この帰依仏法僧の功徳、かならず感応道交するとき成就するなり。たとひ天上人間、地獄鬼畜なりといへども、感応道交すれば、かならず帰依したてまつるなり。すでに帰依したてまつるがごときは、世世生生、在在処処に増長し、かならず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり。おのづから悪友にひかれ、魔障にあふて、しばらく断善根となり、一闡提となれども、つひには続善根し、その功徳増長するなり。帰依三宝の功徳、つひに不朽なり。
  その帰依三宝とは、まさに浄信をもはらにして、あるいは如来現在世にもあれ、あるいは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して、口にとなへていはく、

  我某甲、今身より仏身にいたるまで、
  帰依仏、帰依法、帰依僧。
  帰依仏両足尊、帰依法離欲尊、帰依僧衆中尊。
  帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。

  はるかに仏果菩提をこころざして、かくのごとく僧那を始発するなり。しかあればすなはち、身心いまも刹那刹那に生滅すといへども、法身かならず長養して、菩提を成就するなり。
  いはゆる帰依とは、帰は帰投なり、依は依伏なり。このゆゑに帰依といふ。帰依の相は、たとへば子の父に帰するがごとし。依伏は、たとへば民の王に依するがごとし。いはゆる救済の言なり。仏はこれ大師なるがゆゑに帰依す、法は良薬なるがゆゑに帰依す、僧は勝友なるがゆゑに帰依す。

  問、何故、偏帰此三(何が故にか偏に此の三に帰するや)。
  答、以此三種畢竟帰処、能令衆生出離生死、証大菩提故帰(此の三種は畢竟帰処にして、能く衆生をして生死を出離し、大菩提を証せしむるを以ての故に帰す)。

  此三、畢竟不可思議功徳なり。
  仏、西天には仏陀耶と称ず、震旦には覚と翻ず。無上正等覚なり。
  法は西天には達磨と称ず、また曇無と称ず。梵音の不同なり。震旦には法と翻ず。一切の善、悪、無記の法、ともに法と称ずといへども、いま三宝のなかの帰依するところの法は、軌則の法なり。
  僧は西天には僧伽と称ず、震旦には和合衆と翻ず。
  かくのごとく称讃しきたれり。

  住持三宝
  形像塔廟、仏宝。
  黄紙朱軸所伝、法宝。
  剃髪染衣、戒法儀相、僧宝。
  化儀三宝
  釈迦牟尼世尊、仏宝。
  所転法輪、流布聖教、法宝。
  阿若憍陳如等五人、僧宝。
  理体三宝
  五分法身、名為仏宝。
  滅理無為、名為法宝。
  学無学功徳、名為僧宝。
  一体三宝
  証理大覚、名為仏宝。
  清浄離染、名為法宝。
  至理和合、無擁無滯、名為僧宝。

  かくのごとくの三宝に帰依したてまつるなり。もし薄福少徳の衆生は、三宝の名字なほききたてまつらざるなり。いかにいはんや帰依したてまつることをえんや。

  法華経曰、
  是諸罪衆生(是の諸の罪の衆生は)、
  以悪業因縁(悪業の因縁を以て)、
  過阿僧祇劫(阿僧祇劫を過ぐとも)、
  不聞三宝名(三宝の名を聞かず)。

  法華経は、諸仏如来一大事の因縁なり。大師釈尊所説の諸経のなかには、法華経これ大王なり、大師なり。余経、余法は、みなこれ法華経の臣民なり、眷属なり。法華経中の所説これまことなり、余経中の所説みな方便を帯せり、ほとけの本意にあらず。余経中の説をきたして法華に比校したてまつらん、これ逆なるべし。法華の功徳力をかうぶらざれば余経あるべからず、余経はみな法華に帰投したてまつらんことをまつなり。この法華経のなかに、いまの説まします。しるべし、三宝の功徳、まさに最尊なり、最上なりといふこと。

世尊言、
衆人怖所逼、多帰依諸山(衆人所逼を怖れて、多く諸山)、
園苑及叢林、孤樹制多等(園苑及び叢林、孤樹制多等に帰依す)、
此帰依非勝、此帰依非尊(此の帰依は勝に非ず、此の帰依は尊に非ず)、
不因此帰依、能解脱衆苦(此の帰依に因りては、能く衆苦を解脱せず)。
諸有帰依仏、及帰依法僧(諸の仏に帰依し、及び法僧に帰依すること有るは)、
於四聖諦中、恆以慧観察(四聖諦の中に於て、恆に慧を以て観察し)、
知苦知苦集、知永超衆苦(苦を知り苦の集を知り、永く衆苦を超えんことを知り)、
知八支聖道、趣安穩涅槃(八支の聖道を知り、安穩涅槃に趣く)。
此帰依最勝、此帰依最尊(此の帰依は最勝なり、此の帰依は最尊なり)、
必因此帰依、能解脱衆苦(必ず此の帰依に因つて、能く衆苦を解脱す)。

  世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。衆生いたづらに所逼をおそれて、山神、鬼神等に帰依し、あるいは外道の制多に帰依することなかれ。かれはその帰依によりて衆苦を解脱することなし。おほよそ外道の邪教にしたがうて、牛戒、鹿戒、羅刹戒、鬼戒、瘂戒、聾戒、狗戒、鶏戒、雉戒。以灰塗身、長髪為相、以羊祠時、先呪後殺、四月事火、七日服風。百千億華供養諸天、諸所欲願、因此成就。如是等法、能為解脱因者、無有是処。智者処不讃、唐苦無善報(牛戒、鹿戒、羅刹戒、鬼戒、瘂戒、聾戒、狗戒、鶏戒、雉戒あり。灰を以て身に塗り、長髪もて相を為し、羊を以て時を祠り、先に呪して後に殺す。四月火に事へ、七日風に服し、百千億の華もて諸天に供養し、諸の欲ふ所の願、此れに因りて成就すといふ。是の如き等の法、能く解脱の因なりと為さば、是の処有ること無けん。智者の讃めざる所なり、唐しく苦しんで善報無し)。
  かくのごとくなるがゆゑに、いたづらに邪道に帰せざらんこと、あきらかに甄究すべし。たとひこれらの戒にことなる法なりとも、その道理、もし孤樹、制多等の道理に符合せらば、帰依することなかれ。人身うることかたし、仏法あふことまれなり。いたづらに鬼神の眷属として一生をわたり、むなしく邪見の流類として多生をすごさん、かなしむべし。はやく仏法僧三宝に帰依したてまつりて、衆苦を解脱するのみにあらず、菩提を成就すべし。

  希有経云、教化四天下及六欲天、皆得四果、不如一人受三帰功徳(四天下及び六欲天を教化して、皆な四果を得しむとも、一人の三帰を受くる功徳には如かじ)。
四天下とは、東西南北州なり。そのなかに、北州は三乗の化いたらざるところ。かしこの一切衆生を教化して阿羅漢となさん、まことにはなはだ希有なりとすべし。たとひその益ありとも、一人ををしへて三帰をうけしめん功徳にはおよぶべからず。また六天は、得道の衆生まれなりとするところなり。かれをして四果をえしむとも、一人の受三帰の功徳のおほくふかきにおよぶべからず。

  増一阿含経云、有忉利天子、五衰相現、当生猪中。愁憂之声、聞於天帝(増一阿含経に云く、忉利天子有り、五衰の相現じて、当に猪の中に生ずべし。愁憂の声、天帝聞えき)。 天帝聞之、喚来告曰、汝可帰依三宝(天帝之を聞きて、喚び来りて告げて曰く、汝、三宝に帰依すべし)。

  即時如教、便免生猪(即時に教の如くせしに、便ち猪に生ずることを免れたり)。
  仏説偈言(仏、偈を説いて言はく)、
  諸有帰依仏(諸有、仏に帰依せば)、
  不墜三悪道(三悪道に墜ちざらん)。
  尽漏処人天(漏を尽くして人天に処し)、
  便当至涅槃(便ち当に涅槃に至るべし)。
  受三帰已、生長者家、還得出家、成於無学(三帰を受け已りて、長者の家に生じて、還た出家することを得て、無学を成ぜり)。

  おほよそ帰依三宝の功徳、はかりはかるべきにあらず、無量無辺なり。
  世尊在世に、二十六億の餓龍、ともに仏所に詣し、みなことごとくあめのごとくなみだをふらして、まうしてまうさく、 唯願哀愍、救済於我。大悲世尊、我等憶念過去世時、於仏法中雖得出家、備造如是種種悪業。以悪業故、経無量身在三悪道。亦以余報故、生在龍中受極大苦(唯願はくは哀愍して、我れを救済したまへ。大悲世尊、我等過去世の時を憶念するに、仏法の中に於て出家することを得と雖も、備さに是の如くの種種の悪業を造りき。悪業を以ての故に、無量身を経て三悪道に在りき。亦た余の報を以ての故に、生れて龍の中に在りて極大苦を受く)。
  仏告諸龍、汝等今当尽受三帰、一心修善。以此縁故、於賢劫中値最後仏名曰楼至。於彼仏世、罪得除滅(仏、諸龍に告げたまはく、汝等今当に尽く三帰を受け、一心に善を修すべし。此の縁を以ての故に、賢劫の中に於て最後仏の名を楼至と曰ふに値ひたてまつり、彼の仏の世に於て、罪、除滅することを得べし)。
  時諸龍等聞是語已、皆悉至心、尽其形寿、各受三帰(時に諸龍等、是の語を聞き已りて、皆な悉く至心に、其の形寿を尽すまで、各三帰を受けたり)。
  ほとけみづから諸龍を救済しましますに、余法なし、余術なし。ただ三帰をさづけまします。過去世に出家せしとき、かつて三帰をうけたりといへども、業報によりて餓龍となれるとき、余法のこれをすくふべきなし。このゆゑに三帰をさづけまします。しるべし、三帰の功徳、それ最尊最上、甚深不可思議なりといふこと。世尊すでに証明しまします、衆生まさに信受すべし。十方の諸仏の各号を称念せしめましまさず、ただ三帰をさづけまします。仏意の甚深なる、たれかこれを測量せん。いまの衆生、いたづらに各各の一仏の名号を称念せんよりは、すみやかに三帰をうけたてまつるべし。愚闇にして大功徳をむなしくすることなかれ。

  爾時衆中有盲龍女。口中膖爛、満諸雑蟲、状如屎尿。乃至穢悪猶若婦人根中不浄。臊臭難看。種種噬食、膿血流出。一切身分、常有蚊虻諸悪毒蝿之所唼食、身体臭処、難可見聞(爾の時に衆中に盲龍女有りき。口中膖爛し、諸の雑蟲満てり、状、屎尿の如し。乃至穢悪なること猶ほ婦人の根中の不浄の若し。臊臭看難し。種種に噬食せられて、膿血流出す。一切の身分、常に蚊虻諸の悪毒蝿に唼食せらるる有り、身体の臭処、見聞すべきこと難し)。
  爾時世尊、以大悲心、見彼龍婦眼盲困苦如是、問言、妹何縁故得此悪身、於過去世曽為何業(爾の時に世尊、大悲心を以て、彼の龍婦の眼盲ひ困苦すること是の如くなるを見たまひて、問うて言はく、妹、何の縁の故にか此の悪身を得たる、過去世に曽て何の業をか為りし)。
  龍婦答言、世尊、我今此身、衆苦逼迫無暫時停。設復欲言、而不能説。我念過去三十六億、於百千年、悪龍中受如是苦、乃至日夜刹那不停。為我往昔九十一劫、於毘婆尸仏法中、作比丘尼、思念欲事、過於酔人。雖復出家不能如法。於伽藍内敷施牀褥、数数犯於非梵行事、以快欲心、生大楽受。或貪求他物、多受信施。以如是故、於九十一劫、常不得受天人之身、恆三悪道受諸焼煮(龍婦答へて言さく、世尊、我が今此の身、衆苦逼迫して暫時も停まること無し。設し復た言はんと欲ふも、而も説くこと能はじ。我れ過去三十六億を念ふに、百千年に於て、悪龍の中に是の如くの苦を受け、乃至日夜刹那も停まざりき。我が往昔九十一劫を為ふに、毘婆尸仏の法の中に於て、比丘尼と作り、欲事を思念すること酔人よりも過ぎたり。復た出家すと雖も如法なること能はず。伽藍の内に牀褥を敷施て、数数非梵行の事を犯し、以て欲心を快くして大楽受を生じき。或いは他の物を貪求し、多く信施を受く。是の如くなるを以ての故に、九十一劫に、常に天人の身を受くること得ず、恆に三悪道にして諸の焼煮を受けき)。
  仏又問言、若如是者、此中劫尽、妹何処生(仏又問うて言はく、若し是の如くならば、此の中の劫尽きて、妹、何れの処にか生ずべき)。
龍婦答言、我以過去業力因縁、生余世界、彼劫尽時、悪業風吹、還来生此(龍婦答へて言さく、我れ過去の業力の因縁を以て、余の世界に生れ、彼の劫尽くる時、悪業の風吹いて、還た来つて此に生ずべし)。
  時彼龍婦、説此語已作如是言、大悲世尊、願救済我、願救済我(時に彼の龍婦、此の語を説き已りて是の如くの言を作さく、大悲世尊、願はくは我を救済したまへ、願はくは我を救済したまへ)。
  爾時世尊、以手掬水、告龍女言、此水名為瞋陀留脂薬和。我今誠実発言語汝、我於往昔、為救鴿故、棄捨身命、終不疑念起慳惜心。此言若実、令汝悪患、悉皆除瘥(爾の時に世尊、手を以て水を掬ひ、龍女に告げて言はく、此の水を名づけて瞋陀留脂薬和と為す。我れ今誠実に言を発して汝に語らん、我れ往昔に於て、鴿を救はんが為の故に、身命を棄捨しも、終に疑念して慳惜の心を起さざりき。此の言若し実ならば、汝が悪患をして悉皆に除瘥しむべし)。
時仏世尊、以口含水、灑彼盲龍婦女之身、一切悪患臭処皆瘥。既得瘥已、作如是説言、我今於仏、乞受三帰(時に仏世尊、口を以て水を含み、彼の盲龍婦女の身に灑ぎたまふに、一切の悪患臭処皆な瘥えたり。既に瘥ゆることを得已りて、是の如くの説を作して言さく、我れ今仏に於て、三帰を受けんことを乞ふ)。
是時世尊、即為龍女授三帰依(是の時に世尊、即ち龍女の為に三帰依を授けたまへり)。
  この龍女、むかしは毘婆尸仏の法のなかに比丘尼となれり。禁戒を破すといふとも、仏法の通塞を見聞すべし。いまはまのあたり釈迦牟尼仏にあひたてまつりて三帰を乞授す、ほとけより三帰をうけたてまつる、厚殖善根といふべし。見仏の功徳、かならず三帰によれり。われら盲龍にあらず、畜身にあらざれども、如来をみたてまつらず、ほとけにしたがひたてまつりて三帰をうけず、見仏はるかなり、はぢつべし。世尊みづから三帰をさづけまします、しるべし、三帰の功徳、それ甚深無量なりといふこと。天帝釈の野干を拝して三帰をうけし、みな三帰の功徳の甚深なるによりてなり。

  仏在迦毘羅衛尼拘陀林時、釈摩男来至仏所、作如是言云、何名為優婆塞也(仏、迦毘羅衛尼拘陀林に在しし時、釈摩男、仏の所に来至して、是の如くの言を作して云く、何をか名づけて優婆塞と為すや)。
  仏即為説、若有善男子善女人、諸根完具、受三帰依、是即名為優婆塞也(仏即ち為に説きたまはく、若し善男子善女人有りて、諸根完具し、三帰依を受けん、是れを即ち名づけて優婆塞と為す)。
  釈摩男言、世尊、云何名為一分優婆塞(釈摩男言さく、世尊、云何が名づけて一分の優婆塞と為すや)。
  仏言、摩男、若受三帰、及受一戒、是名一分優婆塞(仏言はく、摩男、若し三帰を受け、及び一戒をも受くれば、是れを一分の優婆塞と名づく)。
  仏弟子となること、かならず三帰による。いづれの戒をうくるも、かならず三帰をうけて、そののち諸戒をうくるなり。しかあればすなはち、三帰によりて得戒あるなり。

  法句経云、昔有天帝、自知命終生於驢中、愁憂不已曰、救苦厄者、唯仏世尊(法句経云く、昔天帝有り、自ら、命終して驢中に生ぜんことを知り、愁憂已まずして曰く、苦厄を救はん者は、唯仏世尊のみなり)。
  便至仏所、稽首伏地、帰依於仏。未起之間、其命便終生於驢胎。母驢鞚断、破陶家坏器。器主打之、遂傷其胎、還入天帝身中(便ち仏の所に至り、稽首伏地し、仏に帰依したてまつる。未だ起たざる間に、其の命便ち終りて驢胎に生ぜり。母の驢、鞚断たれて、陶家の坏器を破りつ。器主之を打つに、遂に其の胎を傷り、天帝の身中に還り入れり)。
  仏言、殞命之際、帰依三宝、罪対已畢(仏言はく、殞命の際、三宝に帰依したれば、罪対已に畢りぬ)。
  天帝聞之得初果(天帝、之を聞きて初果を得たり)。
  おほよそ世間の苦厄をすくふこと、仏世尊にはしかず。このゆゑに、天帝いそぎ世尊のみもとに詣す。伏地のあひだに命終し、驢胎に生ず。帰仏の功徳により、驢母の鞚やぶれて陶家の坏器を踏破す。器主これをうつ、驢母の身いたみて託胎の驢やぶれぬ。すなはち天帝の身にかへりいる。仏説をききて初果をうる、帰依三宝の功徳力なり。
  しかあればすなはち、世間の苦厄すみやかにはなれて、無上菩提を証得せしむること、かならず帰依三宝のちからなるべし。おほよそ三帰のちから、三悪道をはなるるのみにあらず、天帝釈の身に還入す。天上の果報をうるのみにあらず、須陀洹の聖者となる。まことに三宝の功徳海、無量無辺にましますなり。世尊在世は人天この慶幸あり、いま如来滅後、後五百歳のとき、人天いかがせん。しかあれども、如来形像舍利等、なほ世間に現住しまします。これに帰依したてまつるに、またかみのごとくの功徳をうるなり。

  未曽有経云、仏言、憶念過去無数劫時、毘摩大国徙陀山中、有一野干。而為師子所逐欲食。奔走墮井不能得出。経於三日、開心分死、而説偈言(未曽有経云く、仏言はく、過去無数劫時を憶念するに、毘摩大国徙陀山中に一野干有りき。而も師子に逐はれ、食はれなんとす。奔走して井に墮ちて出づること得ること能はず。三日を経るに、開心して死を分へ、而も偈を説いて言く)、

  禍哉今日苦所逼(禍ひなる哉今日苦に逼られ)、
  便当没命於丘井(便ち当に命を丘井に没せんとす)。
  一切万物皆無常(一切万物皆な無常なり)、
  恨不以身飴師子(恨むらくは身を以て師子に飴はざりしことを)。
  南無帰依十方仏、表知我心浄無己(我が心浄にして己れ無きことを表知したまへ)。
  時天帝釈聞仏名、肅然毛豎念古仏。自惟孤露無導師、耽著五欲自沈没。即与諸天八万衆、飛下詣井、欲問詰。乃見野干在井底、両手攀土不得出(時に天帝釈、仏の名を聞きて、肅然として毛豎ちて古仏を念へり。自ら惟へらく、孤露にして導師無く、五欲に耽著して自ら沈没すと。即ち諸天八万衆と与に、飛下して井に詣りて、問詰せんと欲へり。乃ち野干の井底に在りて、両手をもて土を攀づれども出づること得ざるを見たり)。
  天帝復自思念言、聖人応念無方術。我今雖見野干形、斯必菩薩非凡器。仁者向説非凡言、願為諸天説法要(天帝復た自ら思念して言く、聖人応に方術無からんと念ふべし。我れ今野干の形を見ると雖も、斯れは必ず菩薩にして凡器に非ざらん。仁者向説する、凡言に非ず、願はくは諸天の為に法要を説きたまへ)。
  於時野干仰答曰、汝為天帝無清訓。法師在下自処上、都不修敬問法要。法水清浄能濟人、云何欲得自貢高(時に野干、仰いで答へて曰く、汝、天帝として教訓無し。法師は下に在りて自らは上に処る、都て敬を修せずして法要を問ふ。法水清浄にして能く人を濟ふ、云何が自ら貢高ならんと欲得ふや)。
  天帝聞是大慚愧(天帝、是を聞きて大きに慚愧せり)。
  給侍諸天愕然笑、天王降趾大無利(給侍の諸天愕然として笑ふ、天王降趾すれども大きに利無し)。
  天帝即時告諸天、慎勿以此懐驚怖。是我頑蔽徳不称、必当因是聞法要(天帝即ち時に諸天に告ぐらく、慎んで此れを以て驚怖を懐くこと勿れ。是れ我が徳を頑蔽して称げざるなり。必ず当に是れに因りて法要を聞くべし)。
  即為垂下天宝衣、接取野干出於上。諸天為設甘露食、野干得食生活望。非意禍中致斯福。心懐勇躍慶無量。野干為天帝及諸天、広説法要(即ち為に天宝衣を垂下して、野干を接取して上に出しつ。諸天、為に甘露の食を設け、野干、食することを得て活望を生ぜり。意はざりき、禍中に斯の福を致さんとは。心に勇躍を懐きて慶ぶこと無量なり。野干、天帝及び諸天の為に広く法要を説きき)。
  これを天帝拝畜為師の因縁と称ず。あきらかにしりぬ、仏名、法名、僧名のききがたきこと、天帝の野干を師とせし、その証なるべし。いまわれら宿善のたすくるによりて、如来の遺法にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、時とともにして不退なり。これすなはち法要なるべし。天魔波旬なほ三宝に帰依したてまつりて患難をまぬかる、いかにいはんや余者の、三宝の功徳におきて積功累徳せらん、はかりしらざらめやは。

  おほよそ仏子の行道、かならずまづ十方の三宝を敬礼したてまつり、十方の三宝を勧請したてまつりて、そのみまへに焼香散華して、まさに諸行を修するなり。これすなはち古先の勝躅なり、仏祖の古儀なり。もし帰依三宝の儀、いまだかつておこなはざるは、これ外道の法なりとしるべし、または天魔の法ならんとしるべし。仏仏祖祖の法は、かならずそのはじめに帰依三宝の儀軌あるなり。

正法眼蔵 帰依三宝

建長七年乙卯夏安居日、以先師之御草本書寫畢。未及中書清書等。定御再治之時有添削 。於今不可叶其儀。仍御草如此云。
弘安二年己卯夏安居五月廿一日在越宇中濱新善光寺書寫之義雲
正 法 眼 蔵    供養諸仏 (くようしょぶつ  
供養諸仏

仏言、
若無過去世(若し過去世無くんば)、
応無過去仏(応に過去仏無かるべし)。
若無過去仏(若し過去仏無くんば)、
無出家受具(出家受具無けん)。
あきらかにしるべし、三世にかならず諸仏ましますなり。しばらく過去の諸仏におきて、そのはじめありといふことなかれ、そのはじめなしといふことなかれ。もし始終の有無を邪計せば、さらに仏法の習学にあらず。過去の諸仏を供養したてまつり、出家し、随順したてまつるがごとき、かならず諸仏となるなり。供仏の功徳によりて作仏するなり。いまだかつて一仏をも供養したてまつらざる衆生、なにによりてか作仏することあらん。無因作仏あるべからず。

仏本行集経言、
仏告目犍連、我念往昔、於無量無辺諸世尊所、種諸善根、乃至求於阿耨多羅三藐三菩提(仏、目犍連に告げたまはく、我れ往昔を念ふに、無量無辺の諸の世尊の所に於て、諸の善根を種ゑ、乃至阿耨多羅三藐三菩提を求めき)。
目犍連、我念往昔、作転輪聖王身、値三十億仏。皆同一号、号釈迦。如来及声聞衆、尊重承事、恭敬供養、四事具足。所謂衣服、飲食、臥具、湯薬。時彼諸仏、不与我記、汝当得阿耨多羅三藐三菩提、及世間解、天人師、仏世尊、於未来世、得成正覚(目犍連、我れ往昔を念ふに、転輪聖王の身と作りて、三十億の仏に値ひたてまつりき。皆な同じく一号にして、釈迦と号けき。如来及び声聞衆まで、尊重し承事し、恭敬し供養して四事具足せり。所謂る衣服、飲食、臥具、湯薬なり。時に彼の諸仏、我れに記を与へて、汝、当に阿耨多羅三藐三菩提を得、及び世間解、天人師、仏世尊として、未来世に於て、正覚を成ずることを得べしとしたまはざりき)。
目犍連、我念往昔、作転輪聖王身、値八億諸仏。皆同一号、号燃灯。如来及声聞衆、尊重恭敬、四事供養。所謂衣服、飲食、臥具、湯薬、幡蓋、華香。時彼諸仏、不与我記、汝当得阿耨多羅三藐三菩提、及世間解、天人師、仏世尊(目犍連、我れ往昔を念ふに、転輪聖王の身と作りて、八億の諸仏に値ひたてまつりき。皆な同じく一号にして、燃灯と号けき。如来及び声聞衆まで、尊重し恭敬して、四事供養せり。所謂る衣服、飲食、臥具、湯薬、幡蓋、華香なり。時に彼の諸仏、我れに記を与へて、汝、当に阿耨多羅三藐三菩提を得、及び世間解、天人師、仏世尊たるべしとしたまはざりき)。
目犍連、我念往昔、作転輪聖王身、値三億諸仏。皆同一号、号弗沙。如来及声聞衆、四事供養、皆悉具足。時彼諸仏、不与我記、汝当作仏(目犍連、我れ往昔を念ふに、転輪聖王の身と作りて、三億の諸仏に値ひたてまつりき。皆な同じく一号にして弗沙と号けき。如来及び声聞衆まで、四事供養し、皆な悉く具足せり。時に彼の諸仏、我れに記を与へて、汝、当に作仏すべしとしたまはざりき)。
このほかそこばくの諸仏を供養しまします。転輪聖王身としては、かならず四天下を統領すべし、供養諸仏の具、まことに豊饒なるべし。もし大転輪王ならば、三千界に王なるべし。そのときの供仏、いまの凡慮はかるべからず。ほとけときましますとも、解了することをえがたからん。

仏蔵経浄見品第八云、
仏告舎利弗、我念過世、求阿耨多羅三藐三菩提、値三十億仏。皆号釈迦牟尼。我時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子、衣服、飲食、臥具、医薬、為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏、不記我、言汝於来世、当得作仏。何以故。以我有所得故(仏、舎利弗に告げたまはく、我れ過世を念ふに、阿耨多羅三藐三菩提を求めて、三十億の仏に値ひたてまつりき。皆な釈迦牟尼と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで、諸弟子に及ぶまで、衣服、飲食、臥具、医薬を供養せり、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。而も是の諸仏、我れを記して、汝、来世に於て当に作仏することを得べしと言はざりき。何を以ての故に。我れ有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、得値八千仏。皆号定光。時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子、衣服、飲食、臥具、医薬、為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏、不記我汝於来世、当得作仏。何以故。以我有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、八千仏に値ひたてまつることを得たり。皆な定光と号けき。時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで、諸弟子に及ぶまで、衣服、飲食、臥具、医薬を供養せり、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。而も是の諸仏、我れを汝、来世に於て当に作仏することを得べしと記したまはざりき。何を以ての故に。我れ有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、値六万仏。皆号光明。我時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子、衣服、飲食、臥具、医薬、為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏、亦不記我汝於来世、当得作仏。何以故。以我有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、六万仏に値ひたてまつりき。皆な光明と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで、諸弟子に及ぶまで、衣服、飲食、臥具、医薬を供養せり、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。而も是の諸仏、亦た我れを汝、来世に於て、当に作仏することを得べしと記したまはざりき。何を以ての故に。我れ有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、値三億仏。皆号弗沙。我時作転輪聖王、四事供養、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、三億仏に値ひたてまつりき。皆な弗沙と号けき。我れ時に転輪聖王と作りて、四事供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、得値万八千仏。皆号山王、劫名上八。我皆於此万八千仏所、剃髪法衣修習阿耨多羅三藐三菩提、皆不記我。以我有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、万八千仏に値ひたてまつることを得たり。皆な山王と号け、劫を上八と名づけき。我れ皆な此の万八千仏の所に於て、剃髪法衣して阿耨多羅三藐三菩提を修習せしに、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、得値五百仏。皆号華上。我時皆作転輪聖王、悉以一切、供養諸仏及諸弟子、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、五百仏に値ひたてまつることを得たり。皆な華上と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、悉く一切を以て、諸仏及び諸弟子を供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、得値五百仏。皆号威徳。我悉供養、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、五百仏に値ひたてまつることを得たり。皆な威徳と号けき。我れ悉く供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、得値二千仏。皆号憍陳如。我時皆作転輪聖王、悉以一切、供養諸仏、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、二千仏に値ひたてまつることを得たり。皆な憍陳如と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、悉く一切を以て諸仏を供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、値九千仏。皆号迦葉。我以四事、供養諸仏及諸弟子衆、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、九千仏に値ひたてまつれり。皆な迦葉と号けき。我れ四事を以て、諸仏及び諸弟子衆を供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過去、於万劫中、無有仏出。爾時初五百劫、有九万辟支仏。我尽形寿、悉皆供養衣服、飲食、臥具、医薬、尊重讃嘆。次五百劫、復以四事、供養八万四千億諸辟支仏、尊重讃嘆(舎利弗、我れ過去を念ふに、万劫の中に於て、仏の出でたまふこと有ること無し。爾の時に初めの五百劫に、九万の辟支仏有りき。我れ尽形寿に、悉く皆な衣服、飲食、臥具、医薬を供養して、尊重し讃嘆しき。次の五百劫に、復た四事を以て、八万四千億の諸の辟支仏を供養し、尊重し讃嘆しき)。
舎利弗、過是千劫已、無復辟支仏。我時閻浮提死、生梵世中、作大梵王。如是展転、五百劫中、常生梵世作大梵王、不生閻浮提。過是五百劫已、下生閻浮提、治化閻浮提、命終生四天王天。於中命終、生忉利天、作釈提桓因。如是展転、満五百劫生閻浮提、満五百劫生於梵世、作大梵王(舎利弗、是の千劫を過ぎ已りて、復た辟支仏無し。我れ時に閻浮提に死して、梵世の中に生れて大梵王と作りき。是の如く展転して、五百劫の中に、常に梵世に生れ大梵王と作りて、閻浮提に生ぜず。是の五百劫を過ぎ已りて、閻浮提に下生して、閻浮提を治化して、命終して四天王天に生れき。中に於て命終して忉利天に生れ、釈提桓因と作りき。是の如く展転して、五百劫を満てて閻浮提に生れ、五百劫を満てて梵世に生れ、大梵王と作りき)。
舎利弗、我於九千劫中、但一生閻浮提、九千劫中、但生天上。劫尽焼時、生光音天。世界成已、還生梵世。九千劫中生、都不生人中(舎利弗、我れ九千劫の中に、但だ一たび閻浮提に生れ、九千劫の中に、但だ天上にのみ生る。劫尽きて焼けし時、光音天に生る。世界成じ已りて、還た梵世に生る。九千劫の中の生、都て人中に生れざりき)。
舎利弗、是九千劫、無有諸仏、辟支仏、多諸衆生墮在悪道(舎利弗、是の九千劫に、諸仏、辟支仏有ること無く、諸の衆生の悪道に墮在するもの多かりき)。
舎利弗、是万劫過已、有仏出世。号曰普守如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊。我於爾時、梵世命終生閻浮提、作転輪聖王。号曰共天。人寿九万歳。我尽形寿、以一切楽具、供養彼仏及九十億比丘。於九万歳、為求阿耨多羅三藐三菩提。是普守仏亦不記我汝於来世、当得作仏。何以故。我於爾時、不能通達諸法実相、貪著計我有所得見(舎利弗、是の万劫過ぎ已りて、仏有りて出世したまひき。号けて普守如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊と曰ふ。我れ爾の時に於て、梵世に命終して閻浮提に生れ、転輪聖王と作りき。号けて共天と曰ふ。人寿九万歳なりき。我れ尽形寿に、一切の楽具を以て、彼の仏及び九十億の比丘を供養せり。九万歳に於て阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。是の普守仏も亦た我れを汝、来世に於て、当に作仏することを得べしと記したまはざりき。何を以ての故に。我れ爾の時に、諸法実相に通達すること能はず、計我、有所得の見に貪著したればなり)。
舎利弗、於是劫中、有百仏出、名号各異。我時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子。為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏亦不記我汝於来世、当得作仏。以有所得故(舎利弗、是の劫の中に、百仏有りて出でたまひ、名号各異なりき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで供養すること、諸弟子に及べり。阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。而も是の諸仏も亦た我れを汝、来世に於て当に作仏することを得べしと記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、第七百阿僧祇劫中、得値千仏。皆号閻浮檀。我尽形寿四事供養、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、第七百阿僧祇劫の中に、千仏に値ひたてまつることを得たり。皆な閻浮檀と号けき。我れ尽形寿に四事供養せしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値六百二十万諸仏。皆号見一切儀。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、亦た第七百阿僧祇劫の中に、六百二十万の諸仏に値ひたてまつることを得たり。皆な、見一切儀と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養すること諸弟子に及びしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値八十四仏。皆号帝相。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、亦た第七百阿僧祇劫の中に、八十四仏に値ひたてまつることを得たり。皆な、帝相と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養すること諸弟子に及びしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値十五仏。皆号日明。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、亦た第七百阿僧祇劫の中に、十五仏に値ひたてまつることを得たり。皆な日明と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養すること諸弟子に及びしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値六十二仏。皆号善寂。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、また第七百阿僧祇劫の中に、六十二仏に値ひたてまつることを得たり。皆な善寂と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養せしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。
如是展転、乃至見定光仏、乃得無生忍。即記我言、汝於来世過阿僧祇劫、当得作仏、号釈迦牟尼如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊(是の如く展転して、乃至定光仏を見たてまつりて、乃ち無生忍を得たり。即ち我れを記して言はく、汝、来世に於て阿僧祇劫を過ぎて、当に作仏することを得て、釈迦牟尼如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊と号くべしと)。
はじめ三十億の釈迦牟尼仏にあひたてまつりて、尽形寿供養よりこのかた、定光如来にあふたてまつらせたまふまで、みなつねに転輪聖王のみとして、尽形寿供養したてまつりまします。転輪聖王、おほくは八万已上なるべし。あるいは九万歳、八万歳の寿量、そのあひだの一切楽具の供養なり。定光仏とは燃灯如来なり。三十億の釈迦牟尼仏にあひたてまつりまします、仏本行集経ならびに仏蔵経の説、おなじ。

釈迦菩薩、初阿僧企耶、逢事供養七万五千仏。最初名釈迦牟尼、最後名宝髻。第二阿僧企耶、逢事供養七万六千仏。最初即宝髻、最後名燃灯。第三阿僧企耶、逢事供養七万七千仏。最初即燃灯、最後名勝観。於修相異熟業九十一劫中、逢事供養六仏。最初名勝観、最後名迦葉波(釈迦菩薩、初阿僧企耶に、七万五千仏に逢事し供養したてまつりき。最初を釈迦牟尼と名づけ、最後を宝髻と名づけき。第二阿僧企耶に、七万六千仏に逢事し供養したてまつりき。最初は即ち宝髻、最後を燃灯と名づけき。第三阿僧企耶に、七万七千仏に逢事し供養したてまつりき。最初は即ち燃灯、最後名勝観と名づけき。相異熟業を修する九十一劫の中に、六仏に逢事し供養したてまつりき。最初は即ち勝観、最後名迦葉波と名づけき)。
おほよそ三大阿僧祇劫の供養諸仏、はじめ身命より、国城妻子、七宝男女等、さらにをしむところなし。凡慮のおよぶところにあらず。あるいは黄金の粟を白銀の埦にもりみて、あるいは七宝の粟を金銀の埦にもりみてて供養したてまつる。あるいは小豆、あるいは水陸の花、あるいは栴檀、沈水香等を供養したてまつり、あるいは五茎の青蓮華を、五百の金銀をもて買取て、燃灯仏を供養したてまつりまします。あるいは鹿皮衣、これを供養したてまつる。
おほよそ供仏は、諸仏の要樞にましますべきを供養したてまつるにあらず。いそぎわがいのちの存ぜる光陰をむなしくすごさず、供養したてまつるなり。たとひ金銀なりとも、ほとけの御ため、なにの益かあらん。たとひ香花なりとも、またほとけの御ため、なにの益かあらん。しかあれども、納受せさせたまふは、衆生をして功徳を増長せしめんための大慈大悲なり。

大般涅槃経第二十二云、
仏言、善男子、我念過去無量無辺那由他劫、爾時世界名曰裟婆。有仏世尊、号釈迦牟尼如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊。為諸大衆、宣説如是大涅槃経。我於爾時、従善友所転、聞彼仏当為大衆説大涅槃。我聞是已、其心歓喜、欲設供養。居貧無物。欲自売身、薄福不售。即欲還家、路見一人(仏言はく、善男子、我れ過去無量無辺那由他劫を念ふに、爾の時に世界を名づけて裟婆と曰へり。仏世尊有り、釈迦牟尼如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊と号けき。諸の大衆の為に、是の如くの大涅槃経を宣説したまひき。我れ爾の時に於て、善友の所より転じて、彼の仏当に大衆の為に大涅槃を説きたまふと聞きき。我れ是れを聞き已りて、其の心歓喜し、供養を設けんと欲へり。貧に居して物無し。自ら身を売らんと欲へども、薄福にして售れず。即ち家に還らんと欲ふに、路に一人を見たり)。
而便語言、吾欲売身、若能買不(吾れ身を売らんと欲ふ、若能く買ふや不や)。
其人答曰、我家作業、人無堪者、汝設能為、我当買汝(我が家の作業は、人の堪ふる者無し、汝設し能く為さば、我れ当に汝を買ふべし)。
我即問言、有何作業、人無能堪(何なる作業有りてか、人の能く堪ふること無き)。
其人見答、吾有悪病、良医処薬、応当日服人肉三両。卿若能以身肉三両日日見給、便当与汝金銭五枚(其の人見答すらく、吾れに悪病有り、良医の処薬、応当に日に人肉三両を服すべしといふ。卿若し能く身肉三両を以て日日に見給せば、便ち当に汝に金銭五枚を与ふべし)。
我時聞已、心中歓喜(我れ時に聞き已りて、心中歓喜しき)。
我復語言、汝与我銭、仮我七日。須我事訖、便還相就(我れ復た語りて言く、汝、我に銭を与へ、我れに七日を仮すべし。我が事訖るを須ちて、便ち還た相就かん)。
其人見答、七日不可、審能爾者、当許一日(其の人見答すらく、七日は不可なり、審し能く爾あらば、当に一日を許すべし)。
善男子、我於爾時、即取其銭、還至仏所、頭面礼足、尽其所有、而以奉献。然後、誠心聴受是経。我時闇鈍、雖得聞経、唯能受持一偈文句(善男子、我れ爾の時に於て、即ち其の銭を取りて、還た仏の所に至り、頭面に足を礼し、其の所有を尽くして、以て奉献しき。然して後、誠心に是の経を聴受せり。我れ時に闇鈍にして、経を聞くことを得と雖も、唯能く一偈の文句を受持したり)。
如来証涅槃(如来涅槃を証したまひ)、
永断於生死(永く生死を断ず)。
若有至心聴(若し至心に聴くこと有らば)、
常得無量楽(常に無量の楽を得べし)。
受是偈已、即便還至彼病人家(是の偈を受け已りて、即便ち還た彼の病人の家に至りぬ)。
善男子、我時雖復日日与三両肉、以念偈因縁故、不以為痛。日日不癈、具満一月(善男子、我れ時に復た日日に三両の肉を与ふと雖も、念偈の因縁を以ての故に、以て痛と為さざりき。日日癈せず、具に一月を満てり)。
善男子、以是因縁其病得瘥、我身平復亦無瘡痍。我時見身具足完具、即発阿耨多羅三藐三菩提心。一偈之力尚能如是、何況具足受持読誦。我見此経有如是利、復倍発心、願於未来、得成仏道、字釈迦牟尼(善男子、是の因縁を以て其の病瘥ゆることを得、我が身も平復して亦た瘡痍無かりき。我れ時に身の具足完具せるを見て、即ち阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。一偈の力尚ほ能く是の如し、何に況んや具足して受持し読誦せんをや。我れ此の経の是の如く利有るを見て、復た倍発心し、未来に於て仏道を成ずることを得て、釈迦牟尼と字せんことを願ひき)。
善男子、以是一偈因縁力故、令我今日於大衆中、為諸天人具足宣説(善男子、是の一偈の因縁力を以ての故に、我れをして今日大衆の中に於て、諸の天人の為に具足して宣説せしむ)。
善男子、以是因縁、是大涅槃不可思議、成就無量無辺功徳。乃是諸仏如来甚深秘密之蔵(善男子、是の因縁を以て、是の大涅槃不可思議なり、無量無辺の功徳を成就せり。乃ち是れ諸仏如来甚深秘密之蔵なり)。
そのときの売身の菩薩は、今釈迦牟尼仏の往因なり。他経を会通すれば、初阿僧祇劫の最初、古釈迦牟尼仏を供養したてまつりましますときなり。かのときは瓦師なり、その名を大光明と称ず。古釈迦牟尼仏ならびに諸弟子に供養するに三種の供養をもてす、いはゆる草座、石蜜漿、燃灯なり。そのときの発願にいはく、
国土、名号、寿命、弟子、一如今釈迦牟尼仏(今釈迦牟尼仏に一如ならん)。
かのときの発願、すでに今日成就するものなり。しかあればすなはち、ほとけを供養したてまつらんとするに、その身まづしといふことなかれ、そのいへまづしといふことなかれ。みづから身をうりて諸仏を供養したてまつるは、いま大師釈尊の正法なり。たれかこれを随喜歓喜したてまつらざらん。このなかに、日日に三両の身肉を割取するぬしにあふ、善知識なりといへども、他人のたふべからざるなり。しかあれども、供養の深志のたすくるところ、いまの功徳あり。いまわれら如来の正法を聴聞する、かの往古の身肉を処分せられたるなるべし。いまの四句の偈は、五枚の金銭にかふるところにあらず。三阿僧祇、一百大劫のあひだ、受生捨生にわするることなく、彼仏是仏のところに証明せられきたりましますところ、まことに不可思議の功徳あるべし。遺法の弟子、ふかく頂戴受持すべし。如来すでに一偈之力、尚能如是と宣説しまします、もともおほきにふかかるべし。

法華経云、
若人於塔廟、宝像及畫像(若し人、塔廟、宝像及び畫像に)、
以華香幡蓋、敬心而供養(華香幡蓋を以て、敬心に而も供養せん)、
若使人作楽、撃鼓吹角唄(若しは人をして楽を作さしめ、鼓を撃ち角唄を吹き)、
簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸(簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸)、
如是衆妙音、尽持以供養(是の如くの衆妙の音、尽く持以て供養せん)、
或以歓喜心、歌唄頌仏徳(或いは歓喜心を以て、歌唄して仏徳を頌せん)、
乃至一少音、皆已成仏道(乃至一少音せんすら、皆な已に仏道を成ぜり)。
若人散乱心、乃至以一華(若し人、散乱の心もて、乃至一華を以て)、
供養於畫像、漸見無数仏(畫像に供養せん、漸くに無数の仏を見たてまつらん)。
或有人礼拝、或復但合掌(或いは人有りて礼拝し、或いは復た但だ合掌し)、
乃至挙一手、或復少低頭(乃至一手を挙げ、或いは復た少しく低頭せん)、
以此供養像、漸見無量仏(此れを以て像を供養せしもの、漸くに無量仏を見たてまつり)、
自成無上道、広度無数衆(自ら無上道を成じて、広く無数の衆を度せん)。
これすなはち、三世諸仏の頂寧なり、眼睛なり。見賢思齊の猛利精進すべし。いたづらに光陰をわたることなかれ。

石頭無際大師云、光陰莫虚度(光陰虚しく度ること莫れ)。
かくのごときの功徳、みな成仏す。過去、現在、未来おなじかるべし。さらに二あり、三あるべからず。供養仏の因によりて、作仏の果を成ずること、かくのごとし。

龍樹祖師曰、如求仏果、讃歎一偈、称一南謨、焼一捻香、奉献一華、如是小行、必得作仏(龍樹祖師曰く、仏果を求むるが如きは、一偈を讃歎し、一南謨を称じ、一捻香を焼き、一華を奉献せん、是の如くの小行も、必ず作仏することを得ん)。
これひとり龍樹祖師菩薩の所説といふとも、帰命したてまつるべし。いかにいはんや大師釈迦牟尼仏説を、龍樹祖師、正伝挙揚しましますところなり。われらいま仏道の宝山にのぼり、仏道の宝海にいりて、さいはひにたからをとれる、もともよろこぶべし。曠劫の供仏のちからなるべし。必得作仏うたがふべからず、決定せるものなり。
釈迦牟尼仏の所説、かくのごとし。

復次、有小因大果、小縁大報。如求仏道、讃一偈、一称南無仏、焼一捻香、必得作仏。何況聞知諸法実相、不生不滅、不不生不不滅、而行因縁業、亦不失(復た次に、小因大果、小縁大報といふこと有り。仏道を求むるが如き、一偈を讃め、一たび南無仏を称じ、一捻香を焼く、必ず作仏することを得ん。何に況んや諸法実相、不生不滅、不不生不不滅を聞知して、而も因縁の業を行ぜん、また失せじ)。
世尊の所説、かくのごとくあきらかなるを、龍樹祖師したしく正伝しましますなり。誠諦の金言、正伝の相承あり。たとひ龍樹祖師の所説なりとも、余師の説に比すべからず。世尊の所示を正伝流布しましますにあふことをえたり、もともよろこぶべし。これらの聖教を、みだりに東土の凡師の虚説に比量することなかれ。

龍樹祖師曰、復次諸仏、恭敬法故、供養於法、以法為師。何以故。三世諸仏皆以諸法実相為師(復た次に諸仏は、法を恭敬したまふが故に、法を供養し、法を以て師と為す。何を以ての故に。三世の諸仏は皆な諸法実相を以て師と為したまへばなり)。
問曰、何以不自供養身中法、而供養他法(何を以てか自ら身中の法を供養せずして、而も他法を供養したまふや)。
答曰、随世間法。如比丘欲供養法宝、不自供養身中法、而供養余持法、知法、解法者。仏亦如是、雖身中有法、而供養余仏法(世間の法に随へばなり。如し比丘、法宝を供養せんと欲はば、自ら身中の法を供養せずして、而も余の持法、知法、解法の者を供養すべし。仏も亦た是の如し、身中に法有りと雖も、而も余仏の法を供養したまふなり)。
問曰、如仏不求福徳、何以故供養(仏の如きは、福徳を求めず、何を以ての故に供養したまふや)。
答曰、仏従無量阿僧祇劫中、修諸功徳、常行諸善。不但求報敬功徳故、而作供養(仏は無量阿僧祇劫の中より、諸の功徳を修し、常に諸の善を行じたまへり。但だ報を求めずして功徳を敬ふが故に、而も供養を作したまふなり)。
如仏在時、有一盲比丘。眼無所見、而以手縫衣、時針衽脱。便言、誰愛福徳、為我衽針(仏在しし時の如き、一りの盲比丘有りき。眼に見る所無くして、而も手を以て衣を縫ふに、時に針衽脱せり。便ち言く、誰か福徳を愛して、我が為に衽針せん)。
是時仏、到其所語比丘、我是愛福徳人、為汝衽来(是の時に仏、其の所に到りて、比丘に語りたまはく、我れは是れ福徳を愛する人なり、汝が為に衽し来らん)。
是比丘、識仏声、疾起著衣、礼仏足、白仏言、仏功徳已満、云何言愛福徳(是の比丘、仏の声を識りて、疾く起ちて衣を著け、仏の足を礼し、仏に白して言さく、仏は功徳已に満じたまへり、云何が福徳を愛すと言ふや)。
仏報言、我雖功徳已満、我深知功徳因、功徳果報、功徳力。今我於一切衆生中得最第一、由此功徳、是故我愛(仏報げて言はく、我れ功徳已に満ぜりと雖も、我れは深く功徳の因、功徳の果報、功徳の力を知る。今我れ一切衆生の中に於て最第一を得たるは此の功徳に由る、是の故に我れは愛するなり)。
仏為此比丘讃功徳已、次為随意説法、是比丘、得法眼浄、肉眼更明(仏、此の比丘の為に功徳を讃め已りて、次いで為に意に随つて説法したまひしに、是の比丘、法眼浄を得て、肉眼更に明らかなりき)。
この因縁、むかしは先師の室にして夜話をきく、のちには智度論の文にむかうてこれを檢校す。伝法祖師の示誨、あきらかにして遺落せず。この文、智度論第十にあり。諸仏かならず諸法実相を大師としましますこと、あきらけし。釈尊また諸仏の常法を証しまします。
いはゆる諸法実相を大師とするといふは、仏法僧三宝を供養恭敬したてまつるなり。諸仏は無量阿僧祇劫そこばくの功徳善根を積集して、さらにその報をもとめず。ただ功徳を恭敬して供養しましますなり。仏果菩提のくらゐにいたりてなほ小功徳を愛し、盲比丘のために衽針しまします。仏果の功徳をあきらめんとおもはば、いまの因縁、まさしく消息なり。
しかあればすなはち、仏果菩提の功徳、諸法実相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。いまの凡夫のおもふところは、造悪の諸法実相ならんとおもふ、有所得のみ仏果菩提ならんとおもふ。かくのごとくの邪見は、たとひ八万劫をしるといふとも、いまだ本劫、本見、末劫、末見をのがれず。いかでか唯仏与仏の究尽しましますところの諸法実相を究尽することあらん。ゆゑいかんとなれば、唯仏与仏の究尽しましますところ、これ諸法実相なるがゆゑなり。

おほよそ供養に十種あり。いはゆる、
一者身供養。 二者支提供養。
三者現前供養。 四者不現前供養。
五者自作供養。 六者他作供養。
七者財物供養。 八者勝供養。
九者無染供養。 十者至処道供養。
このなかの第一身供養とは、於仏色身、而設供養、名身供養(仏の色身に於て供養を設くるを、身供養と名づく)。
第二供仏霊廟、名支提供養。僧祇律云、有舎利者名為塔婆、無舎利者説為支提。或云、通名支提。又梵云塔婆、復称偸婆、此翻方墳、亦言霊廟。阿含言支徴[知荷反](第二に仏の霊廟に供ずるを、支提供養と名づく。僧祇律云く、舎利有るをば名づけて塔婆と為す、舎利無きをば説いて支提と為すと。或いは云く、通じて支提と名づくと。又梵に塔婆と云ひ、復た偸婆と称ず、此に方墳と翻ず、亦た霊廟と言ふ。阿含に支徴[知荷の反]と言ふ)。
あるいは塔婆と称じ、あるいは支提と称ずる、おなじきににたれども、南嶽思大禅師の法華懺法言、
一心敬礼、十方世界、舎利尊像、支提妙塔、多宝如来、全身宝塔。
あきらかに支提と妙塔とは、舎利と尊像、別なるがごとし。

僧祇律第三十三云、塔法者、仏住拘薩羅国遊行時、有婆羅門畊地。見世尊行過、持牛杖拄地礼仏。世尊見已、便発微笑(僧祇律第三十三に云く、塔法とは、仏、拘薩羅国に住して遊行したまひし時、婆羅門有りて地を畊せり。世尊の行き過ぎたまふを見て、牛杖を持ちて地に拄きて仏を礼せり。世尊見已りて便ち微笑を発したまへり)。
諸比丘白仏、何因縁故笑、唯願欲聞(諸の比丘、仏に白さく、何の因縁の故にか笑ひたまふ、唯願はくは聞かんことを欲ふ)。
便告諸比丘、是婆羅門、今礼二世尊(便ち諸の比丘に告げたまはく、是の婆羅門、今二世尊を礼せり)。
諸比丘白仏言、何等二仏(諸の比丘、仏に白して言さく、何等か二仏なる)。
仏告比丘、礼我当其杖下、有迦葉仏塔(仏、比丘に告げたまはく、我れを礼せし其の杖の下に当りて、迦葉仏塔有り)。
諸比丘白仏、願見迦葉仏塔(諸の比丘、仏に白さく、願はくは迦葉仏塔を見んことを)。
仏告比丘、汝従此婆羅門、索土塊并是地(仏、比丘に告げたまはく、汝、此の婆羅門従り、土塊并びに是の地を索むべし)。
諸比丘、即便索之。時婆羅門便与之得已(諸の比丘、即便ち之を索む。時に婆羅門便ち之を与ふるに得已りぬ)。
爾時世尊、即現出迦葉仏七宝塔、高一由延、面広半由延(爾の時に世尊、即ち迦葉仏の七宝塔の、高さ一由延、面の広さ半由延なるを現出したまへり)。
婆羅門見已、即便白仏言、世尊、我姓迦葉、是我迦葉塔(婆羅門、見已りて、即便ち仏に白して言さく、世尊、我が姓は迦葉なり、是れ我が迦葉塔なり)。
爾時世尊、即於彼家、作迦葉仏塔、諸比丘白仏言、世尊、我得授泥土不(爾の時に世尊、即ち彼の家に於て、迦葉仏塔を作りたまふに、諸の比丘、仏に白して言さく、世尊、我れ泥土を授くることを得んや不や)。
仏言、得授(授くることを得)。
即時説偈言(即ち時に偈を説いて言はく)、
真金百千擔(真金百千擔)、
持用行布施(持用つて布施を行ぜんよりは)、
不如一團埿 (如かじ、一團埿 をもて)、
敬心持仏塔(敬心もて仏塔を持せんには)。
爾時世尊、自起迦葉仏塔、下基四方周匝欄楯、圓起二重、方牙四出、上施盤蓋、長表輪相(爾の時に世尊、自ら迦葉仏塔を起てたまふに、下基は四方に欄楯を周匝し、圓起すること二重にして、方牙四出し、上に盤蓋を施し、長く輪相を表はしつ)。
仏言、作塔法応如是(作塔の法は、応に是の如くなるべし)。
塔成已、世尊敬過去仏故、便自作礼(塔成り已りて、世尊、過去仏を敬ひたまふが故に、便ち自ら礼を作したまひき)。
諸比丘白仏言、世尊、我得作礼不(諸の比丘、仏に白して言さく、世尊、我れ礼を作すこと得てんや不や)。
仏言、得(得べし)。
即説偈言(即ち偈を説いて言はく)、
人等百千金(人等百千の金)、
持用行布施(持用つて布施を行ぜんよりは)、
不如一善心(如かじ、一善心もて)、
恭敬礼仏塔(恭敬して仏塔を礼せんには)。
爾時世人、聞世尊作塔、持香華来奉世尊。世尊恭敬過去仏故、即受華香持供養塔(爾の時に世人、世尊の塔を作りたまふを聞きて、香華をもち来りて世尊に奉りき。世尊、過去仏を恭敬したまふが故に、即ち華香を受けて持つて塔に供養したまひき)。
諸比丘白仏言、我等得供養不(諸の比丘、仏に白して言さく、我等、供養することを得てんや不や)。
仏言、得(得べし)。
即説偈言(即ち偈を説いて言はく)、
百千車真金(百千車の真金)、
持用行布施(持用つて布施を行ぜんよりは)、
不如一善心(如かじ、一善心もて)、
恭敬礼仏塔(華香もて塔に供養せんには)。
爾時大衆雲集、仏告舎利弗、汝為諸人説法(爾の時に大衆雲集するに、仏、舎利弗に告げたまはく、汝、諸人の為に法を説くべし)。
仏即説偈言(仏、即ち偈を説いて言はく)、
百千閻浮提(百千の閻浮提)、
満中真金施(中に満てる真金の施も)、
不如一法施(如かじ、一の法施もて)、
随順令修行(随順して修行せしめんには)。
爾時坐中有得道者。仏即説偈言(爾の時に坐中に得道の者有りき。仏、即ち偈を説いて言はく)、
百千世界中(百千世界の中)、
満中真金施(中に満てる真金の施も)、
不如一法施(如かじ、一の法施もて)、
随順見真諦(随順して真諦を見んには)。
爾時婆羅門、不壊信、即於塔前、飯仏及僧(爾の時に婆羅門、不壊の信もて、即ち塔の前に於て、仏及び僧に飯せり)。
時波斯匿王、聞世尊造迦葉仏塔、即敕載七百車塼、来詣仏所、頭面礼足、白仏言、世尊、我欲広作此塔、為得不(時に波斯匿王、世尊の迦葉仏塔を造りたまふを聞きて、即ち敕て七百車の塼を載せて、仏の所に来詣りて、頭面に足を礼して、仏に白して言さく、世尊、我れ広く此の塔を作らんと欲ふに、為得てんや不や)。
仏言、得(得べし)。
仏告大王、過去世時、迦葉仏般泥洹時、有王名吉利。欲作七宝塔。時有臣白王、未来世当有非法人出。当破此塔得重罪。唯願大王当以洹作、金銀覆上。若取金銀者、塔故在得全(仏、大王に告げたまはく、過去世の時、迦葉仏般泥洹したまひし時、王有り吉利と名づく。七宝の塔を作らんと欲ひき。時に臣有り、王に白さく、未来世に当に非法の人有りて出づべし。当に此の塔を破して重罪を得べし。唯願はくは大王、当に洹を以て作り、金銀もて上を覆ふべし。若し金銀を取る者あらんも、塔は故のごとくに在りて全きことを得ん)。
王即如臣言、以塼作金薄覆上。高一由延、面広半由延。銅作欄楯、経七年七月七日乃成。作成已香華供養及比丘僧(王、即ち臣の言の如く、塼を以て作り、金薄もて上を覆ひき。高さ一由延、面の広さ半由延なり。銅もて欄楯を作り、七年七月七日を経て乃ち成る。作成し已りて香華もて供養すること、比丘僧に及べり)。
波斯匿王白仏言、彼王福徳多有珍宝。我今当作、不及彼王(波斯匿王、仏に白して言さく、彼の王、福徳にして多く珍宝有り。我れ今当に作るべきも、彼の王に及ばじ)。 即便作経七月七日乃成。成已、供養仏比丘僧(即便ち作ること七月七日を経て乃ち成る。成り已りて仏と比丘僧とに供養しき)。
作塔法者、下基四方、周匝欄楯、圓起二重、方牙四出。上施盤蓋、長表輪相。若言世尊已除貪欲、瞋恚、愚癡、用是塔為得越毘尼罪、業報重故。是名塔法(作塔の法は、下基は四方に欄楯を周匝し、圓起すること二重にして、方牙四出す。上に盤蓋を施し、長く輪相を表す。若し、世尊は已に貪欲、瞋恚、愚癡を除きたまひたれば、是の塔を用ゐたまふに為んと言はば、越毘尼罪を得べし、業報重きが故に。是れを塔法と名づく)。

塔事者、起僧伽藍時、先預度好地作塔処。塔不得在南、不得在西、応在東、応在北。不得僧地侵仏地、仏地不得侵僧地。若塔近死尸林、若狗食残、持来汚地、応作垣牆。応在西若南作僧坊。不得使僧地水流入仏地、仏地水得流入僧地。塔応在高顯処作。不得在塔垣中、浣染曬衣、著革履、覆頭覆肩、涕唾地。若作是言、世尊、貪欲、瞋恚、愚癡已除、用是塔為、得越毘尼罪業、業報重。是名塔事(塔事とは、僧伽藍を起つる時、先づ預て好地を度りて塔処と作すべし。塔は南に在ること得ざれ、西に在ること得ざれ、応に東に在るべし、応に北に在るべし。僧地は仏地を侵すこと得ざれ、仏地は僧地を侵すこと得ざれ。若しは塔、死尸林に近く、若しは狗の食ひ残して持ち来つて地を汚さば、応に垣牆を作るべし。応に西若しは南に在つて僧坊を作るべし。僧地の水を仏地に流入せしむること得ざれ、仏地の水は僧地に流入せしむることを得。塔は応に高顯の処に在つて作るべし。塔垣の中に在つて浣染曬衣し、革履を著け、頭を覆ひ肩を覆ひ、地に涕唾すること得ざれ。若し是の言を作して、世尊は貪欲、瞋恚、愚癡已に除こほれるに、是の塔を用ゐたまひて為んといはば、越毘尼罪業を得て、業報重かるべし。是れを塔事と名づく)。
塔龕者、爾時波斯匿王、往詣仏所、頭面礼足、白仏言、世尊、我等為迦葉仏作塔。得作龕不(塔龕とは、爾の時に波斯匿王、仏の所に往詣りて、頭面に足を礼し、仏に白して言さく、世尊、我等迦葉仏の為に塔を作れり。龕を作ること得べしや不や)。
仏言、得。過去世時、迦葉仏、般泥洹後、吉利王為仏起塔。面四面作龕、上作師子像、種種綵畫。前作欄楯安置華処、龕内懸幡蓋。若人言世尊貪欲、瞋恚、愚癡已除、但自荘厳而受楽者、得越毘尼罪、業報重。是名塔龕法(仏言はく、得べし。過去世の時、迦葉仏般泥洹したまひし後、吉利王、仏の為に塔を起てき。面、四面に龕を作り、上に師子像、種種の綵畫を作る。前に欄楯を作りて華処を安置し、龕の内には幡蓋を懸けたり。若し人、世尊は貪欲、瞋恚、愚癡已に除きたまひたれば、但だ自ら荘厳して楽を受けたまはんやと言はば、越毘尼罪を得て、業報重かるべし。是れを塔龕法と名づく)。
あきらかにしりぬ、仏果菩提のうへに、古仏のために塔をたて、これを礼拝供養したてまつる、これ諸仏の常法なり。かくのごとくの事おほけれど、しばらくこれを挙揚す。 仏法は有部すぐれたり、そのなか、僧祇律もとも根本なり。僧祇律は、法顯はじめて荊棘をひらきて西天にいたり、霊山にのぼれりしついでに将来するところなり。祖祖正伝しきたれる法、まさしく有部に相応せり。

第三現前供養。面対仏身及与支提、而設供養(第三に現前供養。面り仏身と及び支提とに対ひて、供養を設く)。
第四不現前供養。於不現前仏及支提、広設供養。謂現前共不現前、供養仏及支提塔廟、并供不現前仏及支提塔廟(第四に不現前供養。不現前の仏及び支提に於て、広く供養を設く。謂ゆる現前と不現前と共に、仏及び支提、塔廟に供養す、并びに不現前の仏及び支提、塔廟に供ず)。
現前供養得大功徳、不現前供養、得大大功徳、境寛広故。現前不現前供養者、得最大大功徳(現前供養は大功徳を得、不現前供養は大大功徳を得。境、寛広なるが故に。現前、不現前の供養者は、最大大功徳を得)。
第五自作供養。自身供養仏及支提(第五に自作供養。自身に仏及び支提に供養す)。
第六他作供養仏及支提。有少財物、不依懈怠、教他施作也(第六に他作供養仏及支提。少しき財物有らば、懈怠に依らずして、他をして施作せしむるなり)。
謂自他供養、彼此同為。自作供養得大功徳、教他供養得大大功徳、自他供養得最大大功徳(謂ゆる自他供養は彼此同為なり。自作供養は大功徳を得、教他供養は大大功徳を得、自他供養は最大大功徳を得)。
第七財物供養仏及支提、塔廟、舎利。謂財有三種。一資具供養。謂、衣食等。二敬具供養。謂香花等。三厳具供養。謂余一切宝荘厳等(第七に財物供養仏及支提、塔廟、舎利。謂ゆる財に三種有り。一には資具供養。謂く衣食等なり。二には敬具供養。謂く香花等なり。三には厳具供養。謂く余の一切の宝荘厳等なり)。
第八勝供養。勝有三。一専設種種供養。二純浄信心、信仏徳重、理合供養。三囘向心。求仏心中而設供養(第八に勝供養。勝に三有り。一には専ら種種の供養を設く。二には純浄の信心もて、仏徳の重きを信ずれば、理、供養に合ふ。三には囘向心。求仏心中にして而も供養を設く)。
第九無染供養。無染有二。一心無染、離一切過。二財物無染、離非法過(第九に無染供養。無染に二有り。一には心無染、一切の過を離る。二には財物無染、非法の過を離る)。
第十至処道供養。謂供養順果、名至処道供養。仏果是其所至之処、供養之行、能至彼処、名至処道。至処道供養、或名法供養。或名行供養。就中有三。一者財物供養為至処道供養。二随喜供養、為至処道供養。三修行供養、為至処道供養(第十に至処道供養。謂ゆる供養、果に順ふを至処道供養と名づく。仏果は是れ其の所至の処、供養の行、能く彼処に至るを、至処道と名づく。至処道供養、或いは法供養と名づけ、或いは行供養と名づく。中に就きて三有り、一には財物供養を至処道供養と為。二には随喜供養を至処道供養と為。三には修行供養を至処道供養と為)。
供養於仏、既有此十供養。於法於僧、類亦同然(仏に供養すること、既に此の十供養有り。法に於ても僧に於ても、類するに亦た同然なり)。
謂供養法者、供養仏所説理教行法、并供養経卷。供養僧者、謂供養一切三乗聖衆及其支提、并其形像、塔廟及凡夫僧(謂ゆる供養法とは、仏所説の理教行法に供養し、并びに経卷に供養す。供養僧とは、謂ゆる一切三乗の聖衆及び其の支提、并びに其の形像、塔廟及び凡夫僧に供養す)。
次供養心有六種(次に供養の心に六種有り)。
一、福田無上心。生福田中最勝(福田中の最勝を生ず)。
二、恩徳無上心。一切善楽、依三宝出生(一切の善楽は、三宝に依つて出生す)。
三、生一切衆生最勝心。
四、如優曇鉢華難遇心。
五、三千大千世界殊独一心。
六、一切世間出世間、具足依義心。謂如来具足世間出世間法、能与衆生為依止処、名具足依義(謂ゆる如来は、世間、出世間の法を具足したまひて、能く衆生の与に依止処と為りたまふを、具足依義と名づく)。
以此六心、雖是少物、供養三宝、能獲無量無辺徳徳。何況其多(此の六心を以て、是れ少物なりと雖も、三宝に供養ずれば、能く無量無辺の功徳を獲しむ。何に況んや其の多からんをや)。
かくのごとくの供養、かならず誠心に修設すべし。諸仏かならず修しきたりましますところなり。その因縁、あまねく経律にあきらかなれども、なほ仏祖まのあたり正伝しきたりまします。執事服労の日月、すなはち供養の時節なり。形像舎利を安置し、供養礼拝し、塔廟をたて、支提をたつる儀則、ひとり仏祖の屋裏に正伝せり、仏祖の兒孫にあらざれば正伝せず。またもし如法に正伝せざれば法儀相違す、法儀相違するがごときは供養まことならず、供養まことならざれば功徳おろそかなり。かならず如法供養の法、ならひ正伝すべし。令韜禅師は曹溪の塔頭に陪侍して年月をおくり、盧行者は昼夜にやすまず碓米供衆する、みな供養の如法なり。これその少分なり、しげくあぐるにいとまあらず。かくのごとく供養すべきなり。

正法眼蔵供養諸仏第五

弘安第二己卯六月廿三日在永平寺衆寮書寫之
 正 法 眼 蔵    発菩提心 (ほつぼだいしん  
発菩提心

  おほよそ、心三種あり。
  一つには質多心、此の方に慮知心と称ず。二つには汗栗多心、此の方に草木心と称ず。三つには矣栗多心、此の方に積聚精要心と称ず。
このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。菩提は天竺の音、ここには道といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり。
  この心もとよりあるにあらず、いまあらたに歘起するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然にあらず、凝然にあらず。わが身のなかにあるにあらず、わが身は心のなかにあるにあらず。この心は、法界に周遍せるにあらず。前にあらず、後にあらず。なきにあらず。自性にあらず、他性にあらず。共性にあらず、無因性にあらず。しかあれども、感応道交するところに、発菩提心するなり。諸仏菩薩の所授にあらず、みづからが所能にあらず、感応道交するに発心するゆゑに、自然にあらず。
  この発菩提心、おほくは南閻浮の人身に発心すべきなり。八難処等にもすこしきはあり、おほからず。菩提心をおこしてのち、三阿僧祇劫、一百大劫修行す。あるいは無量劫おこなひてほとけになる。あるいは無量劫おこなひて、衆生をさきにわたして、みづからはつひにほとけにならず、ただし衆生をわたし、衆生を利益するもあり。菩薩の意楽にしたがふ。
  おほよそ菩提心は、いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導せましと、ひまなく三業にいとなむなり。いたづらに世間の欲楽をあたふるを、利益衆生とするにはあらず。この発心、この修証、はるかに迷悟の辺表を超越せり。三界に勝出し、一切に拔群せり。なほ声聞辟支仏のおよぶところにあらず。 迦葉菩薩、偈をもて釈迦牟尼仏をほめたてまつるにいはく、
  発心と畢竟と二、別無し、是の如くの二心は先の心難し。
  自れ未だ度ることを得ざるに先づ他を度す、是の故に我れは初発心を礼す。
  初発已に天人師たり、声聞及び縁覚に勝出す。
  是の如くの発心は三界に過えたり、是の故に最無上と名づくることを得。
発心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあふたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法し、さらに菩提心をおこす、霜上加霜なり。
  いはゆる畢竟とは、仏果菩提なり。阿耨多羅三藐三菩提と初発菩提心と、格量せば劫火、螢火のごとくなるべしといへども、自未得度先度他のこころをおこせば、二無別なり。
  毎自作是念、以何令衆生。得入無上道、速成就仏身。
これすなはち如来の寿量なり。ほとけは発心、修行、証果、みなかくのごとし。
衆生を利益すといふは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり。自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功徳熟して円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道に囘向するなり。この心、われにあらず、他にあらず、きたるにあらずといへども、この発心よりのち、大地を挙すればみな黄金となり、大海をかけばたちまちに甘露となる。これよりのち、土石砂礫をとる、すなはち菩提心を拈来するなり。水沫泡焔を参ずる、したしく菩提心を擔来するなり。
  しかあればすなはち、国城妻子、七宝男女、頭目髄脳、身肉手足をほどこす、みな菩提心の鬧聒聒なり、菩提心の活驋驋なり、いまの質多、慮知の心、ちかきにあらず、とほきにあらず、みづからにあらず、他にあらずといへども、この心をもて、自未得度先度他の道理にめぐらすこと不退転なれば、発菩提心なり。 しかあれば、いま一切衆生の我有と執せる草木瓦礫、金銀珍宝をもて菩提心にほどこす、また発菩提心ならざらめやは。心および諸法、ともに自他共無因にあらざるがゆゑに、もし一刹那この菩提心をおこすより、万法みな増上縁となる。おほよそ発心、得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。この刹那の量は、ただ如来ひとりあきらかにしらせたまふ。一刹那心、能起一語、一刹那語、能説一字(一刹那の心、能く一語を起し、一刹那の語、能く一字を説く)も、ひとり如来のみなり。余聖不能なり。

  おほよそ壯士の一弾指のあひだに、六十五の刹那ありて五蘊生滅すれども、凡夫かつて不覚不知なり。怛刹那の量よりは、凡夫もこれをしれり。一日一夜をふるあひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて、五蘊ともに生滅す。しかあれども、凡夫かつて覚知せず。覚知せざるがゆゑに菩提心をおこさず。仏法をしらず、仏法を信ぜざるものは、刹那生滅の道理を信ぜざるなり。もし如来の正法眼蔵涅槃妙心をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり。いまわれら如来の説教にあふたてまつりて、曉了するににたれども、わづかに怛刹那よりこれをしり、その道理しかあるべしと信受するのみなり。世尊所説の一切の法、あきらめずしらざることも、刹那量をしらざるがごとし。学者みだりに貢高することなかれ。極少をしらざるのみにあらず、極大をもまたしらざるなり。もし如来の道力によるときは、衆生また三千界をみる。おほよそ本有より中有にいたり、中有より当本有にいたる、みな一刹那一刹那にうつりゆくなり。かくのごとくして、わがこころにあらず、業にひかれて流転生死すること、一刹那もとどまらざるなり。かくのごとく流転生死する身心をもて、たちまちに自未得度先度他の菩提心をおこすべきなり。たとひ発菩提心のみちに身心ををしむとも、生老病死して、つひに我有なるべからず。

  衆生の寿行生滅してとどまらず、すみやかなること、
  世尊在世に一比丘有り、仏の所に来詣りて、雙足を頂礼し、却つて一面に住して、世尊に白して言さく、衆生の寿行、云何が速疾に生滅する。
  仏言、我れ能く宣説するも、汝知ること能はじ。
  比丘言、頗る譬喩の能く顯示しつべき有りや不や。
  仏言く、有り、今汝が為に説かん。譬へば四の善射夫、各弓箭を執り、相背きて攅り立ちて、四方を射んと欲んに、一の捷夫有りて、来りて之に語げて、汝等今一時に箭を放つべし、我れ能く遍く接りて、倶に墮せざらしめんと曰はんが如し。意に於て云何、此れは捷疾なりや不や。
  比丘、仏に白さく、其だ疾し、世尊。
  仏言く、彼の人の捷疾なること、地行夜叉に及ばず。地行夜叉の捷疾なること、空行夜叉に及ばず。空行夜叉の捷疾なること、四天王天の捷疾なるに及ばず。彼の天の捷疾なること、日月二輪の捷疾なるに及ばず。日月二輪の捷疾なること、堅行天子の捷疾なるに及ばず。此れは是れ日月の輪車を導引する者なり。此等の諸天、展転して捷疾なり。寿行の生滅は、彼よりも捷疾なり。刹那に流転し、暫くも停ること有ること無し。
  われらが寿行生滅、刹那流転捷疾なること、かくのごとし。念念のあひだ、行者この道理をわするることなかれ。この刹那生滅、流転捷疾にありながら、もし自未得度先度他の一念をおこすごときは、久遠の寿量、たちまちに現在前するなり。三世十方の諸仏、ならびに七仏世尊、および西天二十八祖、東地六祖、乃至伝仏正法眼蔵涅槃妙心の祖師、みなともに菩提心を保任せり、いまだ菩提心をおこさざるは祖師にあらず。

  禅苑 規一百二十問云、菩提心を発悟せりや否や。
  あきらかにしるべし、仏祖の学道、かならず菩提心を発悟するをさきとせりといふこと。これすなはち仏祖の常法なり。発悟すといふは、曉了なり。これ大覚にはあらず。たとひ十地を頓証せるも、なほこれ菩薩なり。西天二十八祖、唐土六祖等、および諸大祖師は、これ菩薩なり。ほとけにあらず、声聞辟支仏等にあらず。いまのよにある参学のともがら、菩薩なり、声聞にあらずといふこと、あきらめしれるともがら一人もなし。ただみだりに衲僧、衲子と自称して、その真実をしらざるによりて、みだりがはしくせり。あはれむべし、澆季祖道廃せること。
  しかあればすなはち、たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、楽にありといふとも、はやく自未得度先度他の心をおこすべし。衆生界は有辺無辺にあらざれども、先度一切衆生の心をおこすなり。これすなはち菩提心なり。
一生補処菩薩、まさに閻浮提にくだらんとするとき、覩史多天の諸天のために、最後の教をほどこすにいはく、菩提心は是れ法明門なり、三宝を断ぜざるが故に。
  あきらかにしりぬ、三宝の不断は菩提心のちからなりといふことを。菩提心をおこしてのち、かたく守護し、退転なかるべし。

  仏言はく、云何が菩薩一事を守護せん。謂く、菩提心なり。菩薩摩訶薩、常に勤めて是の菩提心を守護すること、猶ほ世人の一子を守護するが如し。亦た瞎者の余の一目を護るが如し。曠野を行くに、導者を守護するが如し。菩薩の菩提心を守護することも、亦た復た是の如し。是の如くの菩提心を護るに因るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得。阿耨多羅三藐三菩提を得るに因るが故に、常楽我浄具足して有り。即ち是れ無上大般涅槃なり。是の故に菩薩は一法を守護すべし。
  菩提心をまぼらんこと、仏語あきらかにかくのごとし。守護して退転なからしむるゆゑは、世間の常法にいはく、たとひ生ずれども熟せざるもの三種あり。いはく、魚子、菴羅果、発心菩薩なり。おほよそ退大のものおほきがゆゑに、われも退大とならんことを、かねてよりおそるるなり。このゆゑに菩提心を守護するなり。 菩薩の初心のとき、菩提心を退転すること、おほくは正師にあはざるによる。正師にあはざれば正法をきかず、正法をきかざればおそらくは因果を撥無し、解脱を撥無し、三宝を撥無し、三世等の諸法を撥無す。いたづらに現在の五欲に貪著して、前途菩提の功徳を失す。
  あるいは天魔波旬等、行者をさまたげんがために、仏形に化し、父母師匠、乃至親族諸天等のかたちを現じて、きたりちかづきて、菩薩にむかひてこしらへすすめていはく、仏道長遠、久受諸苦、もともうれふべし。しかじ、まづわれ生死を解脱し、のちに衆生をわたさんには。行者このかたらひをききて、菩提心を退し、菩薩の行を退す。まさにしるべし、かくのごとくの説すなはちこれ魔説なり、菩薩しりてしたがふことなかれ。もはら自未得度先度他の行願を退転せざるべし。自未得度先度他の行願にそむかんがごときは、これ魔説としるべし、外道説としるべし、悪友説としるべし。さらにしたがふことなかれ。

  魔に四種有り。一には煩悩魔、二には五衆魔、三には死魔、四には天子魔。
煩悩魔とは、所謂る百八煩悩等、分別するに八万四千の諸の煩悩なり。
五衆魔とは、是れ煩悩和合の因縁にして、是の身を得。四大及び四大の造色、眼根等の色、是れを色衆と名づく。百八煩悩等の諸受和合せるを、名づけて受衆と為す。大小無量の所有の想、分別和合せるを、名づけて想衆と為す。好醜の心発るに因つて、能く貪欲瞋恚等の心、相応不相応の法を起すを、名づけて行衆と為す。六情六塵和合するが故に六識を生ず、是の六識分別和合すれば無量無辺の心あり、是れを識衆と名づく。
  死魔とは、無常因縁の故に、相続せる五衆の寿命を破り、三法なる識熱寿を尽離するが故に、名づけて死魔と為す。
  天子魔とは、欲界の主として、深く世楽に著し、有所得を用ての故に邪見を生じ、一切賢聖、涅槃の道法を憎嫉す。是れを天子魔と名づく。
  魔は是れ天竺の語、秦には能奪命者と言ふ。死魔は実に能く命を奪ふと雖も、余の者も亦た能く奪命の因縁を作し、亦た智恵の命を奪ふ。是の故に殺者と名づく。
  問曰、一の五衆魔に三種の魔を接す、何を以ての故に別にして四と説くや。
  答曰、実に是れ一魔なり、其の義を分別するが故に四有り。
  上来これ龍樹祖師の施設なり、行者しりて勤学すべし。いたづらに魔嬈をかうぶりて、菩提心を退転せざれ、これ守護菩提心なり。

正法眼蔵 発菩提心

建長七年乙卯四月九日以御草案書寫之 懐弉
正 法 眼 蔵    袈裟功徳けさくどく  
袈裟功徳

  仏仏祖祖正伝の衣法、まさしく震旦国に正伝することは、嵩嶽の高祖のみなり。高祖は、釈迦牟尼仏より第二十八代の祖なり。西天二十八伝、嫡嫡あひつたはれり。二十八祖、したしく震旦にいりて初祖たり。震旦国人五伝して、曹溪にいたりて三十三代の祖なり、これを六祖と称ず。第三十三代の祖大鑑禅師、この衣法を黄梅山にして夜半に正伝し、一生護持、いまなほ曹溪山宝林寺に安置せり。
  諸代の帝王、あひつぎて内裡に奉請し、供養礼拝す、神物護持せるものなり。唐朝中宗、肅宗、代宗、しきりに帰内供養しき。奉請のとき、奉送のとき、ことさら勅使をつかはし、詔をたまふ。代宗皇帝、あるとき仏衣を曹溪山におくりたてまつる詔にいはく、今、鎮国大将軍劉崇景をして、頂戴して送らしむ。朕、之を国宝とす。卿、本寺に安置し、僧衆の親しく宗旨を承けし者をして厳しく守護を加へ、遺墜せしむることなからしむべし。
  まことに無量恆河沙の三千大千世界を統領せんよりも、仏衣現在の小国に王としてこれを見聞供養したてまつらんは、生死のなかの善生、最勝の生なるべし。仏化のおよぶところ、三千界いづれのところか袈裟なからん。しかありといへども、嫡嫡面授して仏袈裟を正伝せるは、ただひとり嵩嶽の曩祖のみなり、旁出は仏袈裟をさづけられず。二十七祖の旁出、跋陀婆羅菩薩の伝、まさに肇法師におよぶといへども、仏袈裟の正伝なし。震旦の四祖大師、また牛頭山の法融禅師をわたすといへども、仏袈裟を正伝せず。
  しかあればすなはち、正嫡の相承なしといへども、如来の正法その功徳むなしからず、千古万古みな利益広大なり。正嫡相承せらんは、相承なきとひとしかるべからず。
  しかあればすなはち、人天もし袈裟を受持せんは、仏祖相伝の正伝を伝受すべし。印度震旦、正法像法のときは、在家なほ袈裟を受持す。いま遠方辺土の澆季には、剃除鬚髪して仏弟子と称ずる、袈裟を受持せず、いまだ受持すべきと信ぜず、しらず、あきらめず、かなしむべし。いはんや体色量をしらんや、いはんや著用の法をしらんや。

  袈裟はふるくより解脱服と称ず、業障、煩悩障、報障等、みな解脱すべきなり。龍もし一縷をうれば三熱をまぬかる、牛もし一角にふるればその罪おのづから消滅す。諸仏成道のとき、かならず袈裟を著す。しるべし、最尊最上の功徳なりといふこと。
  まことにわれら辺地にうまれて末法にあふ、うらむべしといへども、仏仏嫡嫡相承の衣法にあふたてまつる、いくそばくのよろこびとかせん。いづれの家門か、わが正伝のごとく釈尊の衣法ともに正伝せる。これにあふたてまつりて、たれか恭敬供養せざらん。たとひ一日に無量恆河沙の身命をすてても、供養したてまつるべし、なほ生生世世の値遇頂戴、供養恭敬を発願すべし。われら仏生国をへだつること十万余里の山海はるかにして通じがたしといへども、宿善のあひもよほすところ、山海に擁塞せられず、辺鄙の愚蒙きらはるることなし。この正法にあふたてまつり、あくまで日夜に修習す、この袈裟を受持したてまつり、常恆に頂戴護持す。ただ一仏二仏のみもとにして、功徳を修せるのみならんや、すでに恆河沙等の諸仏のみもとにして、もろもろの功徳を修習せるなるべし。たとひ自己なりといふとも、たふとぶべし、随喜すべし。祖師伝法の深恩、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしらざらん。もし恩をしらずは、畜類よりも愚なるべし。

  この仏衣仏法の功徳、その伝仏正法の祖師にあらざれば、余輩いまだあきらめず、しらず。諸仏のあとを欣求すべくは、まさにこれを欣楽すべし。たとひ百千万代ののちも、この正伝を正伝とすべし。これ仏法なるべし、証験まさにあらたならん。水を乳に入るるに相似すべからず。皇太子の帝位に即位するがごとし。かの合水の乳なりとも、乳をもちゐん時は、この乳のほかにさらに乳なからんには、これをもちゐるべし。たとひ水と合せずとも、あぶらをもちゐるべからず、うるしをもちゐるべからず、さけをもちゐるべからず。この正伝もまたかくのごとくならん。たとひ凡師の庸流なりとも、正伝あらんは用乳のよろしきときなるべし。いはんや仏仏祖祖の正伝は、皇太子の即位のごとくなるなり。俗なほいはく、先王の法服にあらざれば服せず。仏子いづくんぞ仏衣にあらざらんを著せん。後漢孝明皇帝、永平十年よりのち、西天東地に往還する出家在家、くびすをつぎてたえずといへども、西天にして仏仏祖祖正伝の祖師にあふといはず。如来より面授相承の系譜なし。ただ経論師にしたがうて、梵本の経教を伝来せるなり。仏法正嫡の祖師にあふといはず、仏袈裟相伝の祖師ありとかたらず。あきらかにしりぬ、仏法の閫奥にいらざりけりといふことを。かくのごときのひと、仏祖正伝のむね、あきらめざるなり。
  釈迦牟尼如来、正法眼蔵無上菩提を、摩訶迦葉に附授しましますに、迦葉仏正伝の袈裟、ともに伝授しまします。嫡嫡相承して曹溪山大鑑禅師にいたる、三十三代なり。その体色量、親伝せり。それよりのち、青原南嶽の法孫、したしく伝法しきたり、祖宗の法を搭し、祖宗の法を製す。浣洗の法および受持の法、この嫡嫡面授の堂奥に参学せざれば、しらざるところなり。

  袈裟は三衣有りと言う、五條衣七條衣、九條衣等の大衣也。上行の流は、唯此の三衣を受けて余衣を畜へず、唯三衣を用て身に供じて事足す。
  若し経営作務、大小の行来には、五條衣を著す。諸の善事を為し入衆せんには、七條衣を著す。人天を教化し、其をして敬信せしめんには、須らく九條等の大衣を著すべし。
  又屏処に在らんには五條衣を著し、入衆の時には七條衣を著す。若し王宮聚落に入らんには、須らく大衣を著すべし。
  又復調和熅燸の時には五條衣を著し、寒冷の時には七條衣を加著し、寒苦厳切ならんには加ふるに以て大衣を著す。
  故往の一時、正冬に夜に入りて、天寒くして竹を裂く。如来、彼の初夜の分時に於て、五條衣を著したまひき。夜久しく転た寒きには七條衣を加へ、夜の後分に於て、天寒転た盛んなるには、加ふるに大衣を以てしたまひき。
  仏便ち念を作したまはく、未来世の中に、寒苦を忍びざるには、諸の善男子、此の三衣を以て、足らはして充身することを得ん。

搭袈裟法
  偏袒右肩、これ常途の法なり。通両肩搭の法あり、如来および耆年老宿の儀なり。両肩を通ずといふとも、胸臆をあらはすときあり、胸臆をおほふときあり。通両肩搭は六十條衣以上の大袈裟のときなり。搭袈裟のとき、両端ともに左臂肩にかさねかくるなり。前頭は左端のうへにかけて臂外にたれたり。大袈裟のとき、前頭を左肩より通じて背後にいだしたれたり。このほか種種の著袈裟の法あり、久参咨問すべし。
  梁陳隋唐宋あひつたはれて数百歳のあひだ、大小両乗の学者、おほく講経の業をなげすてて、究竟にあらずとしりて、すすみて仏祖正伝の法を習学せんとするとき、かならず従来の弊衣を脱落して、仏祖正伝の袈裟を受持するなり。まさしくこれ捨邪帰正なり。
  如来の正法は、西天すなはち法本なり。古今の人師、おほく凡夫の情量局量の小見をたつ。仏界衆生界、それ有辺無辺にあらざるがゆゑに、大小乗の教行人理、いまの凡夫の局量にいるべからず。しかあるに、いたづらに西天を本とせず、震旦国にして、あらたに局量の小見を今案して仏法とせる、道理しかあるべからず。
  しかあればすなはち、いま発心のともがら、袈裟を受持すべくは、正伝の袈裟を受持すべし。今案の新作袈裟を受持すべからず。正伝の袈裟といふは、少林曹溪正伝しきたれる、如来の嫡嫡相承なり。一代も虧闕なし。その法子法孫の著しきたれる、これ正伝袈裟なり。唐土の新作は正伝にあらず。いま古今に、西天よりきたれる僧徒の所著の袈裟、みな仏祖正伝の袈裟のごとく著せり。一人としても、いま震旦新作の律学のともがらの所製の袈裟のごとくなるなし。くらきともがら、律学の袈裟を信ず、あきらかなるものは抛却するなり。
  おほよそ、仏仏祖祖相伝の袈裟の功徳、あきらかにして信受しやすし。正伝まさしく相承せり。本様まのあたりつたはれり、いまに現在せり。受持しあひ嗣法していまにいたる。受持せる祖師、ともにこれ証契伝法の師資なり。
  しかあればすなはち、仏祖正伝の作袈裟の法によりて作法すべし。ひとりこれ正伝なるがゆゑに。凡聖人天龍神、みなひさしく証知しきたれるところなり。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身体におほひ、刹那須臾も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提の護身符子ならん。一句一偈を身心にそめん、長劫光明の種子として、つひに無上菩提にいたる。一法一善を身心にそめん、亦復如是なるべし。心念も刹那生滅し無所住なり、身体も刹那生滅し無所住なりといへども、所修の功徳、かならず熟脱のときあり。袈裟また作にあらず無作にあらず、有所住にあらず無所住にあらず、唯仏与仏の究尽するところなりといへども、受持する行者、その所得の功徳、かならず成就するなり、かならず究竟するなり。もし宿善なきものは、一生二生乃至無量生を経歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。いま震旦国日本国をみるに、袈裟をひとたび身体に著することうるものあり、えざるものあり。貴賎によらず、愚智によらず。はかりしりぬ、宿善によれりといふこと。
  しかあればすなはち、袈裟を受持せんは宿善よろこぶべし、積功累徳うたがふべからず。いまだえざらんはねがふべし、今生いそぎ、そのはじめて下種せんことをいとなむべし。さはりありて受持することえざらんものは、諸仏如来、仏法僧の三宝に、慚愧懺悔すべし。他国の衆生いくばくかねがふらん、わがくにも震旦国のごとく、如来の衣法まさしく正伝親臨せましと。おのれがくにに正伝せざること、慚愧ふかかるらん、かなしむうらみあるらん。われらなにのさいはひありてか、如来世尊の衣法正伝せる法にあひたてまつれる。宿殖般若の大功徳力なり。
  いま末法悪時世は、おのれが正伝なきをはぢず、他の正伝あるをそねむ、おもはくは魔当ならん。おのれがいまの所有所住は、前業にひかれて真実にあらず。ただ正伝仏法に帰敬せん、すなはちおのれが学仏の実帰なるべし。
  およそしるべし、袈裟はこれ諸仏の恭敬帰依しましますところなり。仏身なり、仏心なり。解脱服と称じ、福田衣と称じ、無相衣と称じ、無上衣と称じ、忍辱衣と称じ、如来衣と称じ、大慈大悲衣と称じ、勝幡衣と称じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と称ず。まさにかくのごとく受持頂戴すべし。かくのごとくなるがゆゑに、こころにしたがうてあらたむべきにあらず。

  その衣財、また絹布よろしきにしたがうてもちゐる。かならずしも布は清浄なり、絹は不浄なるにあらず。布をきらうて絹をとる所見なし、わらふべし。諸仏の常法、かならず糞掃衣を上品とす。
  糞掃に十種あり、四種あり。
  いはゆる火焼、牛嚼、鼠噛、死人衣等なり。五印度の人、此の如き等の衣、之を巷野に棄つ。事、糞掃に同じ、糞掃衣と名づく。行者之を取つて、浣洗縫治して、用以て身に供ず。
  そのなかに絹類あり、布類あり。絹布の見をなげすてて、糞掃を参学すべきなり。
  糞掃衣は、むかし阿耨達池にして浣洗せしに、龍王讃歎、雨花礼拝しき。
  小乗教師また化絲の説あり、よところなかるべし、大乗人わらふべし。いづれか化絲にあらざらん。なんぢ化をきくみみを信ずとも、化をみる目をうたがふ。
  しるべし、糞掃をひろふなかに、絹に相似なる布あらん、布に相似なる絹あらん。土俗万差にして造化はかりがたし、肉眼のよくしるところにあらず。かくのごときのものをえたらん、絹布と論ずべからず、糞掃と称ずべし。たとひ人天の糞掃と生長せるありとも、有情ならじ、糞掃なるべし。たとひ松菊の糞掃と生長せるありとも、非情ならじ、糞掃なるべし。糞掃の絹布にあらず、金銀珠玉にあらざる道理を信受するとき、糞掃現成するなり。絹布の見解いまだ脱落せざれば、糞掃也未夢見在なり。
  ある僧かつて古仏にとふ、黄梅夜半の伝衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん。畢竟じてなにものなりとかせん。
  古仏いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず。
  しるべし、袈裟は絹布にあらざる、これ仏道の玄訓なり。

  商那和修尊者は第三の附法蔵なり、むまるるときより衣と倶生せり。この衣、すなはち在家のときは俗服なり、出家すれば袈裟となる。また鮮白比丘尼、発願施氎ののち、生生のところ、および中有、かならず衣と倶生せり。今日釈迦牟尼仏にあふたてまつりて出家するとき、生得の俗衣、すみやかに転じて袈裟となる。和修尊者におなじ。あきらかにしりぬ、袈裟は絹布等にあらざること。いはんや仏法の功徳、よく身心諸法を転ずること、それかくのごとし。われら出家受戒のとき、身心依正すみやかに転ずる道理あきらかなれど、愚蒙にしてしらざるのみなり。諸仏の常法、ひとり和修鮮白に加して、われらに加せざることなきなり。随分の利益、うたがふべからざるなり。
  かくのごとくの道理、あきらかに功夫参学すべし。善来得戒の披体の袈裟、かならずしも布にあらず、絹にあらず。仏化難思なり、衣裏の宝珠は算沙の所能にあらず。
  諸仏の袈裟の体色量の有量無量、有相無相、あきらめ参学すべし。西天東地、古往今来の祖師、みな参学正伝せるところなり。祖祖正伝のあきらかにしてうたがふところなきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正伝せざらんは、その意楽ゆるしがたからん。愚癡のいたり、不信のゆゑなるべし。実をすてて虚をもとめ、本をすてて末をねがふものなり。これ如来を軽忽したてまつるならん。菩提心をおこさんともがら、かならず祖師の正伝を伝受すべし。われらあひがたき仏法にあひたてまつるのみにあらず、仏袈裟正伝の法孫としてこれを見聞し、学習し、受持することをえたり。すなはちこれ如来をみたてまつるなり。仏説法をきくなり、仏光明にてらさるるなり、仏受用を受用するなり。仏心を単伝するなり、仏髄をえたるなり。まのあたり釈迦牟尼仏の袈裟におほはれたてまつるなり。釈迦牟尼仏まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟はうけたてまつれり。

浣袈裟法
  袈裟をたたまず、浄桶にいれて、香湯を百沸して、袈裟をひたして、一時ばかりおく。またの法、きよき灰水を百沸して、袈裟をひたして、湯のひややかになるをまつ。いまはよのつねに灰湯をもちゐる。灰湯、ここにはあくのゆといふ。灰湯さめぬれば、きよくすみたる湯をもて、たびたびこれを浣洗するあひだ、両手にいれてもみあらはず、ふまず。あかのぞこほり、あぶらのぞこほるを期とす。そののち、沈香栴檀香等を冷水に和してこれをあらふ。そののち浄竿にかけてほす。よくほしてのち、摺襞してたかく安じて、焼香散花して、右遶数匝して礼拝したてまつる。あるいは三拝、あるいは六拝、あるいは九拝して、胡跪合掌して、袈裟を両手にささげて、くちに偈を誦してのち、たちて如法に著したてまつる。

  世尊大衆に告げて言はく、我れ往昔宝蔵仏の所に在りし時、大悲菩薩たり。爾の時に大悲菩薩摩訶薩、宝蔵仏の前に在りて発願して言さく、世尊、我成仏し已らんに、若し衆生有つて、我が法の中に入りて、出家して袈裟を著する者の、或いは重戒を犯し、或いは邪見を行じ、若しは三宝に於て軽毀して信ぜず、諸の重罪を集たらん比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、若し一念の中に恭敬心を生じて、僧伽梨衣を尊重し、恭敬心を生じて世尊或いは法僧に於て尊重せん。世尊、是の如くの衆生、乃至一人も、三乗に於て記莂を受くることを得ずして而も退転せば、則ち為十方世界の無量無辺阿僧祇等の現在の諸仏を欺誑したてまつるなり。必定じて阿耨多羅三藐三菩提を成らじ。世尊、我れ成仏してより已来、諸の天龍鬼神、人及び非人、若し能く此の著袈裟の者に於て、恭敬供養し、尊重讃歎せん。其の人若し此の袈裟の少分を見ることを得ば、即ち三乗の中に於て不退なることを得ん。若し衆生有つて、飢渇の為に逼められん、若しは貧窮の鬼神、下賎の諸人、乃至餓鬼の衆生までも、若し袈裟の少分の乃至四寸を得たらんには、即ち飮食充足することを得ん。その所願に随ひて疾く成就することを得ん。若し衆生有つて、共に相違反し、怨賊の想を起して、展転鬪諍せん、若しは諸の天龍、鬼神、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、狗弁荼、毘舍遮、人及非人、共に鬪諍せん時、此の袈裟を念ぜば、袈裟の力に依りて、尋いで悲心、柔軟の心、無怨賊の心、寂滅の心、調伏の善心を生じて、還た清浄なることを得ん。人有つて若し兵甲鬪訟断事の中に在らんに、此の袈裟の少分を持つて此の輩の中に至らん、自護の為の故に、供養し恭敬し尊重せん、是の諸人等、能く侵毀触嬈軽弄すること無けん。常に他に勝つことを得て、此の諸難を過ぎん。世尊、若し我が袈裟の、是の如くの五事の聖功徳を成就すること能はずは、則ち十方世界の無量無辺阿僧祇等の現在したまふ諸仏を欺誑したてまつるなり。未来に応に阿耨多羅三藐三菩提を成就し、仏事を作すべからず。善法を沒失し、必定じて外道を破壞すること能はじ。善男子、爾の時に宝蔵如来、金色の右臂を申べて、大悲菩薩の頂を摩でて讃めて言はく、善哉善哉、大丈夫、汝が所言は、是れ大珍宝なり、是れ大賢善なり。汝、阿耨多羅三藐三菩提を成じ已らんに、是の袈裟服は、能く此の五聖功徳を成就して大利益を作さん。善男子、爾の時に大悲菩薩摩訶薩、仏の讃歎したまふを聞き已りて、心に歓喜を生じ、踊躍すること無量なり。因みに仏此の金色の臂を申べたまふに、長作合縵なり。その手柔軟なること、猶ほ天衣の如く、其の頭を摩で已るに、其の身即ち變じて、状僮子二十歳ばかりの人の如し。善男子、彼の会の大衆、諸天龍神乾闥婆、人及非人、叉手恭敬し、大悲菩薩に向ひて種種の花を供養し、乃至伎楽して之を供養し、復た種種に讃歎し已りて、黙然として住せり。

  如来在世より今日にいたるまで、菩薩声聞の経律のなかより、袈裟の功徳をえらびあぐるとき、かならずこの五聖功徳をむねとするなり。
  まことにそれ、袈裟は三世諸仏の仏衣なり。その功徳無量なりといへども、釈迦牟尼仏の法のなかにして袈裟をえたらんは、余仏の法のなかにして袈裟をえんにもすぐれたるべし。ゆゑいかんとなれば、
  釈迦牟尼仏むかし因地のとき、大悲菩薩摩訶薩として、宝蔵仏のみまへにて五百大願をたてましますとき、ことさらこの袈裟の功徳におきて、かくのごとく誓願をおこしまします。その功徳、さらに無量不可思議なるべし。しかあればすなはち、世尊の皮肉骨髄いまに正伝するといふは袈裟衣なり。正法眼蔵を正伝する祖師、かならず袈裟を正伝せり。この衣を伝持し頂戴する衆生、かならず二参生のあひだに得道せり。たとひ戯笑のため利益のために身を著せる、かならず得道の因縁なり。

  復た次に仏法中の出家人は、破戒して墮罪すと雖も、罪畢りぬれば解脱を得ること、優鉢羅華比丘尼本生経の中に説くが如し。
  仏在世の時、此の比丘尼、六神通阿羅漢を得たり。貴人の舍に入りて、常に出家の法を讃めて、諸の貴人婦女に語りて言く、姉妹、出家すべし。
  諸の貴婦女言く、我等少壮くして容色盛美なり、持戒を難しと為す、或いは当に破戒すべし。
  比丘尼言く、戒を破らば便ち破すべし、但だ出家すべし。
  問言、戒を破らば当に地獄に墮すべし、云何が破すべき。
  答曰、地獄に墮さば便ち墮すべし。
  諸貴婦女笑之言、地獄にては罪を受く、云何が墮すべき。
  比丘尼言く、我れ自ら本宿命の時を憶念するに、戯女と作り、種種の衣服を著して舊語を説きき。或る時比丘尼衣を著して、以て戯笑と為しき。是の因縁を以ての故に、迦葉仏の時、比丘尼と作りぬ。時に自ら貴姓端正なるを恃んで憍慢を生じ、而も禁戒を破りつ。禁戒を破りし罪の故に、地獄に墮して種種の罪を受けき。受け畢竟りて釈迦牟尼仏に値ひたてまつりて出家し、六神通阿羅漢道を得たり。
  是れを以ての故に知りぬ。出家受戒せば、復た破戒すと雖も、戒の因縁を以ての故に、阿羅漢道を得。若し但だ悪を作して戒の因縁無からんには、道を得ざるなり。我れ乃ち昔時、世世に地獄に墮し、地獄より出でては悪人為り。悪人死しては還た地獄に入りて、都て所得無かりき。今以て証知す、出家受戒せば、復た破戒すと雖も、是の因縁を以て道果を得べしといふことを。

  この蓮花色阿羅漢得道の初因、さらに他の功にあらず。ただこれ袈裟を戯笑のためにその身に著せし功徳によりて、いま得道せり。二生に迦葉仏の法にあふたてまつりて比丘尼となり、三生に釈迦牟尼仏にあふたてまつりて大阿羅漢となり、三明六通を具足せり。三明とは、天眼宿命漏尽なり。六通とは、神境通、他心通、天眼通、天耳通、宿命通、漏尽通なり。まことにそれただ作悪人とありしときは、むなしく死して地獄にいる。地獄よりいでてまた作悪人となる。戒の因縁あるときは、禁戒を破して地獄におちたりといへども、つひに得道の因縁なり。いま戯笑のため袈裟を著せる、なほこれ三生に得道す。いはんや無上菩提のために清浄の信心をおこして袈裟を著せん、その功徳、成就せざらめやは。いかにいはんや一生のあひだ受持したてまつり、頂戴したてまつらん功徳、まさに広大無量なるべし。
  もし菩提心をおこさん人、いそぎ袈裟を受持頂戴すべし。この好世にあふて仏種をうゑざらん、かなしむべし。南州の人身をうけて、釈迦牟尼仏の法にあふたてまつり、仏法嫡嫡の祖師にむまれあひ、単伝直指の袈裟をうけたてまつりぬべきを、むなしくすごさん、かなしむべし。
  いま袈裟正伝は、ひとり祖師正伝これ正嫡なり、余師の肩をひとしくすべきにあらず。相承なき師にしたがふて袈裟を受持する、なほ功徳甚深なり。いはんや嫡嫡面授しきたれる正師に受持せん、まさしき如来の法子法孫ならん。まさに如来の皮肉骨髄を正伝せるなるべし。おほよそ袈裟は、三世十方の諸仏正伝しきたれること、いまだ断絶せず。三世十方の諸仏菩薩、声聞縁覚、おなじく護持しきたれるところなり。

  袈裟をつくるには麁布を本とす、麁布なきがごときは細布をもちゐる。麁細の布、ともになきには絹素をもちゐる、絹布ともになきがごときは綾羅等をもちゐる。如来の聴許なり。絹布綾羅等の類、すべてなきくにには、如来また皮袈裟を聴許しまします。
  おほよそ袈裟、そめて青黄赤黒紫色ならしむべし。いづれも色のなかの壞色ならしむ。如来はつねに肉色の袈裟を御しましませり。これ袈裟色なり。初祖相伝の仏袈裟は青黒色なり、西天の屈眗布なり、いま曹溪山にあり。西天二十八伝し、震旦五伝せり。いま曹谿古仏の遺弟、みな仏衣の故実を伝持せり、余僧のおよばざるところなり。
おほよそ衣に三種あり。 一者糞掃衣、二者毳衣、三者衲衣 なり。糞掃は、さきにしめすがごとし。毳衣者、鳥獣細毛、これをなづけて毳とす。
  行者若し糞掃の得べき無からんには、此を取りて衣を為るべし。衲衣は、朽故破弊したるを、縫衲して身に供ず。世間の好衣を著せざれ。

  具寿眗波離、世尊に請ひたてまつりて曰さく、大徳世尊、僧伽胝衣は條数幾か有る。
仏言はく、九有り。何を謂つてか九と為る、謂ゆる、九條、十一條、十三條、十五條、十七條、十九條、二十一條、二十三條、二十五條。
其の僧伽胝衣、初の三品は、其の中の壇隔は両長一短なり、是の如く持すべし。次の三品は三長一短、後の三品は四長一短なり。是の條を過ぐるの外は、便ち破衲と成る。
  眗波離、復た世尊に白して曰さく、大徳世尊、幾種の僧伽胝衣か有る。
  仏言はく、三種有り、謂ゆる上中下なり。上は豎三肘、横五肘。下は豎二肘半、横四肘半。二の内を中と名づく。
  眗波離、世尊に白して曰さく、大徳世尊、嗢咀羅僧伽衣、條数幾か有る。
  仏言はく、但だ七條のみ有りて、壇隔両長一短なり。
眗波離、世尊に白して曰さく、大徳世尊、七條復た幾種か有る。
  仏言はく、其れに三品有り、謂ゆる上中下なり。上は三五肘、下は各半肘を減ず、二の内を中と名づく。
  眗波離、世尊に白して曰さく、大徳世尊、安咀婆裟衣、條数幾か有る。
  仏言はく、五條有り、壇隔一長一短なり。
  眗波離、世尊に白して曰さく、大徳世尊、安咀婆裟衣幾種か有る。
  仏言はく、三有り、謂ゆる上中下なり。上は三五肘、中下は前に同じ。
  仏言はく、安咀婆裟衣、復た二種有り。何をか二と為す。一は豎二肘、横五肘。二は豎二、横四なり。

  僧伽胝は、訳して重複衣と為す。嗢咀羅僧伽は、訳して上衣と為す。安咀婆裟衣は、訳して内衣と為す。又下衣と云ふ。

  又云く、僧伽梨衣は、謂ゆる大衣也。云く、入王宮衣、説法衣なり。欝多羅僧は、謂く七條衣なり。中衣、又云く、入衆衣。安陀会は、謂く五條衣なり。云く、小衣。又云く、行道衣、作務衣。
  この三衣、かならず護持すべし。又僧伽胝衣に六十條袈裟あり。かならず受持すべし。
  おほよそ、八万歳より百歳にいたるまで、寿命の増減にしたがうて、身量の長短あり。八万歳と一百歳と、ことなることありといふ、また平等なるべしといふ。そのなかに、平等なるべしといふを正伝とせり。仏と人と、身量はるかにことなり。人身ははかりつべし。仏身はつひにはかるべからず。このゆゑに、迦葉仏の袈裟、いま釈迦牟尼仏著しましますに、長にあらず、ひろきにあらず。今釈迦牟尼仏の袈裟、彌勒如来著しましますに、みぢかきにあらず、せばきにあらず。仏身の長短にあらざる道理、あきらかに観見し、決断し、照了し、警察すべきなり。梵王のたかく色界にある、その仏頂をみたてまつらず。目連はるかに光明幡世界にいたる、その仏声をきはめず。遠近の見聞ひとし、まことに不可思議なるものなり。如来の一切の功徳、みなかくのごとし。この功徳を念じたてまつるべし。

  袈裟を裁縫するに、割截衣あり、揲葉衣あり、攝葉衣あり、縵衣あり。ともにこれ作法なり。その所得にしたがうて受持すべし。
  仏言、三世仏の袈裟は、必定して却刺なるべし。 その衣財をえんこと、また清浄を善なりとす。いはゆる糞掃衣を最上清浄とす。三世の諸仏、ともにこれを清浄としまします。そのほか、信心檀那の所施の衣、また 浄なり。あるいは浄財をもていちにしてかふ、また清浄なり。作衣の日限ありといへども、いま末法澆季なり、遠方辺邦なり。信心のもよほすところ、裁縫をえて受持せんにはしかじ。

  在家の人天なれども、袈裟を受持することは、大乗最極の秘訣なり。いまは梵王釈王、ともに袈裟を受持せり。欲色の勝躅なり、人間には勝計すべからず。在家の菩薩、みなともに受持せり。震旦国には梁武帝、隋煬帝、ともに袈裟を受持せり。代宗、肅宗ともに袈裟を著し、僧家に三学し、菩薩戒を受持せり。その余の居士婦女等の受袈裟、受仏戒のともがら、古今の勝躅なり。
  日本国には聖徳太子、袈裟を受持し、法華勝鬘等の諸経講説のとき、天雨宝花の奇瑞を感得す。それよりこのかた、仏法わがくにに流通せり。天下の攝籙なりといへども、すなはち人天の導師なり。ほとけのつかひとして衆生の父母なり。いまわがくに、袈裟の体色量ともに訛謬せりといへども、袈裟の名字を見聞する、ただこれ聖徳太子の御ちからなり。そのとき、邪をくだき正をたてずは、今日かなしむべし。のちに聖武皇帝、また袈裟を受持し、菩薩戒をうけまします。
  しかあればすなはち、たとひ帝位なりとも、たとひ臣下なりとも、いそぎ袈裟を受持し、菩薩戒をうくべし。人身の慶幸、これよりもすぐれたるあるべからず。
有るが言く、在家の受持する袈裟は、一に単縫と名づく、二に俗服と名づく。乃ち未だ却刺針して縫ふことを用ゐず。又言く、在家道場に趣く時は、三法衣楊枝澡水食器坐具を具して、応に比丘の如まにして浄行を修行すべし。
  古徳の相伝かくのごとし。ただしいま仏祖単伝しきたれるところ、国王大臣、居士士民にさづくる袈裟、みな却刺なり。盧行者すでに仏袈裟を正伝せり、勝躅なり。

  おほよそ袈裟は、仏弟子の標幟なり。もし袈裟を受持しをはりなば、毎日に頂戴したてまつるべし。頂上に安じて、合掌してこの偈を誦す。
  大哉解脱服 無相福田衣 披奉如来教 広度諸衆生
  しかうしてのち著すべし。袈裟におきては、師想塔想をなすべし。浣衣頂戴のときも、この偈を誦するなり。

  仏言、剃頭して袈裟を著せば、諸仏に加護せらる。一人出家せば、天人に供養せらる。
  あきらかにしりぬ、剃頭著袈裟よりこのかた、一切諸仏に加護せられたてまつるなり。この諸仏の加護によりて、無上菩提の功徳圓満すべし。この人をば、天衆人衆ともに供養するなり。

  世尊、智光比丘に告げて言はく、法衣は十勝利を得。
一者、能く其の身を覆うて、羞耻を遠離し、慚愧を具足して、善法を修行す。
二者、寒熱及以び蚊蟲悪獣毒蟲を遠離して、安穩に修道す。
三者、沙門出家の相貌を示現し、見る者歓喜して、邪心を遠離す。
四者、袈裟は即ち是れ人天の宝幢の相なり、尊重し敬礼すれば、梵天に生ずることを得。
五者、著袈裟の時、宝幢の想を生ぜば、能く衆罪を滅し、諸の福徳を生ず。
六者、本制の袈裟は、染めて壞色ならしむ、五欲の想を離れ、貪愛を生ぜず。
七者、袈裟は是れ仏の浄衣なり、永く煩悩を断じて、良田と作るが故に。
八者、身に袈裟を著せば、罪業消除し、十善業道、念念に増長す。
九者、袈裟は猶ほ良田の如し、能善く菩薩の道を増長するが故に。
十者、袈裟は猶ほ甲冑の如し、煩悩の毒箭、害すること能はざるが故に。

智光当に知るべし、是の因縁を以て、三世の諸仏、縁覚声聞、清浄の出家、身に袈裟を著して、三聖同じく解脱の宝牀に坐す。智慧の剣を執り、煩悩の魔を破り、共に一味の諸の涅槃界に入る。

爾時世尊、而説偈言(爾の時に世尊、而も偈を説いて言く)、
智光比丘応善聴 (智光比丘応に善く聴くべし)、
大福田衣十勝利 (大福田衣に十勝利あり)。
世間衣服増欲染 (世間の衣服は欲染を増す)、
如来法服不如是 (如来の法服は是の如くならず)。
法服能遮世羞耻 (法服は能く世の羞耻を遮り)、
慚愧圓満生福田 (慚愧圓満して福田を生ず)。
遠離寒熱及毒蟲 (寒熱及び毒蟲を遠離して)、
道心堅固得究竟 (道心堅固にして究竟を得)。
示現出家離貪欲 (出家を示現して貪欲を離れ)、
断除五見正修行 (五見を断除して正修行す)。
瞻礼袈裟宝幢相 (袈裟宝幢の相を瞻礼し)、
恭敬生於梵王福 (恭敬すれば梵王の福を生ず)。
仏子披衣生塔想 (仏子披衣しては塔想を生ずべし)、
生福滅罪感人天 (福を生じ罪を滅し人天を感ず)。
肅容致敬真沙門 (肅容致敬すれば真の沙門なり)、
所為諸不染塵俗 (所為諸の塵俗に不染なり)。
諸仏称讃為良田 (諸仏称讃して良田と為したまふ)、
利楽郡生此為最 (郡生を利楽するには此れを最れたりと為す)。

袈裟神力不思議 (袈裟の神力不思議なり)、
能令修植菩提行 (能く菩提の行を修植せしむ)。
道芽増長如春苗 (道の芽の増長することは春の苗の如く)、
菩提妙果類秋実 (菩提の妙果は秋の実に類たり)。
堅固金剛真甲冑 (堅固金剛の真甲冑なり)、
煩悩毒箭不能害 (煩悩の毒箭も害すること能はず)。
我今略讃十勝利 (我今略して十勝利を讃む)、
歴劫広説無有辺 (歴劫に広説すとも辺あること無けん)。
若有龍身披一縷 (若し龍有りて身に一縷を披せば)、
得脱金翅鳥王食 (金翅鳥王の食を脱るることを得ん)。
若人渡海持此衣 (若し人海を渡らんに、此の衣を持せば)、
不怖龍魚諸鬼難 (龍魚諸鬼の難を怖れじ)。
雷電霹靂天之怒 (雷電霹靂して天の怒りあらんにも)、
披袈裟者無恐畏 (袈裟を披たる者は恐畏無けん)。
白衣若能親捧持 (白衣若し能く親しく捧持せば)、
一切悪鬼無能近 (一切の悪鬼能く近づくこと無けん)。
若能発心求出家 (若し能く発心して出家を求め)、
厭離世間修仏道 (世間を厭離して仏道を修せば)、
十方魔宮皆振動 (十方の魔宮皆な振動し)、
是人速証法王身 (是の人速やかに法王の身を証せん)。

  この十勝利、ひろく仏道のもろもろの功徳を具足せり。長行偈頌にあらゆる功徳、あきらかに参学すべし。披閲してすみやかにさしおくことなかれ。句句にむかひて久参すべし。この勝利は、ただ袈裟の功徳なり、行者の猛利恆修のちからにあらず。
  仏言、袈裟神力不思議。
  いたづらに凡夫賢聖のはかりしるところにあらず。
  おほよそ速証法王身のとき、かならず袈裟を著せり。袈裟を著せざるものの法王身を証せること、むかしよりいまだあらざるところなり。その最第一清浄の衣財は、これ糞掃衣なり。その功徳、あまねく大乗小乗の経律論のなかにあきらかなり。広学諮問すべし。その余の衣財、またかねあきらむべし。仏仏祖祖、かならずあきらめ、正伝しましますところなり、余類のおよぶべきにあらず。
中阿含経曰、
  復た次に諸賢、或し一人有りて、身浄行、口意不浄行ならんに、若し慧者見て、説し恚悩を生ぜば、応当に之を除すべし。 諸賢、或し一人有りて、身不浄行、口浄行ならんに、若し慧者見て、説し恚悩を生ぜば、当に云何が除くべき。 諸賢、猶ほ阿練若比丘の如き、糞掃衣を持ち、糞掃の中の所棄の弊衣の、或いは大便に汚れ、或いは小便洟唾、及び余の不浄に染汚せられたるを見んに、見已りて、左の手に之を執り、右の手に舒べ張りて、若し大便小便洟唾、及び余の不浄に汚さるる処に非ず、又穿げざる者をば、便ち裂きて之を取る。是の如く諸賢、或し一人有りて、身不浄行、口浄行ならんに、彼の身の不浄行を念ふこと莫れ。但だ当に彼の口の浄行を念ふべし。若し慧者見て、設し恚悩を生ぜば、応に是のの如く除くべし。
  これ阿練若比丘の、拾糞掃衣の法なり。四種の糞掃あり、十種の糞掃あり。その糞掃をひろふとき、まづ不穿のところをえらびとる。つぎには大便小便、ひさしくそみて、ふかくして浣洗すべからざらん、またとるべからず。浣洗しつべからん、これをとるべきなり。
  十種糞掃
  一、牛嚼衣。 二、鼠噛衣。 三、火焼衣。 四、月水衣。 五、産婦衣。 六、神廟衣。 七、塚間衣。 八、求願衣。 九、王職衣。 十、往還衣。
  この十種、ひとのすつるところなり、人間のもちゐるところにあらず。これをひろうて袈裟の浄財とせり。三世諸仏の讃歎しましますところ、もちゐきたりましますところなり。
  しかあればすなはち、この糞掃衣は、人天龍等のおもくし擁護するところなり。これをひろうて袈裟をつくるべし。これ最第一の浄財なり、最第一の清浄なり。いま日本国、かくのごとく糞掃衣なし、たとひもとめんとすともあふべからず、辺地小国かなしむべし。ただ檀那所施の浄財、これをもちゐるべし。人天の布施するところの浄財、これをもちゐるべし。あるいは浄命よりうるところのものをもて、いちにして貿易せらん、またこれ袈裟につくりつべし。かくのごときの糞掃、および浄命よりえたるところは、絹にあらず、布にあらず。金銀珠玉、綾羅錦繍等にあらず、ただこれ糞掃衣なり。この糞掃は、弊衣のためにあらず、美服のためにあらず、ただこれ仏法のためなり。これを用著する、すなはち三世の諸仏の皮肉骨髄を正伝せるなり、正法眼蔵を正伝せるなり。この功徳さらに、人天に問著すべからず、仏祖に参学すべし。

正法眼蔵 袈裟功徳

  予在宋のそのかみ、長連牀に功夫せしとき、齊肩の隣単をみるに、開静のときごとに、袈裟をささげて頂上に安じ、合掌恭敬し、一偈を黙誦す。その偈にいはく、 大哉解脱服 無相福田衣 披奉如来教 広度諸衆生。 ときに予、未曽見のおもひを生じ、歓喜身にあまり、感涙ひそかにおちて衣襟をひたす。その旨趣は、そのかみ阿含経を披閲せしとき、頂戴袈裟の文をみるといへども、その儀則いまだあきらめず。いままのあたりにみる、歓喜随喜し、ひそかにおもはく、あはれむべし、郷土にありしとき、をしふる師匠なし、すすむる善友あらず。いくばくかいたづらにすぐる光陰ををしまざる、かなしまざらめやは。いまの見聞するところ、宿善よろこぶべし。もしいたづらに郷間にあらば、いかでかまさしく仏衣を相承著用せる僧宝に隣肩することをえん。悲喜ひとかたならず、感涙千万行。 ときにひそかに発願す、いかにしてかわれ不肖なりといふとも、仏法の嫡嗣となり、正法を正伝して、郷土の衆生をあはれむに、仏祖正伝の衣法を見聞せしめん。かのときの発願いまむなしからず、袈裟を受持せる在家出家の菩薩おほし、歓喜するところなり。受持袈裟のともがら、かならず日夜に頂戴すべし、殊勝最勝の功徳なるべし。一句一偈を見聞は、若樹若石の見聞、あまねく九道にかぎらざるべし。袈裟正伝の功徳、わづかに一日一夜なりとも、最勝最上なるべし。
  大宋嘉定十七年癸未十月中に、高麗僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。この二人、しきりに仏経の義を談ずといへども、さらに文学士なり。しかあれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人のごとし。あはれむべし、比丘形なりといへども比丘法なし、小国辺地のしかあらしむるならん。日本国の比丘形のともがら、他国にゆかんとき、またかの智玄等にひとしからん。
  釈迦牟尼仏、十二年中頂戴してさしおきましまさざりき。すでに遠孫なり、これを学すべし。いたづらに名利のために天を拝し神を拝し、王を拝し臣を拝する頂門をめぐらして、仏衣頂戴に廻向せん、よろこぶべきなり。

ときに仁治元年庚子開冬日 在観音導利興聖宝林寺 示衆
建長乙卯夏安居日 令義演書記書寫畢
同七月初五日一校了 以御草案為本
建治元年丙子五月廿五日書寫了
正 法 眼 蔵    受 戒じゅかい  
受戒
  禅苑清規云、三世諸仏、皆曰出家成道。西天二十八祖、唐土六祖、伝仏心印、尽是沙門。蓋以厳浄毘尼、方能洪範三界。然則参禅問道、戒律為先。既非離過防非、何以成仏作祖(禅苑清規に云く、三世諸仏、皆な出家成道と曰ふ。西天二十八祖、唐土六祖、仏心印を伝ふる、尽く是れ沙門なり。蓋し以て毘尼を厳浄して方に能く三界に洪範たり。然あれば則ち参禅問道は戒律為先なり。既に過を離れ非を防ぐに非ずは、何を以てか成仏作祖せん)。
  受戒之法、応備三衣鉢具并新浄衣物。如無新衣、浣洗令浄。入壇受戒、不得借賃衣鉢。一心専注、慎勿異縁。像仏形儀、具仏戒律、得仏受用、此非小事。豈可軽心。若借賃衣鉢、雖登壇受戒、竝不得戒。若不曽受、一生為無戒之人。濫廁空門、虚消信施。初心入道、法律未諳、師匠不言、陷人於此。今茲苦口、敢望銘心(受戒の法は、応に三衣鉢具并びに新浄の衣物を備ふべし。新衣無きが如きは、浣洗して浄からしむべし。入壇受戒には、衣鉢を借賃すること得ざれ。一心専注して、慎んで異縁あること勿れ。仏の形儀に像り、仏の戒律を具す、仏受用を得る、此れ小事に非ず。豈に軽心なるべけんや。若し衣鉢を借賃せば、登壇受戒すと雖も、竝びに得戒せず。若し曽受せずは、一生無戒の人為らん。濫りに空門に廁り、虚しく信施を消せん。初心の入道は、法律未だ諳んぜず、師匠言はずは、人を此に陷れん。今茲に苦口す、敢て望すらくは心に銘ずべし)。
  既受声聞戒、応受菩薩戒。此入法之漸也(既に声聞戒を受くれば、応に菩薩戒を受くべし。此れ入法の漸なり)。
  西天東地、仏祖相伝しきたれるところ、かならず入法の最初に受戒あり。戒をうけざればいまだ諸仏の弟子にあらず、祖師の兒孫にあらざるなり。離過防非を参禅問道とせるがゆゑなり。戒律為先の言、すでにまさしく正法眼蔵なり。成仏作祖、かならず正法眼蔵を伝持するによりて、正法眼蔵を正伝する祖師、かならず仏戒を受持するなり、仏戒を受持せざる仏祖あるべからざるなり。あるいは如来にしたがひたてまつりてこれを受持し、あるいは仏弟子にしたがひてこれを受持す、みなこれ命脈稟受するところなり。
  いま仏仏祖祖正伝するところの仏戒、ただ嵩嶽曩祖まさしく伝来し、震旦五伝して曹谿高祖にいたれり。政玄青原、南嶽等の正伝、いまにつたはれりといへども、杜撰の長老等かつてしらざるもあり、もともあはれむべし。
  いはゆる応受菩薩戒、此入法之漸也、これすなはち参学のしるべきところなり。その応受菩薩戒の儀、ひさしく仏祖の堂奥に参学するもの、かならず正伝す。疎怠のともがらのうるところにあらず。

  その儀は、かならず祖師を焼香礼拝し、応受菩薩戒を求請するなり。すでに聴許せられて、沐浴清浄にして新浄の衣服を著し、あるいは衣服を浣洗して、花を散じ、香をたき、礼拝恭敬してその身に著す。あまねく形像を礼拝し、三宝を礼拝し、尊宿を礼拝し、諸障を除去し、身心清浄なることをうべし。その儀ひさしく仏祖の堂奥に正伝せり。
  そののち、道場にして和尚、阿闍梨、まさに受者ををしへて礼拝し、長跪せしめて合掌し、この語をなさしむ。
  帰依仏、帰依法、帰依僧。
  帰依仏陀両足中尊、帰依達磨離欲中尊、帰依僧伽衆中尊。
  帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。
  如来至真無上正等覚是我大師。我今帰依、従今已後、更不帰依余道。慈愍故。[三説。第三疊慈愍故三遍](如来至真無上正等覚は是れ我が大師なり。我れ今帰依したてまつる、今より已後、更に余道に帰依せじ。慈愍したまふが故に。[三説。第三には慈愍故三遍を疊す])

  善男子、既捨邪帰正、戒已周圓。応受三聚清浄戒(善男子、既に邪を捨し正に帰して、戒已に周圓せり。応に三聚清浄戒を受くべし)。
  第一、攝律儀戒。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第二、攝善法戒。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第三、饒益衆生戒。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  上来三聚清浄戒、一一不得犯。汝従今身至仏身、能持否(上来三聚の清浄戒、一一犯すること得ざれ。汝、今身より仏身に至るまで、能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  是事如是持(是の事、是の如く持すべし)。
  受者礼三拝、長跪合掌。
  善男子、汝既受三聚清浄戒、応受十戒。是乃諸仏菩薩清浄大戒也(善男子、汝、既に三聚清浄戒を受けたり、応に十戒を受くべし。是れ乃ち諸仏菩薩清浄大戒也)。
  第一、不殺生。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第二、不偸盗。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第三、不貪婬。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第四、不妄語。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第五、不牯酒。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第六、不説在家出家菩薩罪過。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第七、不自讃毀他。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第八、不慳法財。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第九、不瞋恚。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  第十、不癡謗三宝。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  上来十戒、一一不得犯。汝従今身至仏身、能持否(上来の十戒、一一犯すること得ざれ。汝、今身より仏身に至るまで、能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  是事如是持(是の事、是の如く持すべし)。
  受者礼三拝。

  上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、是諸仏之所受持。汝従今身至仏身、此十六支戒、能持否(上来の三帰、三聚浄戒、十重禁戒は、是れ諸仏の受持したまふ所なり。汝、今身より仏身に至るまで、此の十六支戒、能く持つや否や)。
  答云、能持。[三問三答]
  是事如是持(是の事、是の如く持すべし)。
  受者礼三拝。
  次作処世界梵訖云(次に処世界梵を作し訖つて云く)、
  帰依仏、帰依法、帰依僧。
  次受者出道場(次に受者、道場を出づ)。

  この受戒の儀、かならず仏祖正伝せり。丹霞天然、薬山高沙彌等、おなじく受持しきたれり。比丘戒をうけざる祖師、かくのごとくあれども、この仏祖正伝菩薩戒うけざる祖師、いまだあらず。必ず受持するなり。

正法眼蔵 受戒
正 法 眼 蔵    出家功徳(しゅっけくどく  
出家功徳

  龍樹菩薩言、
  問うて曰く、居家戒の若きは、天上に生ずることを得、菩薩の道を得、亦た涅槃を得。復た何ぞ出家戒を用ゐんや。
  答へて曰く、倶に得度すと雖も、然も難易有り。居家は生業、種種の事務あり。若し道法に專心せんと欲へば、家業則ち廃す、若し家業を專修すれば道事則ち廃す。取せず捨せずして能く応に法を行ずべし、是れを名づけて難と為す。若し出家なれば、俗を離れて諸の忿乱を絶し、一向專心に行道するを易と為す。
  復た次に居家は、憒鬧にして多事多務なり。結使の根、衆罪の府なり、是れを甚難と為す。出家の若きは、譬へば、人有りて、出でて空野無人の処に在りて、其の心を一にして、心無く慮無きが若し。内想既に除こほり、外事亦た去りぬ。偈に説くが如し。
  閑坐林樹間、寂然滅衆悪 (林樹の間に閑坐すれば、寂然として衆悪を滅す)、
  恬澹得一心、斯楽非天楽 (恬澹として一心を得たり、斯の楽は天の楽に非ず)。
  人求富貴利、名衣好牀褥 (人は富貴の利、名衣、好牀褥を求む)、
  斯楽非安穩、求利無厭足 (斯の楽は安穩に非ず、利を求むれば厭足無し)。
  衲衣行乞食、動止心常一 (衲衣にして乞食を行ずれば、動止、心、常に一なり)、
  自以智慧眼、観知諸法実 (自ら智慧の眼を以て、諸法の実を観知す)。
  種種法門中、皆以等観入 (種種の法門の中に、皆な以て等しく観入す)、
  解慧心寂然、三界無能及 (解慧の心寂然として、三界に能く及ぶもの無し)。
  是れを以ての故に知りぬ、出家して戒を修し行道するを、甚易なりと為す。

  復た次に出家して戒を修すれば、無量の善律儀を得、一切具足して満ず。是れを以ての故に、白衣等応当に出家して具足戒を受くべし。
  復た次に仏法の中には、出家の法第一に修し難し。
  閻浮呿提梵志の舍利弗に問ひしが如き、仏法の中に、何者か最も難き。
  出家を難しと為す。
  又問、出家には何等の難きことか有る。
  答曰、出家は内楽を難しと為す。
  既に内楽を得ぬれば、復た次に何者をか難しと為す。
  諸の善法を修すること難し。
  是れを以ての故に、応に出家すべし。
  復た次に若し人出家せん時、魔王驚愁して言く、此の人は諸の結使薄らぎなんず、必ず涅槃を得て、僧宝の数中に墮すべし。

  復た次に仏法の中の出家人は、破戒して墮罪すと雖も、罪畢りぬれば解脱を得ること、優鉢羅華比丘尼本生経の中に説くが如し。
  仏在世の時、此の比丘尼、六神通阿羅漢を得たり。貴人の舍に入りて、常に出家の法を讃めて、諸の貴人婦女に語りて言く、姉妹、出家すべし。
  諸の貴婦女言く、我等少壯して、容色盛美なり、持戒を難しと為す、或いは当に破戒すべし。
  比丘尼言、戒を破らば便ち破すべし、但だ出家すべし。
  問言、戒を破らば当に地獄に墮すべし、云何が破すべき。
  答言、地獄に墮さば便ち墮すべし。
  諸貴婦女、之を笑つて言く、地獄にては罪を受く、云何が墮すべき。
  比丘尼言く、我れ自ら本宿命の時を憶念するに、戯女と作り、種種の衣服を著して舊語を説きき。或る時比丘尼衣を著して、以て戯笑を為しき。是の因縁を以ての故に、迦葉仏の時、比丘尼と作りぬ。自ら貴姓端正なるを恃んで、心に憍慢を生じ、而も禁戒を破りつ。禁戒を破りし罪の故に、地獄に墮して種種の罪を受けき。受け畢竟りて実迦牟尼仏に値ひたてまつりて出家し、六神通阿羅漢道を得たり。
  是れを以ての故に知りぬ、出家受戒せば、復た破戒すと雖も、戒の因縁を以ての故に、阿羅漢道を得。若し但だ悪を作して戒の因縁無からんには、道を得ざるなり。我れ乃ち昔時、世世に地獄に墮し、地獄より出でては悪人為り。悪人死して還た地獄に入りて、都て所得無かりき。今此れを以て証知す、出家受戒せば、復た破戒すと雖も、是の因縁を以て、道果を得べしといふことを。

  復た次に仏、祇桓に在ししが如き、一りの酔婆羅門有りき。仏の所に来到りて比丘と作らんことを求む。仏、阿難に敕して、剃頭を与へ法衣を著せしむ。酔酒既に醒めて、己が身の忽ちに比丘と為れるを驚怪し、即便ち走り去りぬ。
諸比丘、仏に問ふ、何を以てか此の婆羅門を聴して比丘と作したまひしや。
  仏言はく、此の婆羅門は、無量劫の中にも、初めより出家の心無し、今酔に因るが故に、暫く微心を発せり。此の因縁を以ての故に、後に当に出家得道すべし。
  是の如くの種種の因縁ありて、出家の功徳無量なり。是れを以て白衣に五戒有りと雖も、出家には如かず。

  世尊すでに酔婆羅門に出家受戒を聴許し、得道最初の下種とせしめまします。あきらかにしりぬ、むかしよりいまだ出家の功徳なからん衆生、ながく仏果菩提うべからず。この婆羅門、わづかに酔酒のゆゑに、しばらく微心をおこして剃頭受戒し、比丘となれり。酒酔さめざるあひだ、いくばくにあらざれども、この功徳を保護して、得道の善根を増長すべきむね、これ世尊誠諦の金言なり、如来出世の本懐なり。一切衆生あきらかに已今当の中に信受奉行したてまつるべし。まことにその発心得道、さだめて刹那よりするものなり。この婆羅門しばらくの出家の功徳、なほかくのごとし。いかにいはんやいま人間一生の寿者命者をめぐらして出家受戒せん功徳、さらに酔婆羅門よりも劣ならめやは。
  転輪聖王は八万歳以上のときにいでて四州を統領せり、七宝具足せり。そのとき、この四州みな浄土のごとし。輪王の快楽、ことばのつくすべきにあらず。あるいは三千界統領するもありといふ、金銀銅鉄輪の別ありて、一二三四州の統領あり。かならず身に十悪なし。この転輪聖王、かくのごときの快楽にゆたかなれども、かうべにひとすぢの白髪おひぬれば、くらゐを太子にゆづりて、わがみ、すみやかに出家し、袈裟を著して山林にいり、修練し、命終すればかならず梵天にむまる。このみづからがかうべの白髪を銀凾にいれて、王宮にをさめたり。のちの輪王に相伝す。のちの輪王、また白髪おひぬれば先王に一如なり。転輪聖王の出家ののち、余命のひさしきこと、いまの人にたくらぶべからず。すでに輪王八万上といふ、その身に三十二相を具せり、いまの人およぶべからず。しかあれども、白髪をみて無常をさとり、白業を修して功徳を成就せんがために、かならず出家修道するなり。いまの諸王、転輪聖王におよぶべからず。いたづらに光陰を貪欲の中にすごして出家せざるは、来世くやしからん。いはんや小国辺地は、王者の名あれども王者の徳なし、貪じてとどまるべからず。出家修道せば、諸天よろこびまぼるべし、龍神うやまひ保護すべし。諸仏の仏眼あきらかに証明し、随喜しましまさん。
  戯女のむかしは信心にあらず、戯笑のために比丘尼の衣を著せり。おそらくは軽法の罪あるべしといへども、この衣をそのみに著せしちから、二世に仏法にあふ。比丘尼衣とは袈裟なり。戯笑著袈裟のちからによりて、第二生迦葉仏のときにあふたてまつる。出家受戒し、比丘尼となれり。破戒によりて墮獄受罪すといへども、功徳くちずしてつひに実迦牟尼仏にあひたてまつり、見仏聞法、発心修習して、ながく三界をはなれて大阿羅漢となれり、六通三明を具足せり、かならず無上道なるべし。
  しかあればすなはち、はじめより一向無上菩提のために、清浄の信心をこらして袈裟を信受せん。その功徳の増長、かの戯女の功徳よりもすみやかならん。いはんやまた、無上菩提のために菩提心をおこし出家受戒せん、その功徳無量なるべし。人身にあらざればこの功徳を成就することまれなり、西天東土、出家在家の菩薩、祖師おほしといふとも、龍樹祖師におよばず。酔婆羅門、戯女等の因縁、もはら龍樹祖師これを挙して衆生の出家受戒をすすむ、龍樹祖師すなはち世尊金口の所記なり。

  世尊言、南州に四種の最勝有り。一に見仏、二に聞法、三に出家、四に得道。
  あきらかにしるべし、この四種最勝、すなはち北州にもすぐれ、諸天にもすぐれたり。いまわれら宿善根力にひかれて最勝の身をえたり、歓喜随喜して出家受戒すべきものなり。最勝の善身をいたづらにして、露命を無常の風にまかすることなかれ。出家の生生をかさねば、積功累徳ならん。

  世尊言はく、仏法の中に於て、出家の果報不可思議なり。假使人有りて七宝の塔を起てて、高さ三十三天に至るも、得る所の功徳、出家には如かず。何を以ての故に。七宝の塔は貪悪の愚人能く破壊するが故に。出家の功徳は壊毀すること有ること無し。是の故に若しは男女を教へ、若しは奴婢を放し、若しは人民を聴し、若しは自己の身をもて、出家し入道せば、功徳無量なり。
  世尊あきらかに功徳の量をしろしめて、かくのごとく校量しまします。福増これをききて、一百二十歳の耄及なれども、しひて出家受戒し、少年の席末につらなりて修練し、大阿羅漢となれり。
  しるべし、今生の人身は、四大五蘊、因縁和合してかりになせり、八苦つねにあり。いはんや刹那刹那に生滅してさらにとどまらず、いはんや一弾指のあひだに六十五の刹那生滅すといへども、みづからくらきによりて、いまだしらざるなり。すべて一日夜があひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて五蘊生滅すといへども、しらざるなり。あはれむべし、われ生滅すといへども、みづからしらざること。この刹那生滅の量、ただ仏世尊ならびに舍利弗とのみしらせたまふ。余聖おほかれども、ひとりもしるところにあらざるなり。この刹那生滅の道理によりて、衆生すなはち善悪の業をつくる、また刹那生滅の道理によりて、衆生発心得道す。
  かくのごとく生滅する人身なり、たとひをしむともとどまらじ。むかしよりをしんでとどまれる一人いまだなし。かくのごとくわれにあらざる人身なりといへども、めぐらして出家受戒するがごときは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提、金剛不壊の仏果を証するなり。たれの智人か欣求せざらん。これによりて、過去日月灯明仏の八子、みな四天下を領する王位をすてて出家す。大通智勝仏の十六子、ともに出家せり。大通入定のあひだ、衆のために法華をとく、いまは十方の如来となれり。父王転輪聖王の所将衆中八万億人も、十六王子の出家をみて出家をもとむ、輪王すなはち聴許す。妙荘厳の二子ならびに父王、夫人、みな出家せり。
  しるべし、大聖出現のとき、かならず出家するを正法とせりといふこと、あきらけし。このともがら、おろかにして出家せりといふべからず、賢にして出家せりとしらば、ひとしからんことをおもふべし。今実迦牟尼仏のときは、羅睺羅、阿難等みな出家し、また千実の出家あり、二万実の出家あり、勝躅といふべし。はじめ五比丘出家より、をはり須跋陀羅が出家にいたるまで、帰仏のともがらすなはち出家す。しるべし、無量の功徳なりといふこと。
  しかあればすなはち、世人もし子孫をあはれむことあらば、いそぎ出家せしむべし。父母をあはれむことあらば、出家をすすむべし。かるがゆゑに偈にいはく、 若し過去世無からんには応に過去仏無かるべし。 若し過去仏無からんには、 出家受具無けん。
  この偈は、諸仏如来の偈なり、外道の過去世なしといふを破するなり。しかあればしるべし、出家受具は過去諸仏の法なり。われらさいはひに諸仏の妙法なる出家受戒するときにあひながら、むなしく出家受戒せざらん、何のさはりによるとしりがたし。最下品の依身をもて、最上品の功徳を成就せん、閻浮提および三界の中には最上品の功徳なるべし。この閻浮の人身いまだ滅せざらんとき、かならず出家受戒すべし。

  古聖云く、出家の人は、禁戒を破ると雖も、猶ほ在俗にして戒を受持せん者に勝る。故に経に偏に説かく、人を勧めて出家せしむる、其の恩報じ難し。
  復た次に、出家を勧むる者は、即ち是れ人を勧めて尊重業を修せしむ。所得の果報、琰魔王、輪王、帝実にも勝る。故に経に偏に説かく、人を勧めて出家せしむる、其の恩報じ難し。
  人を勧めて近事戒等を受持せしめんには、是の如くの事無し、故に経に証せず。
  しるべし、出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒をやぶらざるにはすぐれたり。帰仏かならず出家受戒すぐれたるべし。出家をすすむる果報、琰魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝実にもすぐれたり。たとひ毘舍、首陀羅なれども、出家すれば刹利にもすぐるべし。なほ琰魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝実にもすぐる。在家戒かくのごとくならず、ゆゑに出家すべし。
  しるべし、世尊の所説、はかるべからざるを。世尊および五百大阿羅漢、ひろくあつめたり。まことにしりぬ、仏法におきて道理あきらかなるべしといふこと。一聖、三明、六通の智慧、なほ近代の凡師のはかるべきにあらず、いはんや五百の聖者をや。近代の凡師らがしらざるところをしり、みざるところをみ、きはめざるところをきはめたりといへども、凡師らがしれるところ、しらざるにあらず。しかあれば、凡師の黒闇愚鈍の説をもて、聖者三明の言に比類することなかれ。

  婆沙一百二十云、発心出家するすら尚ほ聖者と名づく、況んや忍法を得んや。
  しるべし、発心出家すれば聖者となづくるなり。

  実迦牟尼仏五百大願のなかの第一百三十七願、我れ未来に正覚を成じ已らんに、或し諸人有りて、我が法中に於て出家せんと欲はん者、願、障礙無けん。所謂羸劣、失念、狂乱、憍慢にして、畏懼有ること無く、癡にして智惠無く、諸の結使多く、其の心散乱せらんにも、若し爾らざれば、正覚を成ぜじ。
  第一百三十八願に、我れ未来に正覚を成じ已らんに、或し女人有りて、我が法に於て出家学道し、大戒を受けんと欲はん者、願、成就せしめん。若し爾らざれば、正覚を成ぜじ。
  第三百十四願に、我れ未来に正覚を成じ已らんに、若し衆生有りて、善根に少け、善根の中に於て心、愛楽を生ぜん、我れ当に其をして未来世に、仏法の中に在りて出家学道せしむべし。安止して梵浄の十戒に住せしめん。若し爾らざれば、正覚を成ぜじ。
  しるべし、いま出家する善男子善女人、みな世尊の往昔の大願力にたすけられて、さはりなく出家受戒することをえたり。如来すでに誓願して出家せしめまします、あきらかにしりぬ、最尊最上の大功徳なりといふことを。

  仏言はく、及び我れに依りて鬚髪を剃除し、袈裟片を著して、受戒せざらん者有らん、是の人を供養するも、亦た乃至無畏城に入ることを得ん。是の縁を以ての故に、我れ是の如く説く。
  あきらかにしる、剃除鬚髪して袈裟を著せば、戒をうけずといふとも、これを供養せん人、無畏城にいらん。
  又云く、若し復た人有りて、我が為に出家して禁戒を得ざるも、鬚髪を剃除し、袈裟片を著せん、非法を以て此れを悩害する者有らば、乃至三世諸仏の法身報身を破壊するなり、乃至三悪道盈満するが故に。
  仏言はく、若し衆生有りて、我が為に出家し、鬚髪を剃除し、袈裟を被服せん、設ひ戒を持たざらんも、彼等悉く已に涅槃の印の為に印せらるる也。
  若し復た出家して、戒を持たざらん者、非法を以て悩乱、罵辱、毀呰を作し、手に刀杖を以て打縛斫截し、若しは衣鉢を奪ひ、及び種種の資生の具を奪ふ者有らん、是の人は則ち三世諸仏の真実の報身を壊するなり、則ち一切人天の眼目を挑るなり。是の人は諸仏所有の正法、三宝の種を隠没せんとするが為の故に。諸の天人をして利益を得ず、地獄に墮せしむるが故に。三悪道増長盈満するが為の故に。
  しるべし、剃髪染衣すれば、たとひ不持戒なれども、無上大涅槃の印のために印せらるるなり。ひとこれを悩乱すれば、三世諸仏の報身を壊するなり。逆罪とおなじかるべし。あきらかにしりぬ、出家の功徳、ただちに三世諸仏にちかしといふことを。

  仏言はく、夫れ出家は、応に悪を起すべからず。若し悪を起さば、則ち出家に非ず。出家の人は、身口相応すべし。若し相応せざれば、則ち出家に非ず。我れ父母、兄弟、妻子、眷属、知識を棄てて、出家修道す。正に是れ諸の善覚を修集すべき時なり、是れ不善覚を修集すべき時に非ず。善覚とは、一切衆生を憐愍すること、猶ほ赤子の如し。不善覚とは、此と相違す。
  それ出家の自性は、憐愍一切衆生、猶如赤子なり。これすなはち不起悪なり、身口相応なり。その儀すでに出家なるがごときは、その徳いまかくのごとし。

  仏言はく、復た次に舍利弗、菩薩摩訶薩、若し出家の日に、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日に転法輪し、転法輪の時、無量阿僧祇の衆生、遠塵離垢し、諸法の中に於て、法眼浄を得、無量阿僧祇の衆生、一切法不受を得るが故に、諸漏の心、解脱を得、無量阿僧祇の衆生、阿耨多羅三藐三菩提に於て、不退転を得んと欲はば、当に般若波羅蜜を学すべし。
  いはゆる学般若菩薩とは祖祖なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成熟するなり。しかあれども、三阿僧祇劫に修証し、無量阿僧祇に修証するに、有辺無辺に染汚するにあらず。学人しるべし。

  仏言はく、若し菩薩摩訶薩、是の思惟を作さく、我れ何れの時に於てか、当に国位を捨て、出家の日、即ち無上正等菩提を成じ、還た是の日に於て妙法輪を転じ、即ち無量無数の有情をして遠塵離垢し、浄法眼を生ぜしむべき。復た無量無数の有情をして永く諸漏を尽くし、心慧解脱せしめん。亦た無量無数の有情をして、皆な無上正等菩提に於て不退転を得せしめん。是の菩薩摩訶薩、斯の事を成らんと欲はば、応に般若波羅蜜を学すべし。
  これすなはち最後身の菩薩として、王宮に降生し、捨国位、成正覚、転法輪、度衆生の功徳を宣説しましますなり。

  悉達太子、車匿が辺より、摩尼雑餝荘厳の七宝の把刀を索取し、自ら右の手を以て彼の刀を執り、鞘より拔き出し、即ち左の手を以て、紺青の優鉢羅色の螺髻の髪を攬捉て、右手に自ら利刀を持ちて割取し、右手を以て縕げて空中に擲置せり。時に天帝実、希有の心を以て大歓喜を生じ、太子の髻を捧げて地に墮せしめず、天の妙衣を以て承受接取つ。爾の時に諸天、彼の上天に勝れたる諸の供具を以て之を供養せり。

  これ実迦如来そのかみ太子のとき、夜半に踰城し、日たけてやまにいたりて、みづから頭髪を断じまします。ときに浄居天きたりて頭髪を剃除したてまつり、袈裟をさづけたてまつれり。これかならず如来出世の瑞相なり、諸仏世尊の常法なり。
  三世十方諸仏、みな一仏としても、在家成仏の諸仏ましまさず。過去有仏のゆゑに、出家受戒の功徳あり。衆生の得道、かならず出家受戒によるなり。おほよそ出家受戒の功徳、すなはち諸仏の常法なるがゆゑに、その功徳無量なり。聖教のなかに在家成仏の説あれど正伝にあらず、女身成仏の説あれどまたこれ正伝にあらず、仏祖正伝するは出家成仏なり。

  第四優婆毬多尊者、長者子有り、名を提多伽と曰ふ。来りて尊者を礼し、出家を志求せり。
  尊者曰、汝、身の出家なりや、心の出家なりや。
  答曰、我れ来りて出家する、身心の為にあらず。
  尊者曰、身心の為にあらずは、復た誰か出家する。
  答曰、夫れ出家は、我と我所と無きが故に、即ち心、生滅せず。心、生滅せざる故に、即ち是れ常道なり。諸仏も亦た常に心、形相無く、其の躰も亦た然り。
  尊者曰、汝当に大悟して心、自ら通達すべし。宜しく仏法僧に依りて聖種を紹輶すべし。
  即ち与に出家受具せしめたり。
  それ諸仏の法にあふたてまつりて出家するは、最第一の勝果報なり。その法すなはち我のためにあらず、我所のためにあらず。身心のためにあらず、身心の出家するにあらず。出家の我我所にあらざる道理かくのごとし。我我所にあらざれば諸仏の法なるべし。ただこれ諸仏の常法なり。諸仏の常法なるがゆゑに、我我所にあらず、身心にあらざるなり。三界のかたをひとしくするところにあらず。かくのごとくなるがゆゑに、出家これ最上の法なり。頓にあらず、漸にあらず。常にあらず、無常にあらず。来にあらず、去にあらず。住にあらず、作にあらず。広にあらず、狹にあらず。大にあらず、小にあらず、無作にあらず。仏法単伝の祖師、かならず出家受戒せずといふことなし。いまの提多伽、はじめて優婆毬多尊者にあふたてまつりて出家をもとむる道理かくのごとし。出家受具し、優婆毬多に参学し、つひに第五祖師となれり。

  第十七祖僧伽難提尊者は、室羅閥城宝荘厳王の子なり。生れて能く言ひ、常に仏事を讃む。七歳にして即ち世楽を厭ひ、偈を以て其の父母に告げて曰く、
  稽首す大慈父、 和南す骨血母。 我れ今出家せんと欲ふ、 幸願はくは哀愍したまふが故に。
  父母固く之れを止む。遂に終日食はず。乃ち其の家に在りて出家せんことを許す。僧伽難提と号け、復た沙門禅利多に命じて之が師たらしむ。十九載を積むに、未だ甞て退倦せず。尊者毎に自ら念言すらく、身、王宮に居す、胡んぞ出家たらん。
  一夕、天光下り属し、一路坦平なるを見る。覚えず徐ろに行くこと約十里許りにして、大岩の前に至るに石窟有り焉。乃ち中に燕寂せり。父、既に子を失ひ、即ち禅利多を擯し、国を出でて其の子を訪尋ねしむるも、所在を知らず。十年を経て、尊者、得法授記し已りて、行化して摩提国に至る。
  在家出家の称、このときはじめてきこゆ。ただし宿善のたすくるところ、天光のなかに坦路をえたり。つひに王宮をいでて石窟にいたる。まことに勝躅なり。世楽をいとひ俗塵をうれふるは聖者なり。五欲をしたひ出離をわするるは凡愚なり。代宗、肅宗、しきりに僧徒にちかづけりといへども、なほ王位をむさぼりていまだなげすてず。盧居士はすでに親を辭して祖となる、出家の功徳なり。龐居士はたからをすててちりをすてず、至愚なりといふべし。盧公の道力と龐公が稽古と、比類にたらず。あきらかなるはかならず出家す、くらきは家にをはる、黒業の因縁なり。

  南嶽懐譲禅師、一日自ら歎じて曰く、夫れ出家は、無生法の為にす、天上人間、勝る者有ること無し。
  いはく、無生法とは如来の正法なり、このゆゑに天上人間にすぐれたり。天上といふは、欲界に六天あり、色界に十八天あり、無色界に四種、ともに出家の道におよぶことなし。

  盤山宝積禅師曰く、禅徳、可中学道は、地の山を縕げて、山の孤峻を知らざるに似たり。石の玉を含んで、玉の瑕無きを知らざるが如し。若し是の如くならば、是れを出家と名づく。
  仏祖の正法かならずしも知不知にかかはれず、出家は仏祖の正法なるがゆゑに、その功徳あきらかなり。

  鎭州臨濟院義玄禅師曰く、夫れ出家は、須らく平常真正の見解を弁得し、弁仏弁魔、弁真弁偽、弁凡弁聖すべし。若し是の如く弁得せば、真の出家と名づく。若し魔仏弁ぜざれば、正に是れ一家を出でて一家に入るなり、喚んで造業の衆生と作す。未だ名づけて真正の出家と為すこと得ず。
  いはゆる平常真正見解といふは、深信因果、深信三宝等なり。弁仏といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり。真偽凡聖をあきらかに弁肯するなり。もし魔仏をあきらめざれば、学道を沮壊し、学道を退転するなり。魔事を覚知してその事にしたがはざれば、弁道不退なり。これを真正出家の法とす。いたづらに魔事を仏法とおもふものおほし、近世の非なり。学者、はやく魔をしり仏をあきらめ、修証すべし。

  如来般涅槃したまひし時、迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、如来は諸の根を知る力を具足したまふ、定んで善星当に善根を断ずべきを知りたまひしならん。何の因縁を以てか、其の出家を聴したまひしや。
  仏言はく、善男子、我れ往昔に於て、初めて出家せし時、吾が弟難陀、従弟阿難、調達多、子羅睺羅、是の如き等の輩、皆な悉く我に随つて出家修道せり。我れ若し善星が出家を聴さずは、其の人次に当に王として王位を紹ぐことを得て、其の力自在にして、当に仏法を壊るべし。是の因縁を以て、我れ便ち其の出家修道を聴しき。
  善男子、善星比丘若し出家せざるも、亦た善根を断じ、無量世に於て都て利益無けん。出家せしめ已りぬれば、善根を断ずと雖も、能く戒を受持し、耆舊、長宿、有徳の人を供養し恭敬し、初禅乃至四禅を修習す。是れを善因と名づく。是の如くの善因は、能く善法を生ず。善法既に生じぬれば、能く道を修習す。既に道を修習しぬれば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。是の故に我れ善星が出家を聴しき。善男子、若し我れ善星比丘が出家受戒を聴さずは、則ち我れを称して如来具足十力と為すこと得じ。
  善男子、仏、衆生を観じたまふに、善法と及び不善法とを具足す。是の人是の如くの二法を具すと雖も、久しからずして能く一切善根を断じて不善根を具せん。何を以ての故に、是の如くの衆生は、善友に親しまず、正法を聴かず、善思惟せず、如法に行せず。是の因縁を以て、能く善根を断じて不善根を具す。
  しるべし、如来世尊、あきらかに衆生の断善根となるべきをしらせたまふといへども、善因をさづくるとして出家をゆるさせたまふ、大慈大悲なり。断善根となること、善友にちかづかず、正法をきかず、善思惟せず、如法に行ぜざるによれり。いま学者、かならず善友に親近すべし、善友とは、諸仏ましますととくなり、罪福ありとをしふるなり。因果を撥無せざるを善友とし、善知識とす。この人の所説、これ正法なり。この道理を思惟する、善思惟なり。かくのごとく行ずる、如法行なるべし。
  しかあればすなはち、衆生は親疎をえらばず、ただ出家受戒をすすむべし。のちの退不退をかへりみざれ、修不修をおそるることなかれ。これまさに実尊の正法なるべし。

  仏、比丘に告げたまはく、当に知るべし、閻羅王便ち是の説を作さく、我れ当に何れの日にか此の苦難を脱し、人中に生じ、以て人身を得て、便ち出家し、剃除鬚髪し、三法衣を著して、出家学道することを得べきと。閻羅王すら尚ほ是の念を作す。何に況んや汝等、今、人身を得て沙門と作ることを得るをや。是の故に諸比丘、当に身口意の行を行じて缺有らしむること無けんと念ずべし。当に五結を滅し、五根を修行すべし。是の如く諸比丘、当に是の学を作すべし。
  爾の時に諸比丘、仏の所説を聞いて、歓喜奉行しき。
  あきらかにしりぬ、たとひ閻羅王なりといへども、人中の生をこひねがふことかくのごとし。すでにむまれたる人、いそぎ剃除鬚髪し、著三法衣して、学仏道すべし。これ余趣にすぐれたる人中の功徳なり。しかあるを、人間にむまれながら、いたづらに官途世路を貪求し、むなしく国王大臣のつかはしめとして、一生を夢幻にめぐらし、後世は黒闇におもむき、いまだたのむところなきは至愚なり。すでにうけがたき人身をうけたるのみにあらず、あひがたき仏法にあひたてまつれり。いそぎ諸縁を抛捨し、すみやかに出家学道すべし。国王、大臣、妻子、眷属は、ところごとにかならずあふ、仏法は優曇花のごとくにしてあひがたし。おほよそ無常たちまちにいたるときは、国王、大臣、親昵、従僕、妻子、珍宝たすくるなし、ただひとり黄泉におもむくのみなり。おのれにしたがひゆくは、ただこれ善悪業等のみなり。人身を失せんとき、人身ををしむこころふかかるべし。人身をたもてるとき、はやく出家すべし、まさにこれ三世の諸仏の正法なるべし。

  その出家行法に四種あり。いはゆる四依なり。
  一、尽形寿樹下坐。
  二、尽形寿著糞掃衣。
  三、尽形寿乞食。
  四、尽形寿有病服陳棄薬。
  共に此の法を行ぜば、方に出家と名づけ、方に名づけて僧と為す。若し此を行ぜずは、名づけて僧と為さず。是の故に出家行法と名づく。
  いま西天東地、仏祖正伝するところ、これ出家行法なり。一生不離叢林なればすなはちこの四依の行法そなはれり、これを行四衣と称ず。これに違して五依を建立せん、しるべし、邪法なり。たれか信受せん、たれか忍聴せん。仏祖正伝するところ、これ正法なり。これによりて出家する、人間最上最尊の慶幸なり。このゆゑに、西天竺国にすなはち難陀、阿難、調達、阿那律、摩訶男、拔提、ともにこれ師子頬王のむまご、刹利種姓のもとも尊貴なるなり、はやく出家せり。後代の勝躅なるべし。いま刹利にあらざらんともがら、そのみ、をしむべからず。王子にあらざらんともがら、なにのをしむところかあらん。閻浮提最第一の尊貴より、三界最第一の尊貴に帰するはすなはち出家なり。自余の諸小国王、諸離車衆、いたづらにをしむべからざるををしみ、ほこるべからざるにほこり、とどまるべからざるにとどまりて出家せざらん、たれかつたなしとせざらん、たれか至愚なりとせざらん。
  羅睺羅尊者は菩薩の子なり、浄飯王のむまごなり。帝位をゆづらんとす。しかあれども、世尊あながちに出家せしめまします。しるべし、出家の法最尊なりと。密行第一の弟子として、いまにいたりていまだ涅槃にいりましまさず、衆生の福田として世間に現住しまします。
  西天伝仏正法眼蔵の祖師のなかに、王子の出家せるしげし。いま震旦の初祖、これ香至王第三皇子なり。王位をおもくせず、正法を伝持せり。出家の最尊なる、あきらかにしりぬべし。これらにならぶるにおよばざる身をもちながら、出家しつべきにおきていそがざらん、いかならん明日をかまつべき。出息、入息をまたず。いそぎ出家せん、それかしこかるべし。またしるべし、出家受戒の師、その恩徳、すなはち父母にひとしかるべし。

  禅苑清規第一に云く、三世諸仏、皆な出家成道と曰ふ。西天二十八祖、唐土六祖、仏心印を伝ふる、尽く是れ沙門なり。蓋し以て毘尼を厳浄して、方に能く三界に洪範たり。然あれば則ち参禅問道は戒律為先なり。既に過を離れ非を防ぐに非ずは、何を以てか成仏作祖せん。
  たとひ澆風の叢林なりとも、なほこれ薝蔔の林なるべし。凡木凡草のおよぶところにあらず。また合水の乳のごとし。乳をもちゐんとき、この和水の乳をもちゐるべし、余物をもちゐるべからず。
  しかあればすなはち、三世諸仏、皆曰出家成道の正伝、もともこれ最尊なり。さらに出家せざる三世諸仏おはしまさず。これ仏仏祖祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心、無上菩提なり。

正法眼蔵 出家功徳

延慶三年八月六日書寫之
正法眼蔵Ⅱ 十二巻
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