「正法眼蔵・夢中夢巻」(夢と現実の逆転論)

「正法眼蔵・夢中夢巻」(夢と現実の逆転論)
正法眼蔵 夢中夢巻(擬作)

それ仏道をならう人、おおく夢と覚とを二とおもう。夢を虚とし、覚を実とす。しかあれども仏祖の大道は、夢覚の二を立てず。夢をもって夢を究むるとき、覚また夢中に現成するなり。

しかあれば知るべし、衆生のいわゆる覚は夢中の覚なり。夢中の覚をもって夢を破せんと欲するは、夢をもって夢を逐うに似たり。逐えども逐えども夢は夢を生ず。

たとえば人ありて夢中に山河を見、日月を見、父母兄弟を見、悲歓をなす。夢より覚むるとき、これを夢なりという。しかあれどもその夢中においては、夢なることを知らずして現実とおもう。

このゆえに古仏いわく、
「覚めて夢を知るも、また夢なり」

いかんとなれば、覚めたるとおもうその心、また一念の現成なり。一念現成するところ、夢と覚といまだ分かれず。

しかあれば、夢は虚にあらず。夢は夢の全機なり。夢の全機とは、法界の現成なり。

たとえば水に月の映ずるがごとし。水月は虚といえども、光あらわれざるにあらず。虚にして現、現にして虚なり。

ゆえに仏祖の見る夢は、衆生の夢にあらず。仏祖の夢とは、夢を夢として究尽する夢なり。

しかあれば、夢のなかに修行あり。夢のなかに仏あり。夢のなかに成道あり。

もし人ありて、
「これは夢なり、ゆえに修行なし」
といわば、夢を知らざるなり。

もしまた、
「これは現実なり、ゆえに夢にあらず」
といわば、覚を知らざるなり。

夢を夢として究むるとき、夢はただちに覚なり。覚を覚として執するとき、覚また夢となる。

このゆえに仏祖いわく、
「夢を離れて覚なし、覚を離れて夢なし」

しかあれば夢覚一如なり。

夢覚一如とは、夢を覚に帰せしむるにあらず、覚を夢に堕するにあらず。ただ夢覚の分別を脱落するなり。

この脱落を古仏は「大覚」という。

しかあれども大覚を求むる人、また夢中の人なり。求むる心すでに夢の影なり。

ゆえに知るべし、夢のなかにただ坐して夢を坐すべし。夢のなかにただ歩んで夢を歩むべし。

このとき夢は夢を離れずして夢を超ゆ。

たとえば蝶ありて夢をみる。人となる夢をみる。あるいは人ありて夢をみる。蝶となる夢をみる。

しかあれども蝶と人と、夢中夢にあらずや。

このゆえに古徳いわく、
「夢をもって夢を覚ます」

もし夢を離れて覚を求むれば、万劫夢中にさまよう。もし夢を究めて夢を尽くせば、夢すなわち正覚なり。

しかあれば知るべし、

夢に山河あり、
夢に仏祖あり、
夢に生死あり、
夢に涅槃あり。

しかあれども夢の外にこれらなし。

このゆえに仏祖の大道は、夢を破するにあらず、夢を正法眼蔵と見るなり。

夢を夢として見尽くすとき、
夢中夢すなわち仏祖の現成なり。
「正法眼蔵・夢中夢巻」(夢と現実の逆転論)
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