仏心の現成

仏心の現成
正法眼蔵 仏心現成巻(擬作・超高密度版)

それ仏祖の大道、仏心現成なり。仏心現成というは、衆生の心を磨きて仏の心に変成するにあらず、また仏の清浄心を内奥より顕出するにあらず。仏心そのまま現成し、現成そのまま仏心を行持するなり。ゆえに仏心を求めて心を離るることなかれ、心を守りて仏心を立つることなかれ。離守ともに仏心現成の辺事にあらず。

しかあるに、衆生おおく仏心を聞きて、清浄無垢の真心を想う。あるいは霊知炯然として万象を照らす主体を想う。これみな識神の変化なり。もし仏心を一主として立て、その光明を万法の照見とせば、仏心たちまち心識の影となる。もし仏心を空寂として一切作用を離れしめば、仏心たちまち断滅の虚寂となる。

仏祖の仏心は、主にあらず、客にあらず。
寂にあらず、動にあらず。
しかも主客寂動を離れずして主客寂動を脱落するなり。

古仏いわく、
心仏及衆生、是三無差別。

この道取、三者を同一の実体と会することなかれ。もし一物に融会すれば、衆生たちまち仏に呑却される。もし差別を立てれば、仏心たちまち遠離する。仏祖の道は、無差別をもって差別を滅せず、差別をもって無差別を破せず。差別そのまま無差別を現成し、無差別そのまま差別を透脱するなり。

いわゆる仏心とは、思量の心にあらず、不思量の境にもあらず。思量を棄てて仏心を求むることなかれ。不思量を執して仏心を立つることなかれ。思量そのもの仏心の思量を行持し、不思量そのもの仏心の不思量を現成するなり。

ゆえに古徳いわく、
即心是仏。

この道取、心をもって仏の本体とするにあらず。もし心そのもの仏なりと会すれば、衆生の妄念も仏と称するに至る。しかあれども妄念を逐い去りて清浄心を仏とすることもまた錯なり。仏祖の道は、妄念のただなかに仏心を見出すにあらず、妄念そのもの仏心の妄念を現成するなり。

ゆえに、

怒るも仏心なり。
笑うも仏心なり。
迷うも仏心なり。
悟るも仏心なり。

しかあれども怒を放逸に委ねて仏心と称することなかれ、迷を肯定して仏道と称することなかれ。怒迷ともに仏心の影を現すにすぎず、影を逐えば仏心を失う。影を棄てれば仏心また失う。影影ともに仏心の脚跟に使役せらるるなり。

いま坐禅するとき、この坐禅仏心現成なり。坐禅をもって仏心を発現する方便と会することなかれ。坐禅そのもの仏心の行履なり。行履というは仏心が坐禅を利用するにあらず、坐禅そのまま仏心を展転するなり。

古仏いわく、
平常心是道。

この平常心、平庸の心にあらず。平常とは、仏心が仏心を平常に行持するなり。朝に起き、衣を著し、粥を喫し、道を歩む。この平常の行履、すなわち仏心現成なり。

しかあれども平常を軽んじて仏心を奇特に求むることなかれ。奇特を求むる心、すでに仏心を失う。平常に住して平常を守ることなかれ。守れば平常また仏心を遮る。

ゆえにいうべし、

仏心は求むるにあらず、
仏心は捨つるにあらず。
仏心は現ずるにあらず、
仏心は隠るるにあらず。

現隠ともに仏心の遊戯なり。

もしさらに問う、仏心現成はいかなる時節にあるや。
いわく、時節を待つにあらず。
現成そのもの時節なり。

一念起こるところ仏心現成し、
一念滅するところ仏心現成する。

起滅ともに仏心を離れず。

ゆえに正当にいうべし、

仏心は心にあらず、
心は仏心にあらず、
しかも心仏ともに相離れずして相脱落す。
この正当恁麼時、
これを仏心現成という。

これを仏心現成巻という。
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