刹那の永遠

刹那の永遠
正法眼蔵 刹那永遠巻(擬作・超高密度版)

それ仏祖の大道、刹那の永遠なり。刹那の永遠というは、短き時を延ばして無量劫に等しめるにあらず、また永遠を縮めて一瞬に帰するにあらず。刹那そのまま永遠を行持し、永遠そのまま刹那を現成するなり。ゆえに刹那を離れて永遠なし、永遠を離れて刹那なし。離不離ともに刹那永遠の皮肉骨髄なり。

しかあるに、衆生おおく刹那を瞬息の短時とおもい、永遠を久遠の長時とおもう。これ情量の計較なり。もし刹那を極微の時点とすれば、刹那すでに分割をまぬかれず。もし永遠を無窮の持続とすれば、永遠すでに時間の奴隷となる。仏祖の刹那は点にあらず、仏祖の永遠は線にあらず。点線ともに刹那永遠の脚跟にすぎず。

古仏いわく、
一念万年。

この道取、念を長く引き延ばすにあらず。念そのもの万年を現成するなり。万年そのもの念を透脱するなり。透脱するがゆえに念は短にあらず、万年は長にあらず。長短ともに刹那永遠の影像なり。

いわゆる刹那とは、時間の最小単位にあらず。思量の一瞬にあらず。刹那とは時そのものの全機なり。ゆえに刹那の起こるところ、十方世界ともに起こる。刹那の滅するところ、十方世界ともに滅する。しかあれども起滅をもって刹那を測ることなかれ。起滅そのもの刹那永遠を現成するなり。

たとえば火花のごとし。火花一瞬にして滅すといえども、火花のただなかに無量の光を具す。もし火花を短時とおもえば光を失う。もし光を永遠とおもえば火花を失う。火花光ともに刹那永遠の譬喩なり。

古徳いわく、
念念是仏。

この念念、数をかぞうるにあらず。念そのもの仏を現成するなり。仏そのもの念を展転するなり。展転というは時の推移にあらず、現成の互参なり。

ゆえに刹那は永遠を含むにあらず、永遠は刹那に宿るにあらず。刹那そのもの永遠なり、永遠そのもの刹那なり。

いま坐禅するとき、この一坐刹那永遠なり。一呼吸の出入、無量劫を透脱する。しかあれども長短をもって測ることなかれ。長短ともに刹那永遠の脚跟なり。

もしさらに問う、刹那の永遠はいかなる相をもって知るべきや。いわく、相をもって知るときすでに刹那を失う。刹那を離れて永遠を求むることなかれ。永遠を離れて刹那を立つることなかれ。

ゆえにいうべし、

刹那は短にあらず、
永遠は長にあらず、
短長ともに刹那永遠の遊戯なり。

このゆえに正当にいうべし、

刹那は永遠にあらず、
永遠は刹那にあらず、
しかも刹那永遠ともに相離れずして相脱落す。
この正当恁麼時、
一念は万劫を呑却し、
万劫は一念を照破す。
山河大地・日月星辰、
ことごとく刹那永遠の現成なり。

これを刹那永遠巻という。
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