坐禅の深奥

坐禅の深奥
以下は、道元の原文ではなく、『正法眼蔵』の文体的運動・論理構造・逆説的展開・修証一等・身心脱落・現成公案の思想を極限まで濃縮して試みた創作である。

正法眼蔵 坐禅深奥(試擬・正法眼蔵調・超高密度)

いはゆる坐禅深奥とは、坐禅の奥に深奥あるにあらず。

坐禅を究盡して深奥に到るにあらず。

深奥すなはち坐禅なり。

坐禅すなはち深奥なり。

しかあれども、深奥と聞きて幽玄を求むることなかれ。

幽玄を得んとする心、すでに坐禅の皮肉を隔つること萬里なり。

しるべし。

佛祖の坐禅は坐禅を目的とせず。

悟りを目的とせず。

成佛を目的とせず。

無心を目的とせず。

目的なきがゆゑに全目的なり。

無所得なるがゆゑに盡所得なり。

ゆゑに古佛いはく、

修證は一等なり。

この一等、同一にあらず。

差別にあらず。

修行のなかに悟りあるにあらず。

悟りのなかに修行あるにあらず。

修行すなはち悟りの全身なり。

悟りすなはち修行の全機なり。

もし修を因として證を果とすれば、

その修いまだ佛祖の修にあらず。

その證いまだ佛祖の證にあらず。

いま端坐するとき、

誰か坐する。

身坐するにあらず。

心坐するにあらず。

佛坐するにあらず。

衆生坐するにあらず。

しかも十方同時に端坐す。

これ坐禅の第一義なり。

人おほく思ふ。

坐禅は静寂なりと。

しるべし。

静寂を坐するにあらず。

騒動を離るるにあらず。

静寂を得れば静寂に縛せらる。

無念を得れば無念に閉づ。

佛祖の坐禅、

念起これば念を逐はず。

念滅すれば念を留めず。

念念脱落。

脱落また脱落す。

ここに身心脱落あり。

しかあれども身心を脱落するにあらず。

身心みづから脱落を脱落するなり。

ゆゑに脱落を知るもの無し。

知るものあれば、知るものまた身心なり。

いはゆる身心脱落とは、

身心を空ずるにあらず。

身心を滅するにあらず。

身心そのものの本來面目なり。

ゆゑに山河大地、

みな坐禅するなり。

松風の吹く、

坐禅なり。

渓聲の響く、

坐禅なり。

猿啼き鶴唳く、

坐禅なり。

石牛の走る、

坐禅なり。

木馬の嘶く、

坐禅なり。

しかも一法として坐禅を知らず。

知らざるゆゑに全坐禅なり。

またいはく。

坐禅に時間ありや。

しるべし。

一炷香の坐、

無量劫を呑む。

無量劫の坐、

一炷香を出でず。

長短なし。

前後なし。

始終なし。

しかも始終を盡くす。

これ有時の骨髄なり。

坐禅するとき、

時間坐禅す。

空間坐禅す。

山坐禅す。

海坐禅す。

佛坐禅す。

衆生坐禅す。

しかあれども、

坐禅するもの無し。

これを全機現成と稱す。

さらにいはく。

坐禅は功夫なるや。

しるべし。

功夫といへば功夫にあらず。

無功夫といへば無功夫にあらず。

功夫を離れずして功夫を超ゆ。

努力を離れずして努力を超ゆ。

これ佛祖の行持なり。

ゆゑに行持は盡未來際なり。

成佛して止まず。

證悟して終わらず。

佛祖の坐禅、

到達なし。

到達なきゆゑに無盡なり。

無盡なるゆゑに現前なり。

現前なるゆゑに歴歴なり。

ここに至りて、

坐禅は坐禅を坐す。

佛法は佛法を證す。

光明は光明を照らす。

空は空を脱落す。

山は山を運歩し、

水は水を流通す。

しかも一法として自己を有せず。

自己なきゆゑに全自己なり。

これを坐禅深奥と稱す。

深奥に入るにあらず。

深奥より出づるにあらず。

深奥すでに一茎草なり。

深奥すでに半輪月なり。

深奥すでに眼前の塵なり。

深奥すでに脚下の土なり。

ゆゑに古佛の面目、

ただ端坐なり。

端坐のほかに佛法なし。

端坐のほかに生死なし。

端坐のほかに涅槃なし。

しかも端坐を把捉すべからず。

把捉するとき、

端坐すでに萬里を隔つ。

放下するとき、

十方世界ともに結跏趺坐す。

これを

坐禅深奥

と稱す。

合掌。
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