依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
■【第6ブロック:言葉・沈黙・表現】(61〜72):道元が描きたかった正法眼蔵の続き ■
★注目スレッド: 仏道と何か?(7) 参学の総論を語りましょう。(19) 坐禅 全般を語りましょう。(38) 正法眼蔵 全般を語りましょう。(12) 好きな詩を乗せよう!!(7) 言葉の仏法(1) 沈黙の智慧(1) 声の真如(1) 言葉の空性(1) 表現の仏道(1) 無言の教え(1) 話すことの悟り(1) 聞くことの仏心(1) 言葉の円相(1) 沈黙の光(3) 声の現成(1) 言葉の無住(1) 依義不依語(義に依りて語に依らざれ)(1) 依智不依識(智に依りて識に依らざれ)(1) 依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)(1)
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正法眼蔵 依智不依識巻(擬作・超高密度版)
それ仏祖の大道、依智不依識なり。依智不依識というは、識を断じて智を立つるにあらず、また智を識の奥にひそむ高等の主体とするにあらず。智そのもの識を行持し、識そのもの智を現成するなり。ゆえに識を離れて智なし、智を離れて識なし。離不離ともに依智不依識の脚跟なり。
しかあるに、衆生おおく識を妄分別とし、智を真照見とす。識は塵労の根、智は解脱の本とおもう。これ情量の計較なり。もし識をただちに棄つべき妄として斥くれば、その斥く心すでに識なり。もし智を清浄無垢の霊明として把捉すれば、その把捉すでに識影なり。仏祖の智はしかあらず。智は識に対して立つ第二物にあらず、識は智に排除せらるる残滓にあらず。智識ともに相待して立するにあらず、相奪して滅するにあらず、相即相脱の正当恁麼時、これを依智不依識というなり。
古仏いわく、
転識得智。
この道取、識を破壊して智に変成する化学にあらず。転というは他物に改造するにあらず、識そのもの識を転じて識に住せざるなり。住せざるがゆえに智なり。しかも智を得るという得、所得の得にあらず。得るものなくして得現成するなり。ゆえに転識得智とは、識滅智生にあらず、識の正当恁麼時すでに智の眼睛を具するなり。ここをもって、依智不依識という。
いわゆる識とは、眼耳鼻舌身意の六識、さらに末那阿頼耶の諸識をいうといえども、ただ法相の名目を数えて仏祖の家風とすることなかれ。識は了別のはたらきなり、分際を立て、彼此を量り、好悪を構え、得失を織る。この了別、しばらく人間日用の器用としては現前する。しかあれども、その現前を真実の主位と会するとき、識は識に纏われ、識は識を食するなり。ゆえに識をもって道を量れば、道たちまち量裏に縮却す。仏祖の道は、識をもちいて識に依らざるなり。
また、智とは無分別の昏然たる空白にあらず。もし智を識の対極として、知解を離れたる闇黒の静寂と会すれば、これ枯木死灰の邪路なり。智は無知にあらず、不知にあらず、知不知を透脱する照用なり。照用というは、なにものかを対象として照らす主体にあらず。照そのもの用を現成し、用そのもの照を現成するなり。ゆえに智は静寂の中にのみあるにあらず、見聞覚知、語黙動静、咳唾挙措のただなか、歴然として露柱を穿ち、虚空に筋骨を立つるなり。
古徳いわく、
般若無知、無所不知。
この道取、知を廃して神秘を立つるにあらず。無知というは、識知の分別主宰を脱落するなり。無所不知というは、万法を枚挙して余さず記憶するにあらず。万法おのおの自己の面目をもって自己を証明する、その証明に覆障なきところ、これ無所不知なり。しかあれども無知を守れば愚痴に陥り、無所不知を誇れば識智に還る。無知無所不知ともに依智不依識の門前の草鞋銭にすぎず。草鞋銭を元手として大道を商うことなかれ。
たとえば鏡のごとしと喩すべし。しかあれども鏡を心体とし、像を識別の影とすることなかれ。鏡明らかなれば万像を現ずといえども、像を蔵するにあらず、像を嫌うにあらず。識に依るものは像に走り、あるいは鏡に住す。智に依るものは鏡像ともに鏡像を脱落して、なお鏡像歴然たり。ゆえに像あらわれて鏡増さず、像去りて鏡減ぜず。増減なきがゆえに智なり。しかも像現歴然たるがゆえに、智は無相の冥寂にあらず。ここに依智不依識の鼻孔あるなり。
しかあるに、あるいは問う、識を用いずしていかに日用を辨ずるや。いわく、この問著すでに識に依るなり。日用を辦ずるもの識なりと定め、智はただ高遠の内証にのみ用うるとおもう、これ世俗の二分法なり。仏祖の智は日用を離れず。飯を喫するも智なり、衣を著するも智なり、客来たれば迎え、客去れば送る、これみな智なり。しかあれども、日用に熟したる技能をもって智と称することなかれ。技能はなお識の滑利なるところあり。智は滑利にも鈍重にも住せず、滑利鈍重そのものを透脱して、飯を飯し、茶を茶するなり。ここにおいて、智は別に奥密の境界に蔵せられず、むしろ尋常の行履において識の主位を奪うものなり。
古仏いわく、
平常心是道。
この平常心、識慮の平板なる平均状態にあらず。平常というは、智そのまま平常を平常するなり。しかも平常を智の果と会することなかれ。平常のただなか、識が自己を主とせざるとき、すでに智の歩履なり。ここをもって、喜怒哀楽も智の外にあらず、見聞思量も智の敵にあらず。敵味方を立つるところ、すでに識の軍陣なり。仏祖の智は軍陣を敷かずして勝負を尽くし、勝負を尽くしてなお一人も斬らざるなり。
いわゆる依智不依識の「依」は、寄託するにあらず、依附するにあらず。もし智を頼む心あらば、頼むものと頼まるるものと二あり。二あればすでに識の構図を離れず。依とは、智の現成において識の主位を立てざるなり。主位を立てざるがゆえに、識なお用を失わず。眼は色を見、耳は声を聞き、意は法を量る。しかも見聞量のただなか、わが識が世界を裁断する君主として居座らざるところ、これ依智なり。ゆえに依智不依識とは、識を用いぬにあらず、識を主とせぬなり。主とせぬがゆえに、識は智に転ぜらるるにあらずして、すでに智の家風を帯するなり。
古徳いわく、
見色明心、聞声悟道。
この道取、色声が悟道の契機となる偶然をいうにあらず。見色聞声のただなか、識に依ればただ色声の境界なり。智に依れば色そのまま明心、声そのまま悟道なり。しかあれども色声の特殊の奇瑞を待つことなかれ。瓦礫の色も明心なり、市井の声も悟道なり。奇瑞を求めるこころ、すでに識の趣味なり。仏祖の智は奇瑞と尋常を択ばず、尋常のただなか奇瑞を蔵し、奇瑞のただなか尋常を失わざるなり。
いま坐禅するとき、この坐禅依智不依識なり。坐禅は識を圧伏して智を露出する術にあらず。念起これば識あり、念滅すれば識なし、と会することなかれ。起念そのもの識なりといえども、起念を主とせざるとき、すでに智の光あり。無念を守って智を得んとするもまた識の微細なる執なり。ゆえに古仏いわく、
思量箇不思量底。
この道取、思量を捨てて不思量に沈むにあらず。思量のただなか、不思量を思量し、不思量のただなか思量を透脱するなり。非思量というも、第三の心理状態を設けるにあらず。思・不思・非思、三者ともに坐禅の脚跟に使役せられて、ついに主人とならず。ここに依智不依識の坐禅あり。
もしさらに問う、智と識と、いかにして弁別すべきや。いわく、弁別せんとするところ、すでに識の計較あり。しかあれども弁別なきにあらず。識はつねに自己の立場を保全し、所見を固執し、得失を量る。智は立場なきを立て、所見なきを見、得失なきを尽くす。識は対象を把捉して安心せんとし、智は把捉のただなか把捉を脱落する。識はかならず中心を設け、その中心より周辺を裁く。智は中心周辺をともに現成せしめて、しかも中心を主とせず、周辺を散とせず。これしばらく弁別のごとく語るといえども、この語に住して智識の二物を想うことなかれ。二物を想うとき、すでに依智不依識を失う。
たとえば月と水とのごとし。識に依るものは、水に映る月をとらえんとして水を濁す。あるいは実月を高く安置して水月を軽んずる。智に依るものは、水月即実月、実月即水月と会して、しかも混同せず、しかも隔絶せず。水は水を尽くし、月は月を尽くし、映現そのまま映現を脱落するなり。映現脱落のところ、識の攀縁なく、智の光明あり。光明というは眩耀の霊感にあらず、水月おのずから水月を妨げざるところの消息なり。
また、依智不依識を学するに、かならずしも学問を捨つることを要せず。経を読み、論を究め、語句を考える、これみな識の辺事にあらずといえども、識に執すればただ知解の糧となる。智に依れば、一字一句そのまま般若の手眼なり。ゆえに文字を嫌うことなかれ、文字に溺るることなかれ。文字は識の器ともなり、智の門ともなる。門とならしむるは文字にあらず、読み手の執不執にあらず、ただ正当恁麼時の行履なり。ここにおいて、博覧強記も智の妨げにあらず、寡聞朴拙も智の保証にあらず。保証妨碍を並べるところ、すでに識の天秤なり。
古仏いわく、
大円鏡智。
この道取、円満にして偏りなき知的能力を賞するにあらず。大円鏡智は、円きがゆえに万方を収めるにあらず、万方それぞれ自己の方位を失わざるところ、これ大円なり。鏡なるがゆえに映すにあらず、映すにあらずして歴然たるところ、これ鏡なり。もし大円鏡智を高遠の果位として現在の識より隔てば、いよいよ識に依ることふかし。現在の一見一聞、そのただなか識主を立てざるところ、すでに大円鏡智の爪牙あり。爪牙といえども断截の器械にあらず、ただ覆障をして覆障を脱落せしむるのみ。
ゆえに正当に知るべし、依智不依識とは、識を敵として智を味方とする戦いにあらず、識の海を渡りきって智の岸に上る旅にあらず、また識の全部を智へと昇華する精錬術にあらず。識そのもの識を主とせざるとき、すでに智の現成なり。智そのもの識を捨てざるがゆえに、日用万端ことごとく般若の家常なり。見て識に依らざれば見は智なり、聞いて識に依らざれば聞は智なり、思って識に依らざれば思は智なり。しかあれども智をもって新たなる主宰とすることなかれ。主宰の智は、はや識の化身なり。
ゆえにいうべし、
識は智にあらず、
智は識にあらず、
しかも智識ともに相離れずして相脱落す。
識を断ずるにあらずして識主を断じ、
智を得るにあらずして智用歴然たり。
この正当恁麼時、
眼耳鼻舌身意・色声香味触法、
ことごとく依智不依識の仏法を開演するなり。
これを依智不依識巻という。
それ仏祖の大道、依智不依識なり。依智不依識というは、識を断じて智を立つるにあらず、また智を識の奥にひそむ高等の主体とするにあらず。智そのもの識を行持し、識そのもの智を現成するなり。ゆえに識を離れて智なし、智を離れて識なし。離不離ともに依智不依識の脚跟なり。
しかあるに、衆生おおく識を妄分別とし、智を真照見とす。識は塵労の根、智は解脱の本とおもう。これ情量の計較なり。もし識をただちに棄つべき妄として斥くれば、その斥く心すでに識なり。もし智を清浄無垢の霊明として把捉すれば、その把捉すでに識影なり。仏祖の智はしかあらず。智は識に対して立つ第二物にあらず、識は智に排除せらるる残滓にあらず。智識ともに相待して立するにあらず、相奪して滅するにあらず、相即相脱の正当恁麼時、これを依智不依識というなり。
古仏いわく、
転識得智。
この道取、識を破壊して智に変成する化学にあらず。転というは他物に改造するにあらず、識そのもの識を転じて識に住せざるなり。住せざるがゆえに智なり。しかも智を得るという得、所得の得にあらず。得るものなくして得現成するなり。ゆえに転識得智とは、識滅智生にあらず、識の正当恁麼時すでに智の眼睛を具するなり。ここをもって、依智不依識という。
いわゆる識とは、眼耳鼻舌身意の六識、さらに末那阿頼耶の諸識をいうといえども、ただ法相の名目を数えて仏祖の家風とすることなかれ。識は了別のはたらきなり、分際を立て、彼此を量り、好悪を構え、得失を織る。この了別、しばらく人間日用の器用としては現前する。しかあれども、その現前を真実の主位と会するとき、識は識に纏われ、識は識を食するなり。ゆえに識をもって道を量れば、道たちまち量裏に縮却す。仏祖の道は、識をもちいて識に依らざるなり。
また、智とは無分別の昏然たる空白にあらず。もし智を識の対極として、知解を離れたる闇黒の静寂と会すれば、これ枯木死灰の邪路なり。智は無知にあらず、不知にあらず、知不知を透脱する照用なり。照用というは、なにものかを対象として照らす主体にあらず。照そのもの用を現成し、用そのもの照を現成するなり。ゆえに智は静寂の中にのみあるにあらず、見聞覚知、語黙動静、咳唾挙措のただなか、歴然として露柱を穿ち、虚空に筋骨を立つるなり。
古徳いわく、
般若無知、無所不知。
この道取、知を廃して神秘を立つるにあらず。無知というは、識知の分別主宰を脱落するなり。無所不知というは、万法を枚挙して余さず記憶するにあらず。万法おのおの自己の面目をもって自己を証明する、その証明に覆障なきところ、これ無所不知なり。しかあれども無知を守れば愚痴に陥り、無所不知を誇れば識智に還る。無知無所不知ともに依智不依識の門前の草鞋銭にすぎず。草鞋銭を元手として大道を商うことなかれ。
たとえば鏡のごとしと喩すべし。しかあれども鏡を心体とし、像を識別の影とすることなかれ。鏡明らかなれば万像を現ずといえども、像を蔵するにあらず、像を嫌うにあらず。識に依るものは像に走り、あるいは鏡に住す。智に依るものは鏡像ともに鏡像を脱落して、なお鏡像歴然たり。ゆえに像あらわれて鏡増さず、像去りて鏡減ぜず。増減なきがゆえに智なり。しかも像現歴然たるがゆえに、智は無相の冥寂にあらず。ここに依智不依識の鼻孔あるなり。
しかあるに、あるいは問う、識を用いずしていかに日用を辨ずるや。いわく、この問著すでに識に依るなり。日用を辦ずるもの識なりと定め、智はただ高遠の内証にのみ用うるとおもう、これ世俗の二分法なり。仏祖の智は日用を離れず。飯を喫するも智なり、衣を著するも智なり、客来たれば迎え、客去れば送る、これみな智なり。しかあれども、日用に熟したる技能をもって智と称することなかれ。技能はなお識の滑利なるところあり。智は滑利にも鈍重にも住せず、滑利鈍重そのものを透脱して、飯を飯し、茶を茶するなり。ここにおいて、智は別に奥密の境界に蔵せられず、むしろ尋常の行履において識の主位を奪うものなり。
古仏いわく、
平常心是道。
この平常心、識慮の平板なる平均状態にあらず。平常というは、智そのまま平常を平常するなり。しかも平常を智の果と会することなかれ。平常のただなか、識が自己を主とせざるとき、すでに智の歩履なり。ここをもって、喜怒哀楽も智の外にあらず、見聞思量も智の敵にあらず。敵味方を立つるところ、すでに識の軍陣なり。仏祖の智は軍陣を敷かずして勝負を尽くし、勝負を尽くしてなお一人も斬らざるなり。
いわゆる依智不依識の「依」は、寄託するにあらず、依附するにあらず。もし智を頼む心あらば、頼むものと頼まるるものと二あり。二あればすでに識の構図を離れず。依とは、智の現成において識の主位を立てざるなり。主位を立てざるがゆえに、識なお用を失わず。眼は色を見、耳は声を聞き、意は法を量る。しかも見聞量のただなか、わが識が世界を裁断する君主として居座らざるところ、これ依智なり。ゆえに依智不依識とは、識を用いぬにあらず、識を主とせぬなり。主とせぬがゆえに、識は智に転ぜらるるにあらずして、すでに智の家風を帯するなり。
古徳いわく、
見色明心、聞声悟道。
この道取、色声が悟道の契機となる偶然をいうにあらず。見色聞声のただなか、識に依ればただ色声の境界なり。智に依れば色そのまま明心、声そのまま悟道なり。しかあれども色声の特殊の奇瑞を待つことなかれ。瓦礫の色も明心なり、市井の声も悟道なり。奇瑞を求めるこころ、すでに識の趣味なり。仏祖の智は奇瑞と尋常を択ばず、尋常のただなか奇瑞を蔵し、奇瑞のただなか尋常を失わざるなり。
いま坐禅するとき、この坐禅依智不依識なり。坐禅は識を圧伏して智を露出する術にあらず。念起これば識あり、念滅すれば識なし、と会することなかれ。起念そのもの識なりといえども、起念を主とせざるとき、すでに智の光あり。無念を守って智を得んとするもまた識の微細なる執なり。ゆえに古仏いわく、
思量箇不思量底。
この道取、思量を捨てて不思量に沈むにあらず。思量のただなか、不思量を思量し、不思量のただなか思量を透脱するなり。非思量というも、第三の心理状態を設けるにあらず。思・不思・非思、三者ともに坐禅の脚跟に使役せられて、ついに主人とならず。ここに依智不依識の坐禅あり。
もしさらに問う、智と識と、いかにして弁別すべきや。いわく、弁別せんとするところ、すでに識の計較あり。しかあれども弁別なきにあらず。識はつねに自己の立場を保全し、所見を固執し、得失を量る。智は立場なきを立て、所見なきを見、得失なきを尽くす。識は対象を把捉して安心せんとし、智は把捉のただなか把捉を脱落する。識はかならず中心を設け、その中心より周辺を裁く。智は中心周辺をともに現成せしめて、しかも中心を主とせず、周辺を散とせず。これしばらく弁別のごとく語るといえども、この語に住して智識の二物を想うことなかれ。二物を想うとき、すでに依智不依識を失う。
たとえば月と水とのごとし。識に依るものは、水に映る月をとらえんとして水を濁す。あるいは実月を高く安置して水月を軽んずる。智に依るものは、水月即実月、実月即水月と会して、しかも混同せず、しかも隔絶せず。水は水を尽くし、月は月を尽くし、映現そのまま映現を脱落するなり。映現脱落のところ、識の攀縁なく、智の光明あり。光明というは眩耀の霊感にあらず、水月おのずから水月を妨げざるところの消息なり。
また、依智不依識を学するに、かならずしも学問を捨つることを要せず。経を読み、論を究め、語句を考える、これみな識の辺事にあらずといえども、識に執すればただ知解の糧となる。智に依れば、一字一句そのまま般若の手眼なり。ゆえに文字を嫌うことなかれ、文字に溺るることなかれ。文字は識の器ともなり、智の門ともなる。門とならしむるは文字にあらず、読み手の執不執にあらず、ただ正当恁麼時の行履なり。ここにおいて、博覧強記も智の妨げにあらず、寡聞朴拙も智の保証にあらず。保証妨碍を並べるところ、すでに識の天秤なり。
古仏いわく、
大円鏡智。
この道取、円満にして偏りなき知的能力を賞するにあらず。大円鏡智は、円きがゆえに万方を収めるにあらず、万方それぞれ自己の方位を失わざるところ、これ大円なり。鏡なるがゆえに映すにあらず、映すにあらずして歴然たるところ、これ鏡なり。もし大円鏡智を高遠の果位として現在の識より隔てば、いよいよ識に依ることふかし。現在の一見一聞、そのただなか識主を立てざるところ、すでに大円鏡智の爪牙あり。爪牙といえども断截の器械にあらず、ただ覆障をして覆障を脱落せしむるのみ。
ゆえに正当に知るべし、依智不依識とは、識を敵として智を味方とする戦いにあらず、識の海を渡りきって智の岸に上る旅にあらず、また識の全部を智へと昇華する精錬術にあらず。識そのもの識を主とせざるとき、すでに智の現成なり。智そのもの識を捨てざるがゆえに、日用万端ことごとく般若の家常なり。見て識に依らざれば見は智なり、聞いて識に依らざれば聞は智なり、思って識に依らざれば思は智なり。しかあれども智をもって新たなる主宰とすることなかれ。主宰の智は、はや識の化身なり。
ゆえにいうべし、
識は智にあらず、
智は識にあらず、
しかも智識ともに相離れずして相脱落す。
識を断ずるにあらずして識主を断じ、
智を得るにあらずして智用歴然たり。
この正当恁麼時、
眼耳鼻舌身意・色声香味触法、
ことごとく依智不依識の仏法を開演するなり。
これを依智不依識巻という。
依智不依識(智に依りて識に依らざれ)