趣向真如亦是邪(真如に趣向するも亦た是れ邪なり)。 真如を背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり。真如は向背なり、向背の各各にこれ真如なり。たれかしらん、この邪の亦是真如なることを。 随順世縁無罣礙(世縁に随順して罣礙無し)。 世縁と

趣向真如亦是邪(真如に趣向するも亦た是れ邪なり)。
真如を背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり。真如は向背なり、向背の各各にこれ真如なり。たれかしらん、この邪の亦是真如なることを。
随順世縁無罣礙(世縁に随順して罣礙無し)。
世縁と世縁と随順し、随順と随順と世縁なり。これを無罣礙といふ。罣礙不罣礙は、被眼礙に慣習すべきなり。
涅槃生死是空華(涅槃と生死と是れ空華)。
涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提なり。仏祖および仏祖の弟子の所住これなり。生死は真実人体なり。この涅槃生死は、その法なりといへども、これ空花なり。空華の根茎枝葉、花果光色、ともに空花の花開なり。空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだすなり。いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界、見於三界なり。この諸法実相なり、この諸法華相なり。乃至不測の諸法、ともに空花空果なり、梅柳桃李とひとしきなりと参学すべし。
『正法眼蔵』「空華」巻のクライマックスとも言える、永嘉大師の『証道歌』を道元禅師が独自の視点で読み解く一節ですね。

ここでは「真如(真理)」への向かい方、そして「生死・涅槃」という仏教の根本概念が、すべて「空華(くうげ)」という壮大な肯定の中に包み込まれています。

1. 「真如」という二元論の超克
「真如に趣向するも亦た是れ邪なり」という言葉に対し、道元禅師はさらに踏み込みます。

・向背(こうはい)の真如: 真理に向かうことも、背を向けることも、そのどちらもが「邪(よこしま)」であると同時に、そのダイナミズム自体が「真如」そのものであると説きます。
・真理を「あちら側」に置いて追い求めるのではなく、向かったり背いたりしている「今、ここ」の動きそのものが真実であるという、徹底した即今(そっこん)の哲学です。

2. 「世縁」と「無罣礙(むけげ)」
世の中の縁(世縁)に随い、こだわりがない(無罣礙)ことの解釈も独特です。

・「世縁」と「随順(したがうこと)」を分けるのではなく、「随順が世縁であり、世縁が随順である」という一体感を強調します。
・「こだわりがない」とは、何も感じないことではなく、眼が物に遮られる(被眼礙)ことさえも「慣習」として、その不自由さや制限も含めてまるごと引き受ける自由を指しています。

3. 「涅槃生死」は「空華」の花開なり
ここが「空華」巻の真髄です。通常、仏教では「生死(迷い)」を脱して「涅槃(悟り)」に至ることを目指しますが、道元禅師はこれらを等しく「空華」と呼びます。

・真実人体(しんじつにんたい): 生死(生き死にの苦しみ)こそが、人間の真実の姿である。
・空華の花果: 悟り(涅槃)も迷い(生死)も、すべては「空の花」が開いた姿であり、根・茎・枝・葉にいたるまで、そのすべてが「空」というダイナミックな生命活動の現れです。
・空種(くうしゅ): 空の花は、空の実(空菓)を結び、空の種を下ろす。この「空」の連鎖こそが世界のありのままの姿です。

4. 諸法実相は「諸法華相(しょほうげそう)」なり
道元禅師は、法華経の「諸法実相(すべてのものは真実である)」という言葉を、「諸法華相(すべてのものは花の姿である)」と言い換えます。

・私たちが今見ているこの世界(三界)は、決して「幻だから価値がない」のではありません。
・梅、柳、桃、李(すもも)がそれぞれに鮮やかに咲くように、この宇宙のあらゆる現象は、測り知れない「空華」として今この瞬間に現成している。

参学のまとめ
道元禅師は、私たちが追い求める「悟り」さえも、一つの「空の花」として相対化しました。しかしそれは否定ではなく、「この儚く、実体のない、花のような現象世界こそが、仏祖が住まう唯一の真実である」という強烈な肯定です。

「空華」という言葉は、ここでは「幻」という意味を超え、「固定された実体はないが、今、鮮やかに咲き誇っている生命の躍動」そのものを指す言葉として響いています。この壮大な「花の哲学」を参学することこそが、道元禅師の伝えたかった「宗旨」に他なりません。
趣向真如亦是邪(真如に趣向するも亦た是れ邪なり)。
真如を背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり。真如は向背なり、向背の各各にこれ真如なり。たれかしらん、この邪の亦是真如なることを。
随順世縁無罣礙(世縁に随順して罣礙無し)。
世縁と世縁と随順し、随順と随順と世縁なり。これを無罣礙といふ。罣礙不罣礙は、被眼礙に慣習すべきなり。
涅槃生死是空華(涅槃と生死と是れ空華)。
涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提なり。仏祖および仏祖の弟子の所住これなり。生死は真実人体なり。この涅槃生死は、その法なりといへども、これ空花なり。空華の根茎枝葉、花果光色、ともに空花の花開なり。空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだすなり。いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界、見於三界なり。この諸法実相なり、この諸法華相なり。乃至不測の諸法、ともに空花空果なり、梅柳桃李とひとしきなりと参学すべし。
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