以下は、この一段を
「維摩と釈尊の優劣論」や「沈黙の価値論」として消費せず、
〈言〉〈黙〉〈同〉〈異〉をめぐる仏道の根本構造を照らし出すための、
仏道的に深掘りする視点です。
この段は、前段までの「出家・正伝」論を、
最も微細で、最も誤解されやすい一点——〈黙〉——において決着させる箇所です。
Ⅰ.なぜ「維摩=釈尊同一道」を斬るのか
| 維摩と釈尊と、その道ひとしとおもひいへる
ここで道元が問題にしているのは、
・在家/出家の区別
ではなく、
・仏祖の働きを“類比”で理解しようとする態度です。
仏道は、
似ている/同じだ、という比較思考の中では成立しない。
Ⅱ.「黙然無言」の誤読が生む最大の過失
| 維摩黙然無言して諸菩薩にしめす
| これ如来の無言為人にひとし
ここが、道元にとっての最大の地雷です。
世俗的誤解
・沈黙は言葉を超えている
・沈黙はすべて同じ深みを持つ
・だから、維摩の黙=釈尊の黙
これは思弁の安易な統合。
Ⅲ.如来の〈有言〉は、すでに異質である
| 如来の有言、すでに自余とことなり
まず、ここが重要です。
・釈尊の言葉は
情報でも、教訓でも、説明でもない
・言った瞬間に、法が現成する言
だから、
・如来の「黙」も、
単なる言葉の欠如ではありえない
Ⅳ.「黙は同じ」という発想自体が、すでに外道
| 無言もまた諸類とひとしかるべからず
ここで道元は、
沈黙を“形式”として捉える思考を斬っています。
・口を閉じる
・何も言わない
それは、仏道ではない。
仏道における〈黙〉とは、
・誰が
・どこから
・どの身命で
・どの法位において
黙しているか
がすべて。
Ⅴ.「相似の比論にすら及ぶべからず」の意味
| 如来の一黙と維摩一黙と、相似の比論にすらおよぶべからず
ここで道元は、
・優劣比較
・同異比較
その土俵自体を破壊しています。
仏祖の行為は、
比較された瞬間に、すでに死ぬ。
Ⅵ.「黙の黙」を知らぬ者たち
| いはんや黙の黙を学すべしとだにもしらず
ここは、この段で最も深い一句です。
黙の黙とは何か
・言葉を超えた沈黙、ではない
・無言のパフォーマンス、でもない
言と黙の二分そのものが脱落したところ
・語っても黙
・黙しても語
只管打坐の黙
Ⅶ.「声色」と「跳声色」
| いまだ声色の見聞なし
| いはんや跳声色の光明あらんや
・声色:通常の認識世界
・跳声色:認識を跳び越えた現成
維摩黙を、
「すごい沈黙」として感動している段階は、
まだ声色以前にも至っていないと断じている。
Ⅷ.「諸類と諸類は動静すら異なる」
| おほよそ諸類と諸類と、その動静なほことなり
これは、生物学的分類ではありません。
法位の差。
・仏
・菩薩
・声聞
・凡夫
同じ「黙」に見えても、
・働きがまったく異なる
Ⅸ.なぜこれを「堂奥に参学せず」というのか
| 仏祖の堂奥に参学せざるともがら
堂奥とは、
・奥義
・秘密
ではない。
身心を丸ごと投げ出した修行の奥
そこを通らずに、
・言語論
・比較論
・象徴論
で仏道を語る者を、
道元は容赦しない。
Ⅹ.この一段の核心構造
この文章が切っている誤りは一つです。
| 仏道を、
| 表現形式(言・黙)で理解しようとすること
仏道は:
・何を言ったか
・何を言わなかったか
ではなく、
誰が、どの身命で、
法として生きているか
Ⅺ.参究の一句(結語)
| 黙が深いのではない
| 黙している身命が深い
| 如来の黙は法であり
| 維摩の黙は維摩である
| それを同じと言うとき
| 仏道は、すでに比喩に堕ちている
最後に(重要)
この文章は、
・維摩を貶めるための文ではありません
・沈黙を否定する文でもありません
仏道を“わかった気”で統合する思考を、
最後の一線で断つ文です。
ここまで来た読者に残る問いは一つだけです。
| あなたの沈黙は、
| どの身命から生まれているか
それを問わない沈黙は、
どれほど美しく見えても、
まだ仏祖の堂奥ではない。
この一段は、
その厳密さを、
最後の最後で突きつけています。
以下は、この一段を
「維摩と釈尊の優劣論」や「沈黙の価値論」として消費せず、
〈言〉〈黙〉〈同〉〈異〉をめぐる仏道の根本構造を照らし出すための、
仏道的に深掘りする視点です。
この段は、前段までの「出家・正伝」論を、
最も微細で、最も誤解されやすい一点——〈黙〉——において決着させる箇所です。
Ⅰ.なぜ「維摩=釈尊同一道」を斬るのか
| 維摩と釈尊と、その道ひとしとおもひいへる
ここで道元が問題にしているのは、
・在家/出家の区別
ではなく、
・仏祖の働きを“類比”で理解しようとする態度です。
仏道は、
似ている/同じだ、という比較思考の中では成立しない。
Ⅱ.「黙然無言」の誤読が生む最大の過失
| 維摩黙然無言して諸菩薩にしめす
| これ如来の無言為人にひとし
ここが、道元にとっての最大の地雷です。
世俗的誤解
・沈黙は言葉を超えている
・沈黙はすべて同じ深みを持つ
・だから、維摩の黙=釈尊の黙
これは思弁の安易な統合。
Ⅲ.如来の〈有言〉は、すでに異質である
| 如来の有言、すでに自余とことなり
まず、ここが重要です。
・釈尊の言葉は
情報でも、教訓でも、説明でもない
・言った瞬間に、法が現成する言
だから、
・如来の「黙」も、
単なる言葉の欠如ではありえない
Ⅳ.「黙は同じ」という発想自体が、すでに外道
| 無言もまた諸類とひとしかるべからず
ここで道元は、
沈黙を“形式”として捉える思考を斬っています。
・口を閉じる
・何も言わない
それは、仏道ではない。
仏道における〈黙〉とは、
・誰が
・どこから
・どの身命で
・どの法位において
黙しているか
がすべて。
Ⅴ.「相似の比論にすら及ぶべからず」の意味
| 如来の一黙と維摩一黙と、相似の比論にすらおよぶべからず
ここで道元は、
・優劣比較
・同異比較
その土俵自体を破壊しています。
仏祖の行為は、
比較された瞬間に、すでに死ぬ。
Ⅵ.「黙の黙」を知らぬ者たち
| いはんや黙の黙を学すべしとだにもしらず
ここは、この段で最も深い一句です。
黙の黙とは何か
・言葉を超えた沈黙、ではない
・無言のパフォーマンス、でもない
言と黙の二分そのものが脱落したところ
・語っても黙
・黙しても語
只管打坐の黙
Ⅶ.「声色」と「跳声色」
| いまだ声色の見聞なし
| いはんや跳声色の光明あらんや
・声色:通常の認識世界
・跳声色:認識を跳び越えた現成
維摩黙を、
「すごい沈黙」として感動している段階は、
まだ声色以前にも至っていないと断じている。
Ⅷ.「諸類と諸類は動静すら異なる」
| おほよそ諸類と諸類と、その動静なほことなり
これは、生物学的分類ではありません。
法位の差。
・仏
・菩薩
・声聞
・凡夫
同じ「黙」に見えても、
・働きがまったく異なる
Ⅸ.なぜこれを「堂奥に参学せず」というのか
| 仏祖の堂奥に参学せざるともがら
堂奥とは、
・奥義
・秘密
ではない。
身心を丸ごと投げ出した修行の奥
そこを通らずに、
・言語論
・比較論
・象徴論
で仏道を語る者を、
道元は容赦しない。
Ⅹ.この一段の核心構造
この文章が切っている誤りは一つです。
| 仏道を、
| 表現形式(言・黙)で理解しようとすること
仏道は:
・何を言ったか
・何を言わなかったか
ではなく、
誰が、どの身命で、
法として生きているか
Ⅺ.参究の一句(結語)
| 黙が深いのではない
| 黙している身命が深い
| 如来の黙は法であり
| 維摩の黙は維摩である
| それを同じと言うとき
| 仏道は、すでに比喩に堕ちている
最後に(重要)
この文章は、
・維摩を貶めるための文ではありません
・沈黙を否定する文でもありません
仏道を“わかった気”で統合する思考を、
最後の一線で断つ文です。
ここまで来た読者に残る問いは一つだけです。
| あなたの沈黙は、
| どの身命から生まれているか
それを問わない沈黙は、
どれほど美しく見えても、
まだ仏祖の堂奥ではない。
この一段は、
その厳密さを、
最後の最後で突きつけています。