空華を学せんこと、まさに衆品あるべし。翳眼の所見あり、明眼の所見あり。仏眼の所見あり、祖眼の所見あり。道眼の所見あり、瞎眼の所見あり。三千年の所見あり、八百年の所見あり。百劫の所見あり、無量劫の所見あり。これらともにみな空花をみるといへども

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展開ビュー トピックのレビュー: 空華を学せんこと、まさに衆品あるべし。翳眼の所見あり、明眼の所見あり。仏眼の所見あり、祖眼の所見あり。道眼の所見あり、瞎眼の所見あり。三千年の所見あり、八百年の所見あり。百劫の所見あり、無量劫の所見あり。これらともにみな空花をみるといへども

『正法眼蔵』「空華」巻の結びに向かう、多層的な視座(眼)と時間の理(ことわり)を説く決定的な一節ですね。

道元禅師はここで、私たちが「空華(くうげ)」という真理をどのように捉えるべきか、その「見方」の多様性と「時節」の厳格さを提示しています。

1. 多様な「眼」と重層的な「空」
「空華を見る」といっても、それを見る主体の境地によって、見え方は千差万別です。

・翳眼・明眼・仏眼・祖眼・道眼・瞎眼: 曇った眼、明らかな眼、仏の眼、祖師の眼、道の眼、そして「盲目の眼(瞎眼)」さえも。
・時間の厚み: 三年、八百年、百劫、無量劫。それぞれの時間軸で見える「空華」があります。

道元禅師がここで強調しているのは、「空」という器も「花」という現象も、決して固定された一つの状態ではないということです。「空」には品品(しなじな)の階層があり、「花」には重重(じゅうじゅう)の奥行きがある。私たちは自分の一面的な視点だけで「これが空華だ」と決めつけてはならないと戒めています。

2. 「空」は一本の草である
| まさにしるべし、空は一草なり。

この表現は極めて斬新です。広大無辺で何もないと思われている「空(くう)」を、道元禅師は足元に生える「一本の草」と同じように、具体的で生命力に満ちた存在として捉えています。草が季節になれば花を咲かせるように、空もまた、必然として「花(現象)」を咲かせるのです。

3. 「本無(もとより無し)」と「今有(いま有り)」の不二
釈尊(如来)が説いた「空本無華(空にはもともと花などない)」という言葉を、道元禅師は否定するのではなく、ダイナミックに読み替えます。

・梅昨無華、梅春有華: 「昨日の梅には花がなかったが、今日の春の梅には花がある」という事実と同じです。「もともと無い」ことと「今、現にある」ことは矛盾しません。
・「もともと無いから、今ある花は偽物だ」と考えるのは短慮です。道元禅師にとって、「無い」という状態から「有る」という現成へ至るプロセスそのものが、仏法の真髄です。

4. 時節到来と「正当恁麼時(しょうとういんもじ)」
最後に語られるのは、厳格な「時」の理です。

・花到来の正当恁麼時: 花が咲くべき時節が来れば、花は必ず咲く。その「まさにその時(正当恁麼時)」において、一分の狂いも、みだりな(いい加減な)現れもありません。

現象(空華)は、単なる幻としていい加減に浮かんでいるのではなく、宇宙の緻密な法(時節)に従って、凛としてそこに現成しているのです。


「空華」参学の完遂に向けて

あなたがこれまで熱心に読み解いてこられた「空華」の物語は、この一節によって「具体的な今」へと収束します。

「空華」を学ぶとは、遠い理想を追うことではなく、「今、この時、この眼(それが例え曇った翳眼であっても)」で見ているこの景色を、宇宙が総力を挙げて咲かせている「一草の花」として、一分の狂いもなく受け止めることに他なりません。

「みだりなることいまだあらず」——この一言に、道元禅師の現象世界に対する深い信頼と敬意が込められています。私たちの生も、悩みも、悟りも、すべてはこの厳格で美しい「花時」の現れなのです。
空華を学せんこと、まさに衆品あるべし。翳眼の所見あり、明眼の所見あり。仏眼の所見あり、祖眼の所見あり。道眼の所見あり、瞎眼の所見あり。三千年の所見あり、八百年の所見あり。百劫の所見あり、無量劫の所見あり。これらともにみな空花をみるといへども、空すでに品品なり、華また重重なり。
まさにしるべし、空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし。この道理を道取するとして、如来道は空本無華と道取するなり。本無花なりといへども、今有花なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。梅昨無華、梅春有華と道取せんがごとし。しかあれども、時節到来すればすなはちはなさく花時なるべし、花到来なるべし。この花到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。

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