以下は、この一段を
「念=マインドフルネス論」や「無念礼賛/念の否定」として読むことを厳密に避け、
道元が〈正念道支〉をどこに確定させているのかを一点に絞った
仏道的・構造的な深掘りです。
ここは、八正道全体の中でも
最も誤用され、最も堕落しやすい〈念〉を、完全に切断・再定義する場面です。
Ⅰ.冒頭の断言の衝撃
| 正念道支は、被自瞞の八九成なり
いきなり極端です。
これは
・正念は大切だ
・正念は尊い
という一般論を、真っ向から破壊する一句です。
正念を語る者の
八割九割は「自己欺瞞」である。
なぜか。
Ⅱ.「念を用いて賢くなろう」とする誤り
| 念よりさらに発智すると学するは捨父逃逝なり
これは非常に鋭い比喩です。
・念(いまここを保つ)を使って
・智慧を生み
・覚りに近づこうとする
これは一見、正しい修行に見える。
しかし道元は、これを
| 父を捨てて逃げる
と言う。
なぜなら:
・念はすでに仏道の只中
・そこから「次」を求めた瞬間
・念そのものを裏切っている
Ⅲ.「念中発智」という罠
| 念中発智と学するは、纏縛之甚なり
ここは、さらに厳しい。
・念の中で
・智慧が生じる
・深まりが起こる
一見すると、最上の理解。
しかし道元は断言する。
| 最も強い縛りである
理由は明確です。
・念を
「手段」にしてしまった
・念を
「利用可能な機能」にした
その瞬間、
念はすでに正念ではない。
Ⅳ.「無念=正念」という誤解を切る
| 無念はこれ正念といふは外道なり
これは、現代にも直撃します。
・思考が止まった
・何も浮かばない
・空白になった
それを「正念」と呼ぶ。
道元は、はっきり言う。
| それは外道
なぜなら:
・無念を目標にしている
・状態を価値化している
正念は
「状態」ではない。
Ⅴ.自然化・神秘化としての「念」を排除する
| 地水火風の精霊を念とすべからず
・自然エネルギー
・宇宙意識
・元素の霊性
これらを「念」と呼ぶのは誤り。
正念は、
・宇宙論でも
・神秘体験でも
・自然信仰でもない。
Ⅵ.心理主義としての「念」を排除する
| 心意識の顛倒を念と称ぜず
これも重要です。
・内観
・感情観察
・思考のメタ認知
それらは
心意識の操作にすぎない。
正念は、
・心を対象化する技術ではない
・意識を整える方法でもない。
Ⅶ.では、正念とは何か
すべてを否定したあと、
道元は最後に、たった一つだけ示します。
| 汝得吾皮肉骨髄、すなはち正念道支なり
ここが決定点です。
「皮肉骨髄」とは何か
・理解の段階ではない
・技術の巧拙でもない
仏祖の身心そのものを、
そのまま引き受けていること
・皮だけ取るな
・肉だけ取るな
・骨だけ取るな
・髄だけ取るな
分けずに、丸ごと生きているか
それが正念。
Ⅷ.正念とは「用いるもの」ではない
ここまでの否定をまとめると、正念は:
・智慧を生む手段ではない
・覚りに至る技法ではない
・心理状態でもない
・無心の境地でもない
すでに生きている姿そのもの
・坐る
・立つ
・拝む
・食べる
・排泄する
そのすべてにおいて、
・取り違えていない
・逃げていない
・付け足していない
Ⅸ.正念と正精進の決定的な違い
・正精進:
自我を抉り出す
・正念:
抉り出されたあとに、
そのまま立っていること
動かないことではない考えないことでもない
ずれていないこと
Ⅹ.この一段の最終的構造
道元はここで、
正念をめぐるすべての逃げ道を塞いでいます。
・賢くなる逃げ道
・静まる逃げ道
・神秘に溶ける逃げ道
・心理に還元する逃げ道
逃げずに残るものが、正念。
Ⅺ.参究の一句(結語)
| 正念とは
| 念を操ることではない
| 念を評価することでもない
| 逃げずに
| この身心を
| 仏祖の身心として
| 使い切っていること
| それ以上でも
| それ以下でもない
最後に(決定的に重要)
この文は、
「正念を身につけよ」と言っていません。
正念でないものを、
すべて捨てよ
と言っています。
・念で賢くなろうとする心
・念で安心しようとする心
・念で悟ろうとする心
それらをすべて捨てて、
なお残るもの。
| それが、
| 汝得吾皮肉骨髄
| ——正念道支です。
ここに至って、
八正道は技法ではなく、
生き方そのものとして完結します。
以下は、この一段を
「念=マインドフルネス論」や「無念礼賛/念の否定」として読むことを厳密に避け、
道元が〈正念道支〉をどこに確定させているのかを一点に絞った
仏道的・構造的な深掘りです。
ここは、八正道全体の中でも
最も誤用され、最も堕落しやすい〈念〉を、完全に切断・再定義する場面です。
Ⅰ.冒頭の断言の衝撃
| 正念道支は、被自瞞の八九成なり
いきなり極端です。
これは
・正念は大切だ
・正念は尊い
という一般論を、真っ向から破壊する一句です。
正念を語る者の
八割九割は「自己欺瞞」である。
なぜか。
Ⅱ.「念を用いて賢くなろう」とする誤り
| 念よりさらに発智すると学するは捨父逃逝なり
これは非常に鋭い比喩です。
・念(いまここを保つ)を使って
・智慧を生み
・覚りに近づこうとする
これは一見、正しい修行に見える。
しかし道元は、これを
| 父を捨てて逃げる
と言う。
なぜなら:
・念はすでに仏道の只中
・そこから「次」を求めた瞬間
・念そのものを裏切っている
Ⅲ.「念中発智」という罠
| 念中発智と学するは、纏縛之甚なり
ここは、さらに厳しい。
・念の中で
・智慧が生じる
・深まりが起こる
一見すると、最上の理解。
しかし道元は断言する。
| 最も強い縛りである
理由は明確です。
・念を
「手段」にしてしまった
・念を
「利用可能な機能」にした
その瞬間、
念はすでに正念ではない。
Ⅳ.「無念=正念」という誤解を切る
| 無念はこれ正念といふは外道なり
これは、現代にも直撃します。
・思考が止まった
・何も浮かばない
・空白になった
それを「正念」と呼ぶ。
道元は、はっきり言う。
| それは外道
なぜなら:
・無念を目標にしている
・状態を価値化している
正念は
「状態」ではない。
Ⅴ.自然化・神秘化としての「念」を排除する
| 地水火風の精霊を念とすべからず
・自然エネルギー
・宇宙意識
・元素の霊性
これらを「念」と呼ぶのは誤り。
正念は、
・宇宙論でも
・神秘体験でも
・自然信仰でもない。
Ⅵ.心理主義としての「念」を排除する
| 心意識の顛倒を念と称ぜず
これも重要です。
・内観
・感情観察
・思考のメタ認知
それらは
心意識の操作にすぎない。
正念は、
・心を対象化する技術ではない
・意識を整える方法でもない。
Ⅶ.では、正念とは何か
すべてを否定したあと、
道元は最後に、たった一つだけ示します。
| 汝得吾皮肉骨髄、すなはち正念道支なり
ここが決定点です。
「皮肉骨髄」とは何か
・理解の段階ではない
・技術の巧拙でもない
仏祖の身心そのものを、
そのまま引き受けていること
・皮だけ取るな
・肉だけ取るな
・骨だけ取るな
・髄だけ取るな
分けずに、丸ごと生きているか
それが正念。
Ⅷ.正念とは「用いるもの」ではない
ここまでの否定をまとめると、正念は:
・智慧を生む手段ではない
・覚りに至る技法ではない
・心理状態でもない
・無心の境地でもない
すでに生きている姿そのもの
・坐る
・立つ
・拝む
・食べる
・排泄する
そのすべてにおいて、
・取り違えていない
・逃げていない
・付け足していない
Ⅸ.正念と正精進の決定的な違い
・正精進:
自我を抉り出す
・正念:
抉り出されたあとに、
そのまま立っていること
動かないことではない考えないことでもない
ずれていないこと
Ⅹ.この一段の最終的構造
道元はここで、
正念をめぐるすべての逃げ道を塞いでいます。
・賢くなる逃げ道
・静まる逃げ道
・神秘に溶ける逃げ道
・心理に還元する逃げ道
逃げずに残るものが、正念。
Ⅺ.参究の一句(結語)
| 正念とは
| 念を操ることではない
| 念を評価することでもない
| 逃げずに
| この身心を
| 仏祖の身心として
| 使い切っていること
| それ以上でも
| それ以下でもない
最後に(決定的に重要)
この文は、
「正念を身につけよ」と言っていません。
正念でないものを、
すべて捨てよ
と言っています。
・念で賢くなろうとする心
・念で安心しようとする心
・念で悟ろうとする心
それらをすべて捨てて、
なお残るもの。
| それが、
| 汝得吾皮肉骨髄
| ——正念道支です。
ここに至って、
八正道は技法ではなく、
生き方そのものとして完結します。