では、この一段を「不染汚」という一語を軸にして、仏道的に深掘りします。
ここは『唯仏与仏』の核心の一つであり、修行・悟り・人格論をすべて裏切る場所です。
仏道的に深掘りする視点
――「不染汚」とは、清らかさの概念ではなく、〈関与しない在り方〉である
① 「不染汚」は「きれい」という意味ではない
まず最重要点。
| 不染汚 ≠ 清浄・純粋・理想的状態
もしそう理解した瞬間、
・汚れた私
・清らかな境地
という二項対立が立ち上がり、
この文章そのものに背くことになります。
道元が言う不染汚とは、
| 染まらないことを目指さないこと
|
| 汚れを避けようとしないこと
です。
② 「趣向なく、取舍なからんと、しひていとなみ」
ここが決定的です。
| 取捨なからんと、しひていとなみ
つまり、
・取らないようにしよう
・捨てないようにしよう
・公平であろう
・偏らないようにしよう
こうした修行的努力そのものが、すでに染汚だと言っています。
「不染汚であろうとする意図」自体が、最大の染汚
③ 「つくろひするにはあらぬ」
これは倫理否定でも無関心でもありません。
・正しくあろうとしない
・美しくあろうとしない
・仏らしくあろうとしない
という意味です。
なぜなら、
「仏らしさを装う」という行為が、すでに仏でない立場だから。
④ 人に会っても「面目を覚えない」
| 人にあふに、面目のいかやうなるとおぼえぬ
ここは非常に具体的です。
普通は人に会うと、
・いい人
・嫌な人
・気になる
・評価する
という無意識の選別が起こります。
しかし不染汚の面目では、
・評価が起こらないのではない
・印象が消えるのでもない
「評価する主体」が立ち上がらない
⑤ 花にも月にも「光色を重ねない」
| はなにも月にも今ひとつの光色おもひかさねず
これは美的感性の否定ではありません。
・花を美しいと思ってはいけない

・月に感動してはいけない
ではなく、
| 「美しいと感じている私」を成立させない
ということ。
⑥ 「春はただ春ながら、秋はただ秋ながら」
ここで道元は季節の比喩を使います。
・春を好む心
・秋を好む心
・春に執着し
・秋を拒む
そのどちらも起こらない。
しかし、
| 春を排除しない
| 秋を排除しない
ただ、
・春は春として現れ
・秋は秋として現れる
⑦ 「われにあらざらんとするには、われなる」
ここは逆説の刃です。
・「これは自分ではない」と切り離す
・「無我であろう」とする
それ自体が最も強い「我」だと言っています。
だから道元は、
| われならんとするにも
| われにあらざるにても
| かへりみるべし
と、逃げ道をすべて塞ぐ。
⑧ 四大五蘊にも「われ」はないが、否定もしない
| 四大五蘊、各各われとわれとすべきにてもあらず
重要なのは、
・「四大五蘊=我ではない」と言い切らない
・しかし「我である」とも言わない
どちらの立場も取らない
これが「不染汚」の実際。
⑨ 「われにあらぬをわれとおもふ」
ここがこの段の核心です。
通常の仏教なら、
・「それは我ではない」と見破れ
と言います。
しかし道元は、
| われにあらぬをわれとおもふ
と、その事実を否定しない。
しかも、
| さもあらばあれ
とまで言い切る。
誤りを正そうとしない地点
それが不染汚。
⑩ そのとき「行履が隠れない」
| おのづから道にある行履も
| かくれざりける本来の面目
ここで初めて結論が出ます。
・正しい行をしようとしない
・修行らしく振る舞わない
・仏らしく装わない
そのとき、
| 道にある行履は、自然に現れる
最終凝縮
| 不染汚とは、
| 清らかになることではない。
|
| 汚れを嫌わないことでもない。
|
| ただ、
| 取ろうとする手も、
| 捨てようとする手も、
| どちらも起こらない地点である。
そこでは、
・われであろうとする必要もなく
・われであるまいとする必要もなく
そのまま現れていること自体が、面目
これが
「唯仏与仏」の不染汚です。