万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
Posted: 木 1 01, 2026 1:48 am
万法ともにわれにあらざる時節、
まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
——道元(『正法眼蔵』)
直前の一句
「法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり…」
と対(つい)をなす決定打です。
ここで道元は、世界の“別の層”を示します。否定でも到達目標でもない、同時に成り立つ別相です。
1) 「われにあらざる」——自己否定ではない
まず最大の誤解から。
・自分を否定する
・無我を観念的に理解する
| 万法が“私の所有・視点・尺度”になっていない
| それだけを言っています。
「われにあらざる」とは、
主語としての〈私〉が世界の前に出ていないという構造の話。
2) なぜ、迷悟・仏衆生・生滅が「なくなる」のか
これは消滅論ではありません。
道元は、事象を消しているのではなく、区別を立てる主体を外しています。
・迷/悟
・仏/衆生
・生/滅
これらは、
| “私が測る”ときに成立する区別
万法がわれにあらざるとき、
測る者がいない。
ゆえに、区別が立たない=「ない」。
3) 二つの「時節」は対立しない
重要なのは、前の一句と矛盾しないこと。
・迷悟・生死・仏衆生がある時節
・それらがない時節
どちらか一方が真理ではない。
| 同一の現成が、
| 主語の立ち方によって、
| 二つの相を取っているだけ。
否定→肯定、肯定→否定、という段階論ではありません。
4) 「ない」は完成形ではない
この文を「究極」「最上」と読むと外れます。
・ここに到達したら完成
・ここが最も深い境地
道元は序列を作らない。
| 迷悟が“ある”相も、
| 迷悟が“ない”相も、
| どちらも仏法の現成。
どちらかに居座ると、即座に迷う。
5) 坐禅の現場での具体像
・雑念が出る/静かになる →(測る)
・良い坐/悪い坐 →(比べる)
これが「われにある」時節。
一方、
・坐が坐として起きている
・評価が立たない
| このとき、迷悟・良悪は“ない”。
| だが、坐は消えていない。働きだけが残る。
6) 生なく滅なし——生死否定ではない
「生がない」「滅がない」は、
生きない/死なない、という意味ではありません。
| 生死を“どうにかする主体”が立たない
| それだけ。
生は生として起き、
死は死として起きる。
だがそれを掴む手がない。
7) 現代的な読み替え——“自己中心ナレーション”の停止
私たちは常に、
・私は迷っている
・私は成長している
・私は衰えている
という自己物語で世界を読む。
この一句は、そのナレーションを止める。
| 世界は、
| 私の物語を必要としていない。
| それでも、世界は正確に起きている。
8) 落とし穴
ここに堕ちやすい誤読。
無関心・虚無
価値否定
苦の無視
「ない」は遮断ではない。
むしろ、関与が純化する。
ひと言で凝縮すると
万法が“私のもの”でなくなったとき、
迷いも悟りも、仏も衆生も、
測る基準を失って立たなくなる。
だが世界は止まらない。
止まらずに、ただ正確に働きつづける——
それが、この時節である。
ここで対句は完成です。
次に進むなら——
・二つの時節は日常でどう切り替わるか
・「有」と「無」を往復する実践の要点
・なぜ道元は“中道”という語を使わないのか
どこを、さらに詰めますか。
まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
——道元(『正法眼蔵』)
直前の一句
「法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり…」
と対(つい)をなす決定打です。
ここで道元は、世界の“別の層”を示します。否定でも到達目標でもない、同時に成り立つ別相です。
1) 「われにあらざる」——自己否定ではない
まず最大の誤解から。
・自分を否定する
・無我を観念的に理解する
| 万法が“私の所有・視点・尺度”になっていない
| それだけを言っています。
「われにあらざる」とは、
主語としての〈私〉が世界の前に出ていないという構造の話。
2) なぜ、迷悟・仏衆生・生滅が「なくなる」のか
これは消滅論ではありません。
道元は、事象を消しているのではなく、区別を立てる主体を外しています。
・迷/悟
・仏/衆生
・生/滅
これらは、
| “私が測る”ときに成立する区別
万法がわれにあらざるとき、
測る者がいない。
ゆえに、区別が立たない=「ない」。
3) 二つの「時節」は対立しない
重要なのは、前の一句と矛盾しないこと。
・迷悟・生死・仏衆生がある時節
・それらがない時節
どちらか一方が真理ではない。
| 同一の現成が、
| 主語の立ち方によって、
| 二つの相を取っているだけ。
否定→肯定、肯定→否定、という段階論ではありません。
4) 「ない」は完成形ではない
この文を「究極」「最上」と読むと外れます。
・ここに到達したら完成
・ここが最も深い境地
道元は序列を作らない。
| 迷悟が“ある”相も、
| 迷悟が“ない”相も、
| どちらも仏法の現成。
どちらかに居座ると、即座に迷う。
5) 坐禅の現場での具体像
・雑念が出る/静かになる →(測る)
・良い坐/悪い坐 →(比べる)
これが「われにある」時節。
一方、
・坐が坐として起きている
・評価が立たない
| このとき、迷悟・良悪は“ない”。
| だが、坐は消えていない。働きだけが残る。
6) 生なく滅なし——生死否定ではない
「生がない」「滅がない」は、
生きない/死なない、という意味ではありません。
| 生死を“どうにかする主体”が立たない
| それだけ。
生は生として起き、
死は死として起きる。
だがそれを掴む手がない。
7) 現代的な読み替え——“自己中心ナレーション”の停止
私たちは常に、
・私は迷っている
・私は成長している
・私は衰えている
という自己物語で世界を読む。
この一句は、そのナレーションを止める。
| 世界は、
| 私の物語を必要としていない。
| それでも、世界は正確に起きている。
8) 落とし穴
ここに堕ちやすい誤読。
「ない」は遮断ではない。
むしろ、関与が純化する。
ひと言で凝縮すると
万法が“私のもの”でなくなったとき、
迷いも悟りも、仏も衆生も、
測る基準を失って立たなくなる。
だが世界は止まらない。
止まらずに、ただ正確に働きつづける——
それが、この時節である。
ここで対句は完成です。
次に進むなら——
・二つの時節は日常でどう切り替わるか
・「有」と「無」を往復する実践の要点
・なぜ道元は“中道”という語を使わないのか
どこを、さらに詰めますか。