Re: 有時拄杖払子、有時露柱灯篭。
Posted: 金 1 02, 2026 10:19 am
有時拄杖払子、有時露柱灯篭。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元
この一句は、「有時(うじ)」巻のなかでも、修行と世界・主体と客体の境界が完全に溶ける地点を、最小限の語で示した核心文です。
要点は、「道具か/自然物か」ではありません。“何が時として立っているか”です。
1. 拄杖・払子 —— 修行の〈側〉にあるもの
・拄杖(しゅじょう):僧が用いる杖。歩行・指示・威儀の具
・払子(ほっす):説法や問答で振る法具
どちらも、
・人の手にあり
・意図・使用・行為と結びつく
| 主体の側にある「はたらくもの」
| つまり、「私が使う」「僧が持つ」ものとして理解されやすい。
2. 露柱・灯篭 —— 世界の〈側〉にあるもの
・露柱(ろちゅう):庭や建物の柱。黙って立つもの
・灯篭(とうろう):照らすが、意思を持たないもの
こちらは、
・人の意図を離れ
・自然・環境・風景として立つ
| 客体・世界の側にある「ただ在るもの」
3. なぜこの二組が並べられるのか
普通ならこう分けます。
・拄杖・払子=修行者の道具
・露柱・灯篭=無情の世界
しかし道元は、この区別を時間論で崩す。
| ある時は、修行の道具がそのまま“時”として立ち、
| ある時は、無情の柱や灯が、そのまま“時”として立つ。
どちらが高い・低いではない。
どちらも等しく、有時。
4. 有時とは「意味がある」ことではない
重要な誤解を一つ外します。
拄杖は意味がある
露柱は象徴的
ではない。
| 意味・用途・象徴が成立する前に、
| それが“起動している事実”そのものが時。
使われていようが、黙って立っていようが関係ない。
5. 主体と客体が入れ替わる地点
この一句が示す決定点はここです。
・拄杖を使う私
・払子を振る師
という構図が消え、
| 拄杖が拄杖として時になり、
| 払子が払子として時になる。
同様に、
| 露柱が露柱として時になり、
| 灯篭が灯篭として時になる。
「私が今いる」という主語が、要らなくなる。
6. 無情説法・無情有仏性への直結
この一句は、道元の有名な思想と直結します。
・無情説法
・無情成仏
| 説くのは人ではない。
| 仏になるのは心ある者だけではない。
| “時として立つこと”そのものが仏道の働き。
露柱や灯篭は、沈黙のまま時を説いている。
7. 坐禅・日常への落とし込み
坐禅の場で言えば、
・姿勢を正す意識 → 拄杖・払子の側
・床・壁・音・光 → 露柱・灯篭の側
だが有時では、
| どちらかに寄らない。
| いま起動しているものが、
| そのまま“時”になる。
意識も、環境も、選ばれない。
8. 現代的に言い換える
| あなたの操作している手も、
| ただそこにある壁も、
| 起動しているかぎり、
| 同じ重さで“いま”を成立させている。
9. 落とし穴
・
修行中心主義(人だけが主役)
・
自然神秘主義(物が特別)
・
象徴読み(詩的比喩に回収)
道元は、ロマンではなく厳密さを語っている。
ひと言で凝縮すると
「有時拄杖払子、有時露柱灯篭」とは、
行為の道具も、沈黙の物も、
起動しているかぎり、等しく“時”であるという宣言。
主体が使うか、世界に在るかは問題ではない。
そのものが立った瞬間、
それが宇宙の現在になる。
次に進むなら——
・無情説法と有時の完全一致
・なぜ道元は「人間中心」を徹底的に外すのか
・現代の道具依存社会で、有時はどう失われるか
どこを掘りますか。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元
この一句は、「有時(うじ)」巻のなかでも、修行と世界・主体と客体の境界が完全に溶ける地点を、最小限の語で示した核心文です。
要点は、「道具か/自然物か」ではありません。“何が時として立っているか”です。
1. 拄杖・払子 —— 修行の〈側〉にあるもの
・拄杖(しゅじょう):僧が用いる杖。歩行・指示・威儀の具
・払子(ほっす):説法や問答で振る法具
どちらも、
・人の手にあり
・意図・使用・行為と結びつく
| 主体の側にある「はたらくもの」
| つまり、「私が使う」「僧が持つ」ものとして理解されやすい。
2. 露柱・灯篭 —— 世界の〈側〉にあるもの
・露柱(ろちゅう):庭や建物の柱。黙って立つもの
・灯篭(とうろう):照らすが、意思を持たないもの
こちらは、
・人の意図を離れ
・自然・環境・風景として立つ
| 客体・世界の側にある「ただ在るもの」
3. なぜこの二組が並べられるのか
普通ならこう分けます。
・拄杖・払子=修行者の道具
・露柱・灯篭=無情の世界
しかし道元は、この区別を時間論で崩す。
| ある時は、修行の道具がそのまま“時”として立ち、
| ある時は、無情の柱や灯が、そのまま“時”として立つ。
どちらが高い・低いではない。
どちらも等しく、有時。
4. 有時とは「意味がある」ことではない
重要な誤解を一つ外します。
ではない。
| 意味・用途・象徴が成立する前に、
| それが“起動している事実”そのものが時。
使われていようが、黙って立っていようが関係ない。
5. 主体と客体が入れ替わる地点
この一句が示す決定点はここです。
・拄杖を使う私
・払子を振る師
という構図が消え、
| 拄杖が拄杖として時になり、
| 払子が払子として時になる。
同様に、
| 露柱が露柱として時になり、
| 灯篭が灯篭として時になる。
「私が今いる」という主語が、要らなくなる。
6. 無情説法・無情有仏性への直結
この一句は、道元の有名な思想と直結します。
・無情説法
・無情成仏
| 説くのは人ではない。
| 仏になるのは心ある者だけではない。
| “時として立つこと”そのものが仏道の働き。
露柱や灯篭は、沈黙のまま時を説いている。
7. 坐禅・日常への落とし込み
坐禅の場で言えば、
・姿勢を正す意識 → 拄杖・払子の側
・床・壁・音・光 → 露柱・灯篭の側
だが有時では、
| どちらかに寄らない。
| いま起動しているものが、
| そのまま“時”になる。
意識も、環境も、選ばれない。
8. 現代的に言い換える
| あなたの操作している手も、
| ただそこにある壁も、
| 起動しているかぎり、
| 同じ重さで“いま”を成立させている。
9. 落とし穴
・
・
・
道元は、ロマンではなく厳密さを語っている。
ひと言で凝縮すると
「有時拄杖払子、有時露柱灯篭」とは、
行為の道具も、沈黙の物も、
起動しているかぎり、等しく“時”であるという宣言。
主体が使うか、世界に在るかは問題ではない。
そのものが立った瞬間、
それが宇宙の現在になる。
次に進むなら——
・無情説法と有時の完全一致
・なぜ道元は「人間中心」を徹底的に外すのか
・現代の道具依存社会で、有時はどう失われるか
どこを掘りますか。