有時拄杖払子、有時露柱灯篭。

有時拄杖払子、有時露柱灯篭。
有時拄杖払子、有時露柱灯篭。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元

この一句は、「有時(うじ)」巻のなかでも、修行と世界・主体と客体の境界が完全に溶ける地点を、最小限の語で示した核心文です。
要点は、「道具か/自然物か」ではありません。“何が時として立っているか”です。

1. 拄杖・払子 —— 修行の〈側〉にあるもの

・拄杖(しゅじょう):僧が用いる杖。歩行・指示・威儀の具
・払子(ほっす):説法や問答で振る法具

どちらも、

・人の手にあり
・意図・使用・行為と結びつく

| 主体の側にある「はたらくもの」
| つまり、「私が使う」「僧が持つ」ものとして理解されやすい。

2. 露柱・灯篭 —— 世界の〈側〉にあるもの

・露柱(ろちゅう):庭や建物の柱。黙って立つもの
・灯篭(とうろう):照らすが、意思を持たないもの

こちらは、

・人の意図を離れ
・自然・環境・風景として立つ

| 客体・世界の側にある「ただ在るもの」

3. なぜこの二組が並べられるのか

普通ならこう分けます。

・拄杖・払子=修行者の道具
・露柱・灯篭=無情の世界

しかし道元は、この区別を時間論で崩す。

| ある時は、修行の道具がそのまま“時”として立ち、
| ある時は、無情の柱や灯が、そのまま“時”として立つ。

どちらが高い・低いではない。
どちらも等しく、有時。

4. 有時とは「意味がある」ことではない

重要な誤解を一つ外します。

❌ 拄杖は意味がある
❌ 露柱は象徴的

ではない。

| 意味・用途・象徴が成立する前に、
| それが“起動している事実”そのものが時。

使われていようが、黙って立っていようが関係ない。

5. 主体と客体が入れ替わる地点

この一句が示す決定点はここです。

・拄杖を使う私
・払子を振る師

という構図が消え、

| 拄杖が拄杖として時になり、
| 払子が払子として時になる。

同様に、

| 露柱が露柱として時になり、
| 灯篭が灯篭として時になる。

「私が今いる」という主語が、要らなくなる。

6. 無情説法・無情有仏性への直結

この一句は、道元の有名な思想と直結します。

・無情説法
・無情成仏

| 説くのは人ではない。
| 仏になるのは心ある者だけではない。
| “時として立つこと”そのものが仏道の働き。

露柱や灯篭は、沈黙のまま時を説いている。

7. 坐禅・日常への落とし込み

坐禅の場で言えば、

・姿勢を正す意識 → 拄杖・払子の側
・床・壁・音・光 → 露柱・灯篭の側

だが有時では、

| どちらかに寄らない。
| いま起動しているものが、
| そのまま“時”になる。

意識も、環境も、選ばれない。

8. 現代的に言い換える

| あなたの操作している手も、
| ただそこにある壁も、
| 起動しているかぎり、
| 同じ重さで“いま”を成立させている。

9. 落とし穴

❌ 修行中心主義(人だけが主役)
❌ 自然神秘主義(物が特別)
❌ 象徴読み(詩的比喩に回収)

道元は、ロマンではなく厳密さを語っている。


ひと言で凝縮すると

「有時拄杖払子、有時露柱灯篭」とは、
行為の道具も、沈黙の物も、
起動しているかぎり、等しく“時”であるという宣言。
主体が使うか、世界に在るかは問題ではない。
そのものが立った瞬間、
それが宇宙の現在になる。

次に進むなら——

・無情説法と有時の完全一致
・なぜ道元は「人間中心」を徹底的に外すのか
・現代の道具依存社会で、有時はどう失われるか

どこを掘りますか。
有時拄杖払子、有時露柱灯篭。
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