古仏言、 有時高高峰頂立、有時深深海底行。

古仏言、 有時高高峰頂立、有時深深海底行。
古仏言、
有時高高峰頂立、有時深深海底行。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元

この一句は、「有時(うじ)」の連続句群の総決算とも言える位置にあります。
山と海、上と下、静と動——対極のどちらにも“同じ時”が立つことを、最も明瞭な空間イメージで示します。ポイントは「どこに居るか」ではなく、“どの起動が全体として立っているか”です。

1) 「古仏言」——個人見解ではない

ここでの「古仏」は、過去の誰かの名言集ではありません。

| 仏道が仏道として働いてきた“長い実践の声”
| ——道元はそれを現在に直接接続する。

つまり、この言葉はいま起動する規準です。

2) 高高峰頂立 —— 立つ・顕れる・隔絶

・高高:相対化を拒む高さ
・峰頂立:止まり、露わになり、全方位に開ける

ここは、

・明晰
・顕在
・一望
 の相を表すが、価値の上位を意味しない。

| “立つ”という起動が、全体を満たしている時。

3) 深深海底行 —— 行く・潜る・不可視

・深深:測れない深さ
・海底行:進み続けるが、見通しはない

ここは、

・混沌
・不可視
・重圧
 の相を表すが、欠陥や未到達ではない。

| “行く”という起動が、全体を満たしている時。

4) 立と行は、同一の時間構造

普通はこう読む。

・立つ=静
・行く=動

道元は分けない。

| 立つこと自体が運動であり、
| 行くこと自体が成立である。

どちらも、起動の様式が違うだけで、時間の価値は等しい。

5) 上下は、評価ではない

山頂/海底は、

・成功/失敗
・覚醒/迷妄

の比喩にされがちだが、ここでは違う。

| 上でも下でも、
| その位置が“時”を決めるのではない。
| その位置で全体が起動しているかどうかが決める。

6) 修証一等の空間版

修と証が時間で分かれないように、
場所でも分かれない。

・山頂に立てば悟り ❌
・海底に沈めば迷い ❌

| 立っていることも、行っていることも、
| そのまま“証”であり“修”。

7) 坐禅・日常での具体相

・心が澄み、世界が一望できる時 → 峰頂立
・心が重く、先が見えない時 → 海底行

どちらを排除したくなるかが、有時を失う合図。

| いま起動している相を、
| そのまま全体として引き受ける。
| それが有時。

8) 現代的に言い換える

| 調子がいい日も、
| どん底の日も、
| その一日が“全体として立っている”なら、
| 同じ重さの現在である。
| 高さや深さで、時の価値は変わらない。

9) 落とし穴

❌ 成功体験偏重(峰頂至上)
❌ 苦境否定(海底回避)
❌ 心理状態の序列化

道元は励ましも慰めもしていない。
逃げ場を消している。


ひと言で凝縮すると

「有時高高峰頂立、有時深深海底行」とは、
上に居ても、下に居ても、
その場で全体が起動しているなら、
それが等しく“現在”であるという宣告。
高さも深さも、仏道の条件ではない。
起動してしまっていること——それ自体が、有時である。

続けるなら——

・「立」と「行」を分ける心が生む誤解
・有時と“成長曲線”思想の決定的衝突
・苦境の只中で有時を見失わない具体策

どこをさらに掘りますか。
古仏言、 有時高高峰頂立、有時深深海底行。
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