有時張三李四、有時大地虚空。
有時張三李四、有時大地虚空。
■20.有時:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 古仏言、 有時高高峰頂立、有時深深海底行。(1) 有時三頭八臂、有時丈六八尺。(1) 有時拄杖払子、有時露柱灯篭。(1) 有時張三李四、有時大地虚空。(1) いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。(1) 丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。(1) いまの十二時に習学すべし。(1) 三頭八臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし。(1)
★注目スレッド: 古仏言、 有時高高峰頂立、有時深深海底行。(1) 有時三頭八臂、有時丈六八尺。(1) 有時拄杖払子、有時露柱灯篭。(1) 有時張三李四、有時大地虚空。(1) いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。(1) 丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。(1) いまの十二時に習学すべし。(1) 三頭八臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし。(1)
有時張三李四、有時大地虚空。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元
この一句は、「時間」や「存在」を説明する言葉ではありません。
“いま・ここで、何が全体として作動しているか”を一息で言い切る、道元時間論の核心です。
1) 「有時」——“時がある”のではない
現代的に読むと「ある時は〜、ある時は〜」の意味に見えますが、道元の有時(うじ)は違います。
| 存在が、存在として起動している、その起動そのものが“時”。
時間が先に流れ、物がそこに入るのではない。
物(事)が起動すること=時が立つこと。
2) 張三李四——固有名が示すもの
「張三李四」は、ただの例名ではありません。
・無名の一般人
・この人・あの人
・日常の顔と名前
| 具体の人が、そのまま“時”として立っている。
ここには、
・抽象化
・一般化
・観察者の距離
が入り込む余地がない。
名づけられた一人一人が、その瞬間の全時間。
3) 大地虚空——宇宙的全体
対句のもう一方は極端に大きい。
・大地:足元の現実
・虚空:限界なき広がり
| 宇宙全体が、まるごと“時”として立ち上がる瞬間。
ここでも「部分」や「背景」はない。
全体が一挙に作動している。
4) なぜこの二つが“並列”されるのか
普通はこう考える。
・個人 < 世界
・小 < 大
道元は序列を作らない。
| 張三李四の一挙手一投足が、
| そのまま大地虚空である時がある。
| そして逆もまた真。
大小・内外・主体客体は、時の成立条件ではない。
5) 「有時」は選べない
重要な点。
・今日は張三李四の時
・今日は大地虚空の時
と選択できるわけではない。
| 起動してしまっているものが、
| そのまま“有時”。
評価・自覚・理解は、すべて後付け。
6) 修証一等の時間論
修行と悟りを時間で分けない道元にとって、
・修行の時間
・悟りの時間
は存在しない。
| 張三李四として働いているその事実が、
| すでに大地虚空として完成している“時”。
だから「途中」や「未完」という逃げ道がない。
7) 坐禅・日常への落とし込み
・坐っている“私” → 張三李四
・坐が坐として世界を満たす → 大地虚空
どちらかを取るのではない。
| いま坐っているこの具体が、
| そのまま全体として作動している。
これを分けた瞬間、有時は見失われる。
8) 現代的に言い換える
| あなたの今日の一動作は、
| “取るに足らない一瞬”ではない。
| それが起動しているかぎり、
| 宇宙全体がその動作として成立している。
9) 落とし穴
・
個人軽視(私は小さい)
・
神秘的全体論(私は溶ける)
・
時間哲学への還元
道元は詩で逃げていない。
生の厳密さを示している。
ひと言で凝縮すると
「有時張三李四、有時大地虚空」とは、
時間は流れる器ではなく、
存在が全体として起動するその出来事だという宣告。
名もなき一人が立つとき、
世界全体がその人として“時”になる。
次に深めるなら——
・有時と「而今」の決定的差異
・なぜ道元は“時間を測らせない”のか
・現代のスケジュール時間が有時を奪う仕組み
どこを続けますか。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元
この一句は、「時間」や「存在」を説明する言葉ではありません。
“いま・ここで、何が全体として作動しているか”を一息で言い切る、道元時間論の核心です。
1) 「有時」——“時がある”のではない
現代的に読むと「ある時は〜、ある時は〜」の意味に見えますが、道元の有時(うじ)は違います。
| 存在が、存在として起動している、その起動そのものが“時”。
時間が先に流れ、物がそこに入るのではない。
物(事)が起動すること=時が立つこと。
2) 張三李四——固有名が示すもの
「張三李四」は、ただの例名ではありません。
・無名の一般人
・この人・あの人
・日常の顔と名前
| 具体の人が、そのまま“時”として立っている。
ここには、
・抽象化
・一般化
・観察者の距離
が入り込む余地がない。
名づけられた一人一人が、その瞬間の全時間。
3) 大地虚空——宇宙的全体
対句のもう一方は極端に大きい。
・大地:足元の現実
・虚空:限界なき広がり
| 宇宙全体が、まるごと“時”として立ち上がる瞬間。
ここでも「部分」や「背景」はない。
全体が一挙に作動している。
4) なぜこの二つが“並列”されるのか
普通はこう考える。
・個人 < 世界
・小 < 大
道元は序列を作らない。
| 張三李四の一挙手一投足が、
| そのまま大地虚空である時がある。
| そして逆もまた真。
大小・内外・主体客体は、時の成立条件ではない。
5) 「有時」は選べない
重要な点。
・今日は張三李四の時
・今日は大地虚空の時
と選択できるわけではない。
| 起動してしまっているものが、
| そのまま“有時”。
評価・自覚・理解は、すべて後付け。
6) 修証一等の時間論
修行と悟りを時間で分けない道元にとって、
・修行の時間
・悟りの時間
は存在しない。
| 張三李四として働いているその事実が、
| すでに大地虚空として完成している“時”。
だから「途中」や「未完」という逃げ道がない。
7) 坐禅・日常への落とし込み
・坐っている“私” → 張三李四
・坐が坐として世界を満たす → 大地虚空
どちらかを取るのではない。
| いま坐っているこの具体が、
| そのまま全体として作動している。
これを分けた瞬間、有時は見失われる。
8) 現代的に言い換える
| あなたの今日の一動作は、
| “取るに足らない一瞬”ではない。
| それが起動しているかぎり、
| 宇宙全体がその動作として成立している。
9) 落とし穴
・
・
・
道元は詩で逃げていない。
生の厳密さを示している。
ひと言で凝縮すると
「有時張三李四、有時大地虚空」とは、
時間は流れる器ではなく、
存在が全体として起動するその出来事だという宣告。
名もなき一人が立つとき、
世界全体がその人として“時”になる。
次に深めるなら——
・有時と「而今」の決定的差異
・なぜ道元は“時間を測らせない”のか
・現代のスケジュール時間が有時を奪う仕組み
どこを続けますか。
有時張三李四、有時大地虚空。